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10.告別

素っ裸のMが無人の街路を北に走った。白々とした街灯の光を浴びた裸身が全身で慟哭している。真っ直ぐ歓楽街に向かい、サロン・ペインのドアを開けた。

「チーフ、お願い。祐子を呼んで。車が欲しいの」
フロアに飛び込んだMが大声で叫んだ。カウンターの中で片づけを始めていたチーフの顔が驚愕する。
「どうしたの、M。何があったの」
かすむ視界でカウンターから飛び出して来るチーフの顔が揺れた。聞き慣れた声がほっとさせる。一気に全身の緊張が解け、足元から床に崩れた。

「ピアニストが死んだわ」
小さくつぶやいた声がM自身の耳を打った。確かにピアニストは死んだに違いないと改めて断定した。危篤という曖昧な言葉の裏に隠されているはずの真実がフロアに裸身を投げ出させた。激しい慟哭の声が広いフロアに満ちる。

「Mは、はだか。また、ないてる」
カウンターの前のスツールに座っていた進太が、唄でも歌うように口ずさんだ。途端に甲高い怒声が幼い声を遮る。
「何がピアニストだ。何が結婚だ。醜い、Mは醜すぎる。当てつけがましく修太を殺したときと同じ格好で現れる。ピアニストの遺産が転がり込んで、うれし泣きって所が本音だろうよ」
「睦月、Mに何を言うの。許さないわ」
ホールの奥から響いてきた毒々しい声にチーフが叱声で答えた。
「あっ、ままも、はだかだ」
進太の声に迎えられた睦月も素っ裸だった。以前と変わらないぽっちゃりした裸身に赤い縄が菱形に食い込んでいる。薄い陰毛を分けて股間を割った二条の縄が白い肌に怪しく映えた。裸身は緊縛されていたが両手は自由だ。右肩下の、銃弾が貫通した痕が無惨なひきつれになっていた。

「M、私の姿を見れば思い出すだろう。素っ裸で後ろ手に縛られたMがオシショウを突き飛ばし、拳銃を暴発させた。Mが修太を殺したんだ。そのお前がピアニストの遺産を相続するんだって。進太を抱えて生きていく私はクラブ・ペインクリニックでSMの自縛ショーを始めるんだ。チーフが許さなくても構わない。こんな不条理なことは私も許せない」
憎々しい声でいきまきながら近寄ってきた睦月が進太の横に立った。赤い縄で緊縛された裸身がぶるぶると震え、怒りにひきつった頬を涙が濡らした。

「Mとおなじ、ままも、ないた」
うれしそうにはしゃいだ進太の頬を睦月が張った。幼い頬で鳴る平手打ちの音がホール中に響き渡った。泣きじゃくる進太の声が全員の耳を打つ。電撃に打たれたようにMの裸身が震え、足に力を込めて立ち上がった。

「睦月、進太に罪はないでしょう」
怒りのこもったチーフの声を聞いた睦月が、泣きじゃくる進太を抱き上げた。睦月の口から嗚咽が漏れる。母と子の泣き声がホールを満たした。Mは何も言わない。何も答えようとしない。心を閉ざしたままじっと母と子を見つめていた。

「M、祐子は五分で来るわ。でも、その格好では刑務所に行けない。私の服を着ていってちょうだい。まだ少し二階に荷物が残っているの」
顔をしかめたチーフが気分を変えるようにMに勧めた。クラブに改造予定の二階の部屋で、Mは黒いシルクニットのワンピースを着た。八年前の大晦日の雪の朝に、鋸屋根工場でピアニストに脱がしてもらったワンピースだ。裸身を包む布が心に重い。外で大きくクラクションの音が響き、Mとチーフは階下に降りた。真っ青な顔で、ものも言えずに立ちすくむ祐子の手からMG・Fの鍵を受け取り、真っ直ぐドアに向かった。

