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9.河童神社(2)

真っ青に晴れ渡った空に朝日が輝いていた。一面の雪景色が思う存分陽光を反射している。黒いゴーグルで目を守った歯科医は、固く凍り付いた木橋の上に、アイゼンを付けた登山靴を踏み出す。雪に食い込む歯の音が心地よい。標高八十メートルほどの浅間山でも、今朝は立派な雪山だった。歯科医は慎重にピッケルを突き立て、雪に覆われた山道を登っていった。
山頂から見下ろす雪晴れの山地は光の洪水だった。真っ白な雪原が峻険な山峡を美しく覆い隠している。この瞬間、雪は時間さえ掻き消したかに見える。累々と堆積した汚れきった歴史を、白一色の原初の色が塗りつぶしてくれているのだ。北側の蔵屋敷も、西のドーム館も、東の学校も、一面の銀世界で見分けることができない。恐らく、見渡すことのできない築三百年の屋敷の沢も、清浄な白が覆っているに違いない。

「ウッ」
思わず歯科医の口に声が溢れた。声は言葉にならず、ただの音として雪原に落ちた。堪らない懐かしさと優しさが腹の底から込み上げ、音となってこぼれ落ちたようだ。
「思い残すことはない」
今度は音が意味を持った。言葉を口にした瞬間、さも憎々しいことを口走ってしまったような悔恨が脳裏を掠めた。もう、言葉も思念も要らなかった。歯科医は口を真一文字につぐんで、河童神社の小さな祠の前に進んだ。背負ってきたリュックを下ろしてしゃがみ込む。リュックの中から二体の河童人形を取り出し、雪の上に並べた。これまで奉納したクレードールと違い、立派に焼き上げた大振りの磁器人形だった。相変わらず河童が寝そべった姿だが、ユーモラスな姿態が雪の中に映える。妖怪の河童に雌雄があるかどうか知れないが、二体の人形はちょうど素裸の男女に見えた。歯科医は思わず目を見張り、二体の河童人形を見た。笑い掛けられたような気がしたのだ。にこやかに微笑み掛ける河童の顔がMとピアニストの表情に見えた。続いて歯科医と妻の表情に変わる。じっと見つめると、進太の顔が浮かび上がった。せっかくのときめいた気分が暗くなってしまう。首を左右に振ってから、目を覆った黒いゴーグルを外した。途端に両眼を光の洪水が襲った。希望に満ちた黄金色の輝きだった。いつしか進太はMの真意を知り、自らが生きる道のしるべにできるかもしれない。そのちっぽけな真実が芽を吹き、育っていくことが残された希望だと思った。だが、失われた希望に比べると、それは遥かな将来に向けて夢を繋ぐことだ。決して見届けることはできない。長く生きすぎてしまった気がした。急に悲しさが込み上げてきたが、涙を押し止める。祠の扉に手を伸ばして大きく開け広げた。白い光が黒光りのするレミントンM1100を浮き上がらせた。背筋が寒くなったが、凶々しい凶器を両手で握った。あの日、ここから事件の一部始終を見てから山を下り、Mが犯した罪の証拠を持ち去ってきて本当に良かったと思う。そのお陰で、次の世代に夢を繋ぐことができたのだ。冷たい銃身が愛おしくてならない。ドーム館の前に転がっていた、二つの首のない死体が脳裏に甦った。もうじき清浄な雪の上にもう一つの首無し死体が横たわるのだ。そして、ちっぽけな希望だけが確実に残る。雪原は明日には溶け去る。だが、残された希望は地中に染み込み、ゆっくりとこの山地に染み込んでいくはずだった。

歯科医はにこやかに笑って立ち上がった。大きく胸を張って、白一色の山地をまぶしそうに見渡した。




第9章 拉致 ―完―

明日より、第10章(最終章) 巡礼 お楽しみに!

