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- 2012/04/21/Sat 15:00
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- 第10章 -巡礼-
晋介の住む街は、都会から私鉄の急行に乗って一時間三十分の所にあります。座席指定の電車はエアコンがきいて快適でしたが、あいにくの梅雨空から細い雨脚が、絶え間なく車窓を濡らしています。
「残念だね。夕日を見てもらえそうにないよ」
二つ並んだ座席の通路側に座った晋介が、外を眺めながら溜息をつきました。
夕暮れ間近な時刻にも関わらず、窓の外は薄闇に覆われています。真っ青に晴れ上がっていた海炭市の空が嘘のようです。僕は、流れ去る灰色の景色に目をやったまま小さくうなずきました。陰鬱な空模様がやり切れません。なにかしら重苦しい気持ちが胸中に去来し、外の風景に溶け込んでいきます。
電車が鉄橋に差し掛かりました。長い長い鉄橋です。何本も続く橋脚を見下ろしていると、ようやくあらわれた岸辺の杭にゴイサギがとまっていました。雄大な河岸が目の前に広がっていきます。
「渡良瀬川かな」
思わずつぶやいていました。びっくりするほどナーバスな声です。
「いや、これは利根川。渡良瀬川は三キロほど上流で合流してしまっている。後二十分で駅に着くよ」
静かに答えた晋介が右手を伸ばしました。
膝の上に置いた僕の左手にさり気なく手を重ねます。温かな感触が素肌を刺激しました。
僕は右手で頬杖を着いた姿勢のまま、僅かに首を回して晋介を見ました。晋介の目が微笑んでいます。僕の様子を心配しているのでしょう。密着した手のあいまいさが不快になります。
意識して首を左右に振り、手を握りました。晋介の笑顔が消えます。唇を引き締め、大きく見開いた目で僕の目の底を見つめました。不作法と呼べるほど無防備な仕草です。僕は晋介の視線をしっかりと受け止めました。晋介が強い力で手を握り返してきます。二つの手の間でじっとりとした汗が解け合います。
「進太さん、好きだよ」
辺り構わぬ声で晋介が呼び掛けました。僕も大きくうなずきます。友情を越えた感情が、窓の外の薄闇に流れ出ていきます。解き放たれたエネルギーが隠れ家を求めているのでしょう。微かに性のにおいがしました。
僕も晋介が好きです。情感を交えて手から伝わってくる肉体の息吹は、新鮮であるばかりか生理的な喜びさえ秘めています。二人の身体が同時に震えました。その瞬間、互いの手を放しました。晋介の頬が赤く染まっています。多分、僕の頬も赤くなっているはずです。停車駅を告げる車内アナウンスの声が響きました。
長いプラットホームに横付けになった六両編成の急行電車から、思ったより大勢の乗客が降りていきます。僕と晋介も高架になった下り線のホームに降り立ちました。
「進太さん、発車するまで待ってくれよ」
歩き出したとたんに声を掛けて、晋介が立ち止まりました。目の前で電車の扉が閉まります。発車を告げるチャイムがホームに響きました。静かに走り出した電車が加速します。見る間に赤く塗られた車体が帯になって流れ去りました。急に開けた視界の先に穏やかな山並みが広がっています。
薄明かりの中で紺青のシャドウになってたたずむ山々は、墨絵のような美しさです。僕は思わず息を呑み込んで風景に見とれました。眼下に見える駅前広場の背後に、小高い堤防が広がっています。渡良瀬川の白い流れがほんの少し見えます。半円のアーチを三つ連ねた橋の先に、市街地の甍が連なっていました。
「俺の街だよ」
晋介が誇らしそうに言いました。美しい眺めでした。
僕たちは足を早めて改札口を通り、タクシー乗り場に急ぎました。暮れきってしまう前に、少しでも多く街を見せたいという晋介の高揚した気持ちが伝わってきます。
「伊東病院、本院まで。渡良瀬橋経由でお願いします」