「M、覚えておくがいい」
背中に襲い掛かる睦月の叫びにMが振り向く。
「お前は立派に刑期を勤めたと思っているだろうが、私の両親も、極月の両親も、霜月の母も、死刑の判決を受けたピアニストの両親ですら莫大な損害賠償金を市と競艇場に払ったんだ。生き延びた者の刑期をいくらかでも酌量してもらいたいと、爆発で破損した施設の示談に親たちは努めた。そのお陰でピアニストの他は判決が甘かったんだ。私の両親は土地を失い、返しきれない借財を背負った。着の身着のままで仮釈放になった私も進太を抱えて所帯苦労だ。来月からは自分の裸身を縛り上げて金を稼ぐ。M、お前の相続するピアニストの財産は私たち親子にも使う権利がある。決してMだけにいい思いはさせない」
進太を抱いて叫ぶ睦月の裸身が急に大きくなったように見えた。Mは睦月の目を見据えて初めて大きくうなずいた。

ピアニストは囚衣をほぐして作った紐で首を吊って死んだ。五月五日の未明のことだ。ちょうどMが、殺された金貸しの先生の執念の折檻に呻吟している時刻だった。祝日だったため、妻であるMと両親への通報がほぼ一日遅れたのだ。狭い独房の便器の下に寂しく吊り下がったというピアニストの首を絞めた紐は、確かに糸のようなものだったとMは思った。

日本海に面した町の人気ない火葬場にピアニストの両親と並んで座り、焼き上がる骨を待ちながらMは惑う。二人を繋いでいた糸も切れそうなほど細かったが、寄り添い求め合うほど強靱でもあった。ピアニストはMにとって他者としてあったのではない。互いの分身のように反発し、求め合ってきただけだ。そう思えば涙も出ない。ピアニストは死んで、Mの体内に戻ってきた。後は分身を無くしたMがピアニストの分まで生き延びるだけのことに思えてくる。

焼き上がった骨を胸に抱き、ピアニストの両親を従えて火葬場を後にした。この海辺の町で骨にすることを主張したのもMだった。歯科医の妻は息子がかわいそうだと言って泣いた。だが、ピアニストを骸のまま市に帰すことだけは、無惨すぎてMにはできない。生々しい思い出がピアニストの亡骸を冒涜するように思われた。やはり、無機質の清澄な骨にして連れ帰りたかったのだ。

北の海沿いの町からオープンにしたMG・Fを飛ばして市に帰り着いた。水瀬川に掛かる大橋を渡れば市街なのだ。赤信号を見つめて大きく溜息を付く。暮れていく空が情けないほど美しい。つい人恋しくなってカーラジオのスイッチを入れた。地元のFM局が臨時ニュースを流し始める。

「五月四日の金貸し殺人事件が急転直下、解決しました。つい一時間前、被害者のアパートの家主と同アパートに住む老婆が容疑者として逮捕されました。逮捕された家主は今日午前、長男の在学する都会の大学に授業料八十万円を納入しました。この札束の耳の部分には幅五ミリメートルの赤い線がインクで引いてありました。この印を不審に思った大学事務員が金融機関に問い合わせたところ、警察の手配と一致する事が判明しました。警察当局は金庫に残されていた札に同様の印がされていたことから、被害者が札に塗っていたものと推定して極秘に金融機関に手配していたものです。札に残した被害者の執念が見事に犯人を追い詰めたと言えるでしょう」

Mは手を伸ばしてラジオのスイッチを消した。信号が青に変わる。お菊さんの顔も大屋の顔も思い出せない。暗く悲しい思いだけが、深く、深く、心の底に沈んでいった。産業道路から織姫通りに合流する信号で、MG・Fを先導するように走ってきた歯科医の運転するポルシェが左折の信号を出した。二人は山地に帰っていくのだ。Mは構わず右折の信号を出し、歯科医と反対に歓楽街の方向に向けてカーブを切った。いつも道は二手に分かれている。カーブを曲がりきった瞬間、助手席に置いた骨壺の中でピアニストの骨が小さく鳴った。Mは蓋を開けた骨壺に左手を伸ばし、指先で小さな骨を摘んだ。真っ直ぐ前を見つめたまま骨を口に含む。微かな塩の味のする骨をゆっくり噛んだ。明日の晩は通夜にしようと思う。

第7章 婚姻 ―完―

明日より、第8章 祭り お楽しみに!