9.河童神社(1)

十二月の下旬に雪が積もった。昼前から粉雪が舞い続け、午後からは風を伴って激しく降った。雪は深々と積もり、夜になってやんだ。夜半には月が上がり、白々とした光が山地全体に満ちた。底冷えのする外気が室内にも忍び寄って来る。歯科医は母屋の二階からまばたきもせずに、異数の世界を見下ろしていた。この冬初めての雪景色だ。蔵屋敷の屋根の様子では、二十センチメートルほども積もっている。リビングの高窓に明かりが灯っていた。午前三時が近いというのに、Mと進太はまだ話し合っているようだ。あの凶々しい事件の後、進太は登校するようになっていた。そして、Mと二人で話し合う夜が続いている。傍目には家族の団欒が戻ってきたようにも見えるが、歯科医の気は重かった。Mと進太の間には、まるで真剣勝負をしているような緊張感が漂っている。ことにMは、名淵検事を安楽死させたという主張が通らなかったときから、悲壮感さえ漂わせて進太と対峙していた。

女教師と検事の殺人事件は、被疑者死亡のまま書類送検されて事件後三週間で完結した。自殺したチハルが一切の責任を背負って地獄に堕ちたのだ。だが、幾つかの疑問が残った。清美が追突され、拉致された晩のチハルのアリバイは完璧だった。祐子とチーフ、それに声を聞いたMの三人の証人がいる。チハルが清美の自転車に追突できなければ、拉致監禁の動機も、殺害する理由もない。ゲレンデヴァーゲンの荷物室にあった素っ裸で緊縛された射殺死体だけが事実として残った。また、肝心の凶器も発見されなかった。Mが名淵を安楽死させたと言って、警察に自首した後の現場から、レミントンM1100は忽然と無くなっていた。結局、名淵が死の寸前まで、愛用のライカM6で撮影した写真が、すべてを物語る証拠となった。そこには、築三百年の屋敷の廃墟で後ろ手に縛られたMの裸身があり、精悍な表情で銃を構えたチハルの最期の姿もあった。警察は検事とMの愚行に目をつむって捜査を終了させた。例え猟奇の匂いがする疑問が残っても、損失を負う者はいない。何よりも、名淵検事の名誉が優先された。殉職者を鞭打つことは許されなかった。その間、進太は貝のように口を閉じて沈黙を守った。築三百年の屋敷がある沢に無数に残されたモトクロス・バイクの轍の跡は、捜査員全員の目に入っていた。しかし、事件を単純に解決する必要のあった彼らは、中学校二年生への尋問を回避した。誰もが猟奇の匂いを忌避したのだ。

歯科医の目にも、進太は事件の重大な鍵を握っている様子に見えた。落ち着きの無くなった、荒んだ態度を危ぶみもした。だが、Mが接触を続けるうちに、進太の様子も変わってきた。いまは、毎晩のように二人で蔵屋敷のリビングにこもって話し合いを続けている。Mは初めて、自分の体験してきたことを進太に話し始めたらしかった。自らの身体で突き当たり、理解してきた事実を、語り部のように進太に伝えている。時としてそれは、今夜のように夜明け近くにまで及んだ。歯科医は微笑みを浮かべて蔵屋敷の高窓を見下ろした。幾ばくの淋しさを感じたが、何よりも雪景色がうれしかった。今夜はもう眠れそうにない。そっと窓辺を離れて納戸に向かった。

畳三畳の納戸の一番奥で、歯科医は棚に置いてある黒い行李を床に下ろした。無造作に蓋を開くと、寒々とした蛍光灯の明かりの中に埃が舞った。行李の中には古い登山道具が収納してある。見つめる歯科医の目が輝き出す。寒さに震える手でピッケルを握った。硬い樫材の感触が手に優しい。無骨な登山靴とアイゼンも取り出す。さすがにアイゼンの歯は赤錆びていた。どれもが懐かしい、医学生のころの大切な品だ。この装備を身に着けて何度も谷川岳に挑んだものだ。いずれは息子のピアニストと一緒に山に登りたいと思い、大切に行李に仕舞ったことを覚えている。だが、ピアニストは山に関心を示さなかった。息子と一緒に山に登る道もあったと思うと、目頭が熱くなる。だが、失ってしまった時間も、死んだピアニストも帰っては来ない。歯科医は黙々と登山の支度をして夜明けを待った。全身に悲しさが満ちる。

8.終焉(11)

「ウワッー」
絶叫を上げて走り寄ったMの前に、腹を押さえた名淵が倒れかかる。脚に温かい血しぶきが飛んだ。構わず全身を躍らせてチハルにぶつかっていく。体当たりされる寸前でチハルが身をかわし、脚を飛ばしてMの足を払った。もんどり打って裸身が倒れる。
「憎らしい女だ。だが、お前までは殺しはしない。私は疲れた。変態らしく寝ているがいい」
無様に倒れたMの縄尻を掴んで、チハルがつぶやき続ける。荒々しい手つきで倒れた身体をうつ伏せにして、後ろ手の縄尻を足首に縛り付けた。逆海老の姿勢で縛られた裸身が屈辱に震える。無理をして頭をもたげ、チハルを見上げた。背後に倒れ伏した名淵が絶え間なくうめき声を上げている。