タクシーに乗り込むやいなや、晋介が行き先を告げました。黙ってうなずく中年の運転手の顔に、奇妙な笑みが浮かびます。晋介が不快そうに眉を寄せました。僕は二人の様子をさり気なく観察します。この街特有の暗黙の了解が漂っている様子でした。
「伊東病院は精神病院の老舗なんだ。この街の人は、みんな知ってる」
僕の気持ちを見透かしたように、晋介が言葉を吐き出しました。老舗という言葉が笑えます。地方都市には必ずといってよいほど、古くからの精神病院があります。住民は皆、差別と優越心を剥き出しにして、他者を蔑む場合にその病院名を使うのです。この街でも「伊東病院」は人間失格の代名詞なのです。その病院の子供として生まれ育った晋介の屈折した感情はよく理解できます。僕はすかさずフォローに回りました。
「へー、晋介の家は名門なんだね」
感嘆の声を聞いて、運転手の表情が急転しました。畏敬と羨望の眼差しで前方を見つめています。伊東病院の財力と、社会的地位を思い出したのです。人の気持ちは目まぐるしく変わります。晋介の表情に自信の色が甦りました。
「ほら、これが渡良瀬橋。でも、こんなに暗くなってしまっては何も見えない。残念だね」
晋介の声で前方を見つめました。闇の中から浮かび上がった鉄橋が見えます。橋脚からライトアップした渡良瀬橋は幻想的に見えました。しかし、バックの風景が見えないのですから、景観も片手落ちです。瞬く間にタクシーは渡りきってしまいました。車で渡る渡良瀬橋は、ただの鉄橋でしかありません。思わず溜息がでました。期待が大きすぎたのです。
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- 2012/04/20/Fri 15:00
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- 第10章 -巡礼-
「すごいね。もう熱烈なファンがついたんだ。僕も晋介のカメラワークを見て、よく勉強させてもらうよ」
心の底から賞賛の声を出しました。誠意はよく伝わるものです。とたんに晋介の頬が真っ赤に染まりました。
「いや、俺は夕日しか撮ったことがないから、スナップは苦手なんだ。これからが勉強だよ」
珍しく謙遜した声で答えました。けれど、何となくうなずけません。晋介は昨日も嫌になるほどライカを構え、真剣にシャッターを切っていたのです。あの異常な出来事の連続した時間をフィルムに焼き付けたはずなのです。僕は慌てて問い返しました。
「そんなことはないだろう。昨日だって、ずいぶん写真を撮っていたよ。現像したら、僕にもぜひ見せてくれよ」
「だめだよ。フィルムが入ってない。カメラワークの練習をしただけなんだ」
即座に返ってきた答えを聞いて、僕はぼう然としてしまいました。腹の底から笑いが込み上げてきます。幸い会場はまだ無人です。遠慮なく、高らかに、声を上げて笑ってしまいました。
「進太さん、何がおかしいんだよ。俺は、あんな薄汚いものは写真にしない。ずっと先のテーマだよ」
当惑した晋介が大声で宣言しました。僕は再び笑ってしまいます。確かに晋介の言うとおりです。祐子の死に狂いも、校長さんの盲信も、霜月の恋愛ごっこも、僕のセックスすら薄汚いものなのでしょう。
渡良瀬橋の夕日を、傑作写真に昇華させた晋介の目が正解です。祐子ではありませんが、僕も生まれ変わりたい心境になりました。
目の前のモノクロームの夕景が、頭の中で大きく拡がります。その瞬間、祐子が残していった奇妙な情報に、次の旅路を賭けてみることを決心しました。
笑いを納め、じっと晋介の目を見つめます。
「渡良瀬橋に連れていってくれないか。僕が捜している、Mの本籍地が晋介の街なんだそうだ。もう、海炭市に用はないよ。晋介と一緒に渡良瀬橋の夕日が見たい」
晋介の目に喜びの色が浮かびました。でも、念を押すような目で僕を見返しました。