9.事情聴取(2)

「Mさん。一晩中折檻されていたようだね。お疲れの所申し訳ないが、署まで同行してくれないか。仏を拝んだ後で食事ができるようなら、それほど負担ではあるまい。一か月前までは刑務所にいたそうじゃないか」
中年の捜査員が妙に馴れ馴れしい声で言って、Mの前に立った。五人の箸の動きが一斉に止まる。お菊さんの目が鋭く光った。
「刑務所が何だって言うんだ。わしだって明日にでも仏になる歳だ。仏が怖くて歳が取れるか。自分の金で飯を食ってどこが悪い。説明してもらおう」
お菊さんの剣幕に押し返された中年の捜査員に代わり、初老の男が答える。
「何でもないですよ。つまらないことを言って済まなかった。よかったらMさんだけでも署に来てくれるとありがたいんだ。頼みますよ」
打って代わったネコナデ声でMに強要した。
「警察に協力するのは市民の義務ですもの、拒否する理由はないわ。でも着替えるまで待って欲しい」
当然のように答え、Mはバスタオルの下に入れた十万円を押さえて立ち上がった。泣く子と警察を思い通りにする方法はまだ見付かっていなかった。

Mは午後七時になっても警察署にいた。十時間以上も署の四階にある狭い取調室の椅子に座っている。この間、先生の部屋に行ってから制服警官に救出されるまでのことを根ほり葉ほり訊かれた。捜査員はMを容疑者と疑っている素振りも見せていたが、じきに鑑識捜査の結果が複数による犯行を証明したらしかった。この三時間は殺人の状況を見たか、聞いたかの二点に質問が絞られている。しかしMは、苦しい折檻に耐えかねて失神していたと言い張ったままだ。殺人の様子は何も見ず、何も聞かなかったと答え続けている。今は捜査員との根比べになっていた。時間ばかりが過ぎ去っていく。暮れていく五月五日を恨めしく見つめた。警察への協力はこのくらいで十分だと思った。幸い、手元には身体を売って稼いだ十万円がある。明日は会社に無理を言っても仕事を休み、ピアニストに会いに行こうと決心する。

「今日の協力はここまでにさせてください。私はもうくたくたです。帰らしてもらうわ」
大きな声で、はっきりと捜査員に告げた。二人の捜査員が困惑した表情を浮かべて腕の時計を見た。
「まだ署の玄関先に記者たちが陣取っているよ。もっと遅くなってからの方がわずらわされなくていい。家まで送っていきますよ」
初老の捜査員が何気ない声で言ったが、重ねての協力要請はなかった。被害者のMをまるで容疑者のように警察は長時間に渡って拘束したのだ。これ以上の事情聴取は無理と、捜査員が判断したに違いなかった。
「帰ります」
静かな声で言ってMは立ち上がった。つられて捜査員も立ち上がるが、どことなく表情が落ち着かない。

「裏口から出てくれないか」
中年の捜査員が横柄に言った。
「いいえ、私は容疑者ではなく被害者よ。堂々と玄関から帰ります」
胸を張って答えると、慌ただしく初老の捜査員が取調室から走り出ていった。
「課長、すぐ玄関に下りて、被害者の協力に感謝する談話を報道に流してください。被害者を容疑者扱いしたと話される恐れがあります」
隣の部屋から初老の捜査員の大声が響き、エレベーターに急ぐ捜査課長の後ろ姿が見えた。Mは二人の捜査員に挟まれて殊更ゆっくり階段を下りた。警察の玄関から闇の中に歩き出すと、無数の白い閃光が目を打った。カメラマンのストロボが一段落すると記者たちが取り囲む。てんでに勝手な質問を投げ掛けるがMは歩みを止めない。五メートルも歩くと、ついてくる記者も疎らになった。捜査課長の発表が功を奏したらしい。しつこく追ってきた若い記者が横に並んだ。