「Mに看取られて死ぬのは悔しいが、こうして責め上げてやれば諦めもつく。さあもっと、淫らな尻を振って悶えて見せてよ」
チハルの静かな声が頭上から落ちた。見上げる顔の前に汚れきったジャングルブーツが飛んできた。チハルが銃を持ってMの前に座った。銃口を口に含み、足を投げ出して引き金に足指をかけた。
「チハル、やめなさい。死んではダメッ」
声を振り絞ってMが叫んだ。チハルがMの顔を見下ろす。逆海老に縛られた裸身が全身を身悶えさせて叫んでいる。生のエネルギーが目にまぶしい。まるで官能の極みで打ち震えているように見える。Mの陰門はきっと、愛液で濡れそぼっているに違いないと思った。ひそかな羨ましさが込み上げ、チハルの口元に微笑が浮かんだ。足指に力を入れて引き金を引いた。


ズガーン


銃声が響き渡り、チハルの頭が砕け飛んだ。紫紺のスーツに身を包んだ首の無い身体が目の前に倒れている。Mの裸身が戦慄し、激しく嘔吐した。大きくしゃくり上げた瞬間に、逆海老に縛られた後ろ手の縄が抜けた。痺れきった両手を伸ばし、倒れたチハルの足をさすった。素肌の温かさが指先に伝わる。不思議に涙は湧いてこない。がらんどうになった身体を悲しみが満たした。

「Mさん、早く救急車を呼んでください。苦しくて、もう死にそうだよ。早く、早く救急車を呼んでくれ」
背後で哀れな声が聞こえた。思えば声は、ずっとMに呼び掛けていたような気がする。空しい煩わしさが押し寄せてきたが、気力を振り絞って足首の縄を解き、よろよろと立ち上がった。無気力に振り返ると、乾ききった地面を大量の血で黒く染め上げた中心に名淵が横たわっている。裂けた腹からはみ出た内蔵を手で押さえて、泣き声で訴え続けている。
「救急車を呼んでください。さあ、早く。明日は日曜日だ、Mさんも病院に付き添ってください。お願いします。まだ死にたくない」
確実に死が迫った名淵が必死に訴える。官能のかけらも感じられない貧相な声だ。情けなかった。情けなさに身を震わした瞬間、坂の下からバイクのエンジン音が響いてきた。Mはチハルの首のない死体に近寄り、握っていたレミントンM1100を奪った。名淵の前に戻って、苦痛に歪んだ顔を見下ろす。薄目を開いた名淵が縋るようにMを見上げた。
「検事さん、チハルと同じように、あなたにも日曜日は要らない。私が楽にして上げるわ」

落ち着いた声を聞いた名淵の目に恐怖が浮かんだ。Mは大きく目を見開いて真っ赤に膨れ上がった恐怖を見た。無造作に引き金を引く。手に持った重い銃が跳ね上がり、銃声が轟く。名淵の頭が砕け散って、首のない死体が残った。進太のバイクが目の前でUターンしていく。

「バカヤロー」
低い叫び声がエンジンの音に混じって遠ざかっていった。一切を見届けた進太がどのような感情を抱いたか、Mには分からない。だが、もうチハルに頼ることはできないのだ。たまさかの父権は潰えた。後は進太が自分の足で立ち上がるしかない。いくら儚くとも、希望はちっぽけな個人の身体の中にしかないのだ。

また風が立って、冷たい空気が裸身をなぶった。気圧配置が換わり、木枯らしが吹き荒ぶような予感がした。

8.終焉(10)