「Mさん、素っ裸で縛られていたそうですね。どうしてですか」
記者の口元に好色そうな笑みが浮かんでいる。
「縛られるのが好きだからよ」
素っ気なく答えて足を早めた。背後で息を呑む音が聞こえ、記者の足が止まった。M一人が闇の中を歩いていく。
織姫通りまで歩くのに二十分かかった。全身が疲れ切って通りにしゃがみ込んでしまいたくなるが、神経だけは研ぎ澄まされて鋭敏になっている。目に映る通りの裏側まで見通せるような気がした。通りの向かい側に、店のシャッターを下ろそうとしているトラッドショップの店員が見えた。磁場に引き寄せられる鉄片のように、危うい歩調で通りを横切る。行き交う車のクラクションが響き渡った。店の前でブラックジーンズの尻ポケットから十万円を出して半分閉まったシャッターをくぐった。レジの前でレシートの控えに目を通していた店主の前に八万円を差し出す。店主は深々と頭を下げ、ガラスのショーケースから赤い宝石箱を出した。指輪をつまみ、左手の薬指にプラチナのリングをはめた。四月二十八日の結婚の日に感じた高ぶりも誇りも湧いてこない。熱い湯気のような焦りが足元から上がってきただけだった。お包みしましょうと言う店主に首を振って、小さな方の指輪が入った箱を持って外に向かった。店先に立った店員が最敬礼でMを見送っていた。

富士見荘は何事もなかったように、闇の中に木造三階建ての姿を溶け込ませていた。玄関の前までいくと、待ち構えていたようにお菊さんが出てきた。お菊さんはMの尻に手を回して軽く叩いた。Mは黙ったまま、闇の中でも分かるように大きくうなずく。
「M、お疲れであった。恩に着るぞ。先生の遺体は都会に引き取られた。引き取った息子は医大の教授だそうだ」
掠れたお菊さんの声を背中で聞きながら、大階段を上って部屋に帰った。三十ワットの蛍光灯をつけて部屋の中央に布団を広げた。ブラックジーンズと黒いサマーセーターを脱いで、素っ裸になって布団に寝そべる。大きく手足を伸ばすと、やっと疲れ切った身体が落ち着く。だが、神経はとげとげとこすれ、頭が痛む。素肌の上に寒々とした時が積もっていった。冴え渡った耳に、遠くからやってくるエンジン音が聞こえた。玄関のガラス戸が開けられ、中に呼び掛ける男の声が聞こえる。大階段を下り、再び上がってくる足音が富士見荘全体に響き渡った。寝そべった裸身を恐怖が駆け抜ける。反射的に時計を見た。午後十一時を回っていた。お菊さんの呼び声がしてドアがノックされた。

「電報が来たぞ」
掠れ声にMの全身が鳥肌立つ。反射的に飛び起き、すぐドアを開けた。目の前で揺れる白い紙片をつかみ取って震える指先で開いた。


ピアニストキトクスグコラレタシケイムショチョウ


カタカナの字面に張り付いた目から瞳が落ちそうになり、喉から胃が飛び出しそうになった。短い電文だけが方形の部屋を舞う。Mは耳まで裂けよと口を開き、声にならぬ悲鳴で部屋を満たした。お菊さんをはね除け、外へ走り出す。

9.事情聴取(1)

夜明けと共に警察官が富士見荘に駆け付けてきた。カエル腹の責め苦が続くMの身体を案じたお菊さんが、匿名で交番に通報したらしい。やってきたのは自転車に乗った若い制服の巡査が一人きりだ。110番に通報しないところがお菊さんの老練なところだった。

巡査は出迎えた四人の婆さんに、先生の部屋に忍び込んだ者がいるという通報で出動したことを告げた。急いで全員で二階に上り、息を殺して部屋の様子をうかがう。お菊さんがドアを叩き、何回となく呼び掛けたが返事がない。緊張した顔になった巡査が婆さんたちを下がらせて、ノブに手を掛けた。ドアは簡単に開く。先生の無惨な死体が巡査の目を打った。一瞬身体が凍り付いたが、慌てて部屋に踏み込んでいく。先生の開ききった瞳孔を確認すると全身が震えた。任官したばかりの巡査が他殺死体を目にするのは初めてだった。たちまち気が動転してしまう。かろうじて無線で本署に殺人事件の一報を入れ終えてから、ほっと肩で息を付いた。閉められた寝室の戸が妙に気に掛かった。犯人が潜んでいるかも知れないと思った。全身で身構えて一気に戸を開いた。今度は拘束された裸身が目に飛び込んできた。妊婦に違いないと思った。縛られたまま死んでいるのかも知れなかった。恐る恐る裸身に近寄り、そっと肌に手を触れる。手に温もりが伝わると同時に裸身が身を震わせた。巡査の背筋を安堵と感動の混じり合った衝撃が走った。女が妊婦ではなく過酷な拷問に遭っていることも分かった。慌てて救出に取り組み始める。もはや現場の保存も念頭になかった。震える指先で手枷と乳房強調拘束具を解き、下腹の膨れ上がった裸身を立て膝にさせた。両足の間から黒革のT字帯で装着された肛門調教具を観察する。尻にぶら下がった異様な器具で体内に空気を注入したことは理解できたが、空気を抜こうとして重大なミスを犯した。巡査は浣腸のバルブでなく、肛門の内と外を挟んだ風船のバルブを開けてしまったのだ。

口枷を噛まされたMは巡査に注意する術がない。肛門の内と外から括約筋を強く圧迫していた二つの風船が急激に萎んだ。下腹に充填されていた空気が凄い圧力で栓の緩んだ肛門に向かった。

ブワッーン

尻の割れ目で凄まじい爆発音が響き、裸身が後ろにのけ反る。尻から肛門調教ポンプが吹き飛び、糞便の混じった空気が部屋中に吹き出す。慌てて巡査が身を避けたが、発射された空気鉄砲のスピードにはかなわない。全身を糞便に見舞われてしまった。Mの下腹が急速に萎む。体内に残った空気が腸の蠕動に応じて排出されていくのがよく分かる。括約筋が弛緩し、肛門が開ききってしまったため恥ずかしいガス音も出ない。なんとも言えない爽快な開放感が全身を満たした。やっと部屋に静寂が戻る。

「ハッッハハッハハハハ」

突然、けたたましい笑い声が響いた。廊下で待っていた四人の婆さんが、異様な音を聞きつけて部屋に踏み込んできたのだ。さすがに、お米さん、お梅さん、桜さんの三人は先生の死骸を見てぼう然としている。ただ一人、お菊さんだけが寝室の前に立って童女のように笑い続けている。ベッドの上に仰向けになったMの裸身がうっすらと赤く染まった。どんな状況にあっても、恥ずかしさは感じるらしい。なぜかほっとして、首をもたげてお菊さんを見上げた。数時間前の悪鬼の形相が嘘のように鼻を押さえて笑っている。いたずらっ子のように片目をつむって首を振った。昨夜の約束を守れという合図に違いなかった。仕方なくMも目で笑い掛けた。

サイレンの音が近付いてきて階下で止まった。本署から駆け付けてきた三人の私服刑事が部屋に踏み込んできた。中年の男が目を白黒させて大声を出す。
「だめじゃないか。これじゃ捜査にならない。みんな出てってくれ」
四畳半二間の先生の部屋は十人の人出で大混雑だ。捜査員が怒鳴りたくなるのももっともだった。
「これはすまんことで、わしらは部屋で待機しますよ。聞きたいことがあったらいつでも呼んでください。この娘も連れていきます」
腰を低くしたお菊さんが、一番年配の捜査員に媚びるように言って寝室に入ろうとする。廊下を挟んで向かい合わせの自室からバスタオルを取ってきた桜さんが後に続いた。
「だめだよ。この女性は目撃者なんだろう。事情聴取が済んでからだ」
一番若い捜査員が興奮した口調で二人を押しとどめた。
「刑事さん、それはあんまりじゃないか。この娘は誰が見ても被害者だよ。死にそうな目に遭っていたから交番のお巡りさんが助けたんだ。病院に入れるのが筋ってもんだ。素っ裸で糞まみれの娘から警察が強引に事情を聞いたと、わしらは誰にでも話して回るよ」
お菊さんが若い捜査員を睨み付けて鋭い声で言った。死体の横に屈み込んでいた中年の捜査員が立ち上がり、二人の背に声を掛ける。
「婆さんたちの言うとおりだ。下で待機していてもらえばいい。すぐ鑑識を入れよう。俺たちはまず、巡査から事情を聴くんだ」
うんざりした声で言って、三人の捜査員を見回す。全員が苦い顔でうなずいた。
「僕もこの有様ですよ。早く着替えさせてください」
交番の巡査が情けない声を出した。
「何言ってるんだ。殺人事件だぞ。じっくり話を聞く。早くこっちに来い」
若い捜査員が怖い顔で巡査を呼びつけた。お菊さんと桜さんが寝室に入り、口枷が残る無惨な裸身にバスタオルをかけた。Mは壁に向かってよろよろと立ち上がる。片手をさり気なくサイドテーブルに伸ばしてインターホンの下に置いた十万円を取って素早くタオルの下に隠した。見咎めたお菊さんの目が鋭く光ったが何も言わない。足元のおぼつかないMに四人の婆さんが付き添い、死人となった先生の部屋を後にした。