重りになる石が沢山入るメッシュのトートバッグを持って戻ってきたときには、もう進太の姿はなかった。微かな寂しさがチハルの背筋を這う。胸を張って空を見上げた。正午の太陽が視力を奪う。目尻に涙が滲み、鼻孔がツンッと痛んだ。助手席にバッグを置いて、無造作にゲレンデヴァーゲンを発進させた。荷物室の死体が揺れ、小さく音を立てた。フロントガラスの隅に、坂を上り詰めてきた緑色のオープンカーが飛び込んできた。目の前でタイヤを鳴らし、急停車する。山土が赤い埃になって舞い上がった。ハンドルを握ったダークスーツの男に見覚えはなかったが、Mの裸身が助手席に見えた。チハルの口に苦笑が浮かぶ。昨夜サロン・ペインで痴態を晒していた二人が、そのまま殴り込んできた風情だった。スーツ姿の男が意外に敏捷な身ごなしで運転席から降り立つ。首から提げたカメラがユーモラスだ。

「特捜検事の名淵です。司法警察権に基づいて車を捜索します。荷物室を開けて中を見せてください」
よく響く低い声がチハルの耳を打った。理由は分からなかったが、捜査の手が伸びてきたことは事実だった。背後の荷物室には清美の死体がある。素っ裸で射殺された無惨な死体だ。どう足掻いても言い逃れはできない。顔が蒼白になっていくのが分かった。ハンドルを握った手に力が入る。何とか平静を保とうと、MGFの助手席にいるMを見つめた。中腰になった裸身がドアのノブを後ろ手で探っている。背中で縛られた両手が見えた。滑稽な姿だった。チハルの胸に余裕が生まれた。

「素っ裸の変態女を連れた検事さんが、何の容疑で捜索するのかしら。土・日曜日の連休を変態ごっこで楽しんだほうがお似合いだわ」
ドアを半開きにして問い掛けながら、左手を伸ばしてレミントンM1100を引き寄せた。
「清美さんへの当て逃げと、拉致監禁の容疑です。車を降りて、荷物室を開けなさい」
名淵があごを引き締め、毅然とした声で告げた。
「そんなに日曜日が迎えたくないのなら、ずっと土曜日のままにしてあげるよ。ただし、変態女と名残を惜しむ時間はない」
楽しそうに答えたチハルが、ゲレンデヴァーゲンから飛び降りる。左手に握ったレミントンの銃口を名淵に向け、頬付けして構えた。
「ヤメテッ、やめなさい。キヨミ先生を解放すれば、罪もまだ軽いわ」
Mの怒り声が響き渡った。シートの上に立ち上がってチハルを睨みすえる。後ろ手に縛られた腕を無念そうに振ると、豊かな乳房が震えた。銃を構えたチハルが僅かに顔を横に向けてMを睨む。
「出しゃばり女が、もっともらしいことを言うんじゃない。清美は素っ裸で後ろ手に縛られて荷物室に転がっている。もっとも、射殺したから、Mのような無駄口を叩く心配はない」
チハルの一言がMと名淵の身体を凍り付かせた。風が立ち、Mの裸身を冷たさがなぶる。
「とにかく、銃を捨てて投降しなさい。例え今言ったことが事実でも、私を殺して罪を重ねる必要はない。法にも情けはある」

名淵が掠れた声で叫び、首に下げたライカを構えた。透き通るレンズが巨大な目のようにチハルを見つめる。チハルは慎重に照準をのぞいた。銃口を下げ腹部を狙う。二人の距離は三メートルと離れていない。
「私に情けは要らない。これまでに四人も射殺したんだ。人を殺すのは本当に疲れる。だから、もう少しで完璧に疲れ切ることができる。罪を重ねる必要はあるんだ」
ファインダーに映るチハルが、うんざりした声で言った。名淵は白く浮き上がったブライトフレームの中心にあるチハルの像を一心にのぞき込む。少し下がった銃口の先に端正な顔があり、紫紺のスーツを着た均整の取れた身体がある。その後ろに枯れきった山塊が見えた。一切が静まり返り、鮮明な像を結んでいる。名淵は冷静にシャッターを切った。続いてチハルの指先が微かに動き、銃口から真っ赤な炎がほとばしった。

8.終焉(9)

「参ったな、銃まで絡んでいるよ。これは散弾の実包だ。十二番口径の鉛玉がひとつ入った強力なやつだ。獣猟にしか使わない」
屈み込んで室の隅を捜していた名淵が、青い散弾のシェルを摘み上げてMに見せた。
「チハルだわ」
「さっき見たゲレンデヴァーゲンか。急ごう、手遅れになる」
思わず口走った言葉に、名淵が過激に反応した。真っ先に外に駆け出す。後ろ手に縛られたMも、よろけながら一心に走った。