婆さんたちのたててくれた朝風呂にMはゆったりと浸かった。珍しく熱すぎない湯が痛む節々を優しく包み込む。だが、一晩膨れ上がっていた下腹の感触は消え去らない。今にも腹が膨れ出し、水面に浮き上がりそうで怖い。ぽっかりと開いてしまった肛門からは、しきりに湯が入り込む感じがする。手を尻に回し、丁寧に肛門をマッサージして括約筋の回復を図った。十万円が手に入ったが散々な有様になったと思う。もう五月五日だった。早くピアニストに会いに行きたいと心が急くが、そう簡単に警察が解放するとは思えなかった。二十分かけて湯に浸かり、洗い場の隅で肛門から逆流した湯を排泄した。括約筋も引き締まるようになっていたが、醜く膨れ上がっていた下腹の感覚はまだ消えそうにない。バスタオルを裸身に巻き付けて台所に行き、朝食を食べていた四人の婆さんたちの輪に入った。殺人事件のあった連休最終日に、富士見荘では日常の暮らしが戻っていた。生活者が対処できないほどの異常事態をかいくぐるには普段の暮らしを守り通すことが最善の道なのだ。朝食が終わろうとするころ、紺の出動服を着た鑑識課員を従えた二人の捜査員が台所に入ってきた。

8.試練(5)

「こんばんわ」
「おばんです」
荒々しくドアを開けて、大屋とお菊さんが事務室の中に上がり込んできた。
「何だ、お菊さんが一緒なのか。やはり借金話の蒸し返しか」
うんざりした声で言って、先生が二人を睨み付けた。
「いや、ちゃんと二十五万円を持ってきましたよ」
大屋が立ったまま憎々しい声で言って紙袋を突き出す。反射的に先生が首を伸ばして袋の中をのぞき込もうとした。Mの目に腰を浮かして前屈みになった先生の上半身が映った。
「何をするんだ」
大きな叫びを発した先生の首に、大屋が袋から出した電気のコードを巻き付ける。素早く先生の横に回ったお菊さんが、大屋から渡されたコードの端をつかんだ。二人一緒に綱引きのようにコードの両端を握って先生の首を絞め上げる。狭い戸の隙間からは先生の苦悶の表情だけが見えた。鼻から血を吹き、獣の唸りを上げて先生は暴力に耐える。しかし、それも一瞬のことだった。お菊さんの背に隠された顔がもう一度現れたときは、もう絶命寸前だった。黒く充血した顔に真っ赤に血走った目が恐ろしかった。首を絞められて中腰になった先生の身体がブルッと最後に震えた。それでも大屋とお菊さんは力を緩めず、悪鬼の形相で掌に食い込むコードを引っ張り続けた。とうとう先生の首の骨が折れる陰惨な音が部屋に響いた。あまりの修羅場にMは我を忘れて目をしっかり閉じてしまった。

「やっと終わった」
疲れ切った大屋の声がのんきそうに部屋中に響いた。
「長居は無用だ」
答えたお菊さんが寝室の戸を開け放った。事務室からの明かりを一身に浴びたMの姿を見て殺人者が度肝を抜かれた。二人が息を呑み、絶句する声がMに聞こえた。不気味な沈黙の後で大屋が掠れた声を出した。

「臨月の妊婦が縛られているのかと思ったら、Mだ。どうして金貸しの部屋で妊娠してるんだ」
大屋のとぼけた言葉にもMは笑うことすらできない。口枷をはめられた口を大きく開き、まん丸く見開いた目で二人をぼう然と見つめた。
「妊娠ではない。すけべ爺に折檻されただけだ」
お菊さんが陰惨な声で言った。二人の身体から殺気が伝わってくる。
「かわいそうだが見られてしまった。お菊さん、Mを殺そう。Mも責め苦から逃れられる。さあ早く、一緒に首を絞めよう」
獣のように暗く光る大屋の目がMを射すくめた。だが、お菊さんの答えはない。待ちきれなくなった大屋が片足をベッドにかけたとき、お菊さんが厳しい声で制止した。
「だめだ、Mを殺すことは許さん。殺さなくともMは何もしゃべりはしない。のうM、Mは責め苛まれて失神していたんだ。何も見てはいまい」
鬼気迫るお菊さんの形相に、Mはただうなずくだけだった。命が助かった喜びもない。一切の感情を無くして過酷な責めだけを肉体で甘受していた。

「ちょうどいい、金庫が開いたままだぞ。大屋さん、早く金を借りておさらばしようぞ。ざっと三千万円あるぞ。大屋さんはいくら借りたいんだ」
金庫の前にしゃがみ込んだお菊さんが大屋に尋ねた。
「俺は百万でいい。それ以上借りては返せなくなる」
「大屋さんは正直なお人だ。それではわしも百万円を借りようぞ」
殺人者とも思えぬ対話の後、二人はそれぞれ苦労して百万円ずつ抜き取ってから金庫の扉を閉めた。
「M、さっきも言ったとおり。ぬしは失神していたのだぞ」
帰り際にお菊さんが因果を含めてから、寝室の戸を閉めた。真っ暗になる寸前に見た事務室の文机には、醜く首をねじ曲げられた先生の小さな死骸がうつ伏せになっていた。ゴミのように惨めな死骸だった。殺人者はいなくなった。暗闇の中でカエル腹になった下半身が苦しく疼き、二度目の失禁が股間を濡らした。科せられた過酷な責めだけが、科す者が死んだ後もMを責め苛み続けていた。

8.試練(4)

「よし、面白い見せ物だった。手枷は僕がはめよう。後ろを向きなさい」
先生に命じられてMが後ろを向く。九十歳の老人とは思えない力が背中で組んだ両手を手枷で拘束し、皮帯で首筋近くまで引き上げた。
「さあ、いよいよ女郎の折檻が始まるぞ。生意気に、少しも泣きを見せない罰だ。存分に苦痛を味わうんだな」
楽しそうに先生が言って、棚の上からゴムのベルトを手に取る。長さ二メートル、幅二センチメートルの丈夫なベルトだ。そのベルトをMのウエストの少し上に二重にして厳しく巻き付ける。ちょうど胃の下に当たる位置だ。ベルトが素肌に深く食い込むまできつく締め付けて縛り上げた。
「座り込めるように膝枷は外してやろう」
独り言をいった先生が膝枷を外した。尻尾のように尻から垂れているゴム鞠の一つを右手に持つ。ゴム鞠のバルブを閉めてから無造作に鞠を握った。途端に肛門の内と外にあったゴムの瘤が動きだした。先生が鞠を押す度に二つの瘤が膨れて肛門の内と外から括約筋を圧迫する。
「これくらいでよかろう。もう外れる恐れはない。次は空気浣腸をしてやる」
下品な笑いを浮かべた先生が握ったゴム鞠を代え、同じように無造作に鞠を握り締める。今度は肛門に挿入されたゴムの筒先から腸内に空気が入り込んできた。侵入してくる空気の異様な感触にMは面食らってしまう。排泄を目的とした肛門から逆流して上がってくる空気の存在は恐ろしい。正常な感性が麻痺してしまいそうな違和感と屈辱感が全身を襲った。そんなMの気持ちにはお構いなく、先生はゆっくりと規則的にゴム鞠を握り続ける。
Mの下腹が目に見えて膨れてきた。体内の空気を何とか排出しようと脂汗を浮かべて息むが、肛門を内と外から挟み込んだ風船はビクともしない。やがて下腹が臨月を迎えた妊婦のように膨れ上がった。苦しさにうなだれると、膨れた腹が目に入るだけで股間はおろか足の先も見えない。口から流れ出た涎が空しく突き出た腹に当たる。立っていることができなくなり、足枷に拘束された不自由な身体でビニールシートの上にしゃがみ込んでしまった。その姿はまるで、飛び上がろうと身構えたカエルのようだ。全身から脂汗が滴り、苦しさで目が回りそうになる。ゴムベルトで胃の下をきつく縛られているため、口から空気を逃がすわけにもいかない。今にも下腹がパンクしてしまいそうな恐怖で全身が小刻みに震えた。先生がひたいの汗を拭ってから、やっとゴム鞠を手放した。体内に送り込まれる空気は止まったが苦痛はゆっくり全身に広がっていく。