「さあ早く、助手席に乗ってくれ。縄を解く暇も、服を着せる時間もない。とにかくゲレンデヴァーゲンを追うんだ」
MがMGFにたどり着くと同時に名淵が叫んだ。座席に追いやるようにしてドアを閉め、運転席に回った。素早くエンジンをかけ、凄いスピードで発進する。後ろ手に縛られた手がシートに押し付けられて痛い。ゲレンデヴァーゲンが駐車してあったところまで来たが、もう影も形もない。路上に降り立った名淵が、荒れ果てた路面の端を丹念に見て回る。Mがドアを開けようとして、後ろ手で苦闘していると、背後から声が飛んだ。
「やっぱりここで事件が起こったんだ。ほら、これは女性の下着だろう」

名淵の手が黒いレースのTバックショーツを広げている。見つめたMの頬が赤く染まった。確かに女性しか穿かない下着だ。
「チハルの家に直行する。どっちの方角に向かえばいいのか教えてくれ」
高ぶった声で名淵が問い掛けてきた。即座にMが答える。
「蔵屋敷の先のドーム館よ。ここから二十分の距離」
「さあ、いくぞ」
勇ましい声を残して、名淵がアクセルを踏んだ。往路とは逆に素っ裸のMには風が寒すぎるくらいだった。


「進太はバイクに乗って帰りなさい」
終始無言のままゲレンデヴァーゲンを運転してきたチハルが、ドーム館の玄関先に車を止めて口を開いた。助手席で硬くなっていた進太の緊張がやっとほぐれる。
「いや、僕もチハルを手伝う」
「足手まといだ」
消え入りそうな進太の声に、チハルがにべもなく答えて地上に降り立つ。車内に取り残された進太の喉元を、また強烈な吐き気が襲った。思わず口元を両手で覆うと、血まみれの死体がまぶたの裏に浮かび上がった。右足が不自然にねじ曲がった無惨な死体だ。足首にはトラバサミの罠が食い込んでいる。罠に繋がれた太い鉄の鎖が獲物を非情に拘束している。素っ裸で後ろ手に緊縛され、大きく股間を開いた死体をチハルが青いビニールシートで覆う。やっとの事で罠を外した足首を、今度はウインチのワイヤーで縛る。再び沢を上がっていったチハルが携帯ウインチを操作すると、しゃがみ込んだ進太の目の前で清美の死体が向きを変え、逆さまになって斜面を上がっていった。見つめる進太は、全身を震わしてしゃくり上げ、何度となく嘔吐した。吐くものが無くなり、苦い胃液だけになっても、吐き続けた。とうに涙は涸れ果てていたが、目は熱くキリキリと痛んだ。死ぬほどの不甲斐なさを恥じたが、どうしても腰が上がらない。真っ白になった視界を後悔が真っ黒に塗り込めていく。昨日の朝に時間を戻したいと、痛切に願った。


「僕はどうしたらいい」
チハルの後ろ姿に縋り付くように問い掛けた。ついさっきの生々しい光景が消え失せ、玄関ドアのノブを握ったチハルが振り返った。紫紺のスーツが泥と血で汚れている。
「帰れと言ったはずだ」
短い答えが返ってきた。進太が泣きべそをかく。
「チハルはどうするのさ」
再び進太が問い返した。チハルが睨み返す。
「死体に重りを付けてから、砂防ダムに沈める」
事務的に答えてドアを開けた。背後で進太が車を降りる気配がした。チハルは真っ直ぐ玄関ホールに入っていった。問い掛けてきた進太の真意は痛いほどよく分かる。今後の生き方について尋ねたのだ。寄る辺無い不安な気持ちを、チハルと分け合っていたい気持ちも分かる。だから、死体遺棄を一緒に手伝いたいと言ったのだ。しかし進太はもう、チハルと同様、たった一人で判断し、決断していくべきだった。それなりの修羅場は潜り抜けたはずだ。さらなる修羅に向かうのか、修羅を希望に変えるのかは、進太が選ぶ問題だった。そしてチハルには、着実に修羅の道を進んでいる自分の後ろ姿が目に見えるようだ。突然、バイクのエンジン音が轟き、すぐ遠ざかっていった。進太が自分の道を歩み始めたらしかった。チハルは静かな足取りで二階に続く階段を上った。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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