「どうかね、M。これが女郎の折檻だよ。大枚を叩いて買った身体を傷付ける心配がない。その格好で三日も晒されることを想像してごらん。たまったもんじゃないよ。許してもらえるなら、身も心も売り渡したくなること請け合いだ」
Mは先生の言うとおりだろうと思って小刻みに尻を振り続けた。妊婦よりも膨れた下腹部が膀胱を圧迫し、今にも尿が洩れそうでならない。過酷すぎる責め苦だった。揺れ動く尻を見た先生がにっこりと笑った。
「M、我慢せずに失禁してもいいよ。この折檻を受けた者は皆失禁する。尿にまみれた無様な姿を、許されるまで晒し続けるしかないんだ。残酷な仕打ちだよ。だが、ほんの少し前までこの遊郭でも行われていた仕置きなんだ。女郎の血の涙を一晩味わうがいい。Mはたったの一晩だよ。夜は短い。そろそろ私も楽しませてもらう」
急に若やいだ声になった先生が総絞りの帯を解き、桐生お召しの単衣を脱いで井桁に掛けた。痩せて皮膚のたるんだ股間で醜悪なペニスが揺れている。口枷で大きく開かされた口に萎びきったペニスが挿入された。Mは抵抗もせずにペニスに舌を絡ませる。買われた身体と思うと涙が湧いてくる。だが、先生の言葉の通り、確かにこの屋根の下で多くの女が屈辱の涙を流したはずだった。今、Mはその何分の一でも味わいたいと真剣に思った。女郎同様に金で買われ、恥辱にまみれて折檻を受けているが、決してへこたれまいと決心する。どれほどの苦悩や屈辱にまみれても生き延びるのが女だと確信した。たっぷり時間を掛けて舌を使うとペニスがゆっくりと鎌首をもたげてきた。九十歳にもなって単純な性だけを追う未熟な男だ。先生の口から低い喘ぎ声が出ると同時にMは失禁した。

ルッルルー

突然インターホンの電子音が鳴り渡った。先生がMの口からゆっくりペニスを引き抜いてから受話器を取った。
「誰だね」
機嫌の悪い声で訊ねると、聞き慣れた声が受話器から漏れてきた。
「先生、大屋です。でも借金の話じゃない。切らないでください。富士見荘の権利書を引き取りに来たんですよ。先生は狡いですよ。木造三階建てのこの家は、今では文化財級というじゃないですか。富士見荘が担保なら金融会社が五十万円貸すそうです。先生に借りた二十万円を返済しますから、権利書を返して下さい」
「利息をいれて二十五万円だぞ」
「分かってますよ。ちゃんと持ってきました」
先生は素っ裸のまま、受話器を片手に首を傾げて考えていた。だが、借金を返済するという大屋を断る口実は見当たらないようだった。

「もう休んでいたところだから、ちょっと待っていなさい」
無愛想に言って受話器を置いた先生は、井桁から着物をとって素肌に着た。禿げた頭に手をやったが乱れた髪があるはずもない、ただのご愛敬だった。
「文化財かどうか知れないが、確かに富士見荘は近代化遺産だ。あながち嘘でないかも知れない」
独り言のようにいってから、先生はMが身動きできないように黒革の首輪を延ばしてベッドの柵に縛り付けた。室の照明を消してから事務室に出て、引き戸を閉めた。真っ暗になった寝室のベッドにしゃがみ込んだMの前に、五センチメートルほどの光の帯が見える。先生が戸をぴったりと閉めなかったのだ。戸の隙間からは、ちょうど文机を前にして座った先生の横顔が見えた。先生がMを見て好色そうに笑った。故意にしたとしか思えなかった。あまりの仕打ちに背筋が寒くなる。先生が手元のセキュリティーセットを操作してドアの錠を開けた。
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官能のプリマ全10章
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