「すぐにでも、進太さんを連れていきたいけれど、祐子はどうするのさ。あんなヒステリー女は、一人にしておけないよ」
不安そうに問い掛けてきました。連れの祐子を心配する優しさが晋介にはあります。血のように真っ赤な夕日を浴びて、祐子を死なせようとした者と同一人物の言葉ですから不思議です。晋介が胸の内に確固として持っている規範がまだよく分かりませんが、僕は笑顔で答えました。
「祐子の心配は要らないよ。ここで霜月と暮らすことになった」
「へー、祐子は漁師の女房になるのかい。そりゃあいいや、何よりも健康的だ。あのイカ釣り船の甲板で、真っ昼間からセックスに励めばいい」
頓狂な声で言っておどけました。僕も同感です。
「まったくだ。腰が抜けるほど励んで、二人して透明なイカになればいいんだ」
僕もひょうきんに答え、二人で大笑いしました。けれど、少しも軽薄な気分になりません。祐子の門出を祝福し、僕たちの新しい世界の展開を予感する気持ちでいっぱいでした。
「それで、進太さんどうする。すぐ空港に行こうか」
晋介が身を乗り出して問い掛けてきました。
「いや、まず味噌ラーメン。せっかくだから、もう一度本場物を食おう。それから夜景だ。ゆっくり観光もしてみよう。空港に行くのは明日の朝でいい」
明るい声で答えました。
「賛成だね。カニも食おうよ。二人とも金はあるんだ」
晋介が陽気な声で応じて、出口に向かいます。バーバリーのブレザーを着た後ろ姿がやけに立派に見えました。
僕も紳士服売場に寄ってみたくなります。
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- 2012/04/19/Thu 15:00
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- 第10章 -巡礼-
モノクロームの作品は、ワイド四つのサイズでした。
画面前方に向かって、大きな川が流れ下っています。左サイドはススキが生い茂る葦原です。遠景には小さな山並みがあり、空全体にちぎれ雲が流れていました。遠い山並みの上にかかった雲間から夕日の残光が一条、スポットライトの光束のように川面を貫き、葦原に向かって延びています。折しも風が渡っていったのでしょう。川面とススキの原に風の道筋があらわれています。夕日を浴びて白く輝く穂先が風にそよぎ、さざ波立った川面で光が乱反射しています。その幻想的な夕方の一瞬を、晋介が写真に切り取って永遠に昇華させたのです。
さざ波と、ススキの穂を繋ぐ風の道が白いハイライトになっています。遠景から前景にかけては、絶妙のグラデーションで真っ黒なシャドウが落ち込んでいます。白と黒の単調な色合いですが、その階調を通して無限の色彩が乱舞していました。
傑作です。僕は思わず、声に出して唸ってしまいました。
「気に入ってもらえたかな」
急に、背中から声がかかりました。晋介です。ちょっぴりシャイな響きがこもっていました。当然、賞賛のうなり声を聞いたはずです。僕も晋介に劣らずシャイなので、答える気にもなれません。振り返らずに作品のタイトルを見直しました。
「夕日のきれいな街」に続いて「渡良瀬橋から」と小さなコメントが書かれてあります。
「ワタラセバシと読むのかな。きれいな語感だね」
そっとつぶやいてから、後ろを振り向きました。晋介が最高の笑顔でうなづいています。いつの間に買ったのか、新しいジーンズの上にサマーウールのブレザーを着ています。インナーは白いシルクのモックタートルでした。相変わらず首からライカM2をぶら下げた姿は、背伸びをして芸術家を気取った子供以外の何者でもありません。せっかくの傑作写真が台無しです。
「変な格好に見えるかな。このデパートで最高の品なんだけどな」
僕の顔色を見て、心細そうにつぶやきました。自信たっぷりだった肩が、すとんと落ちます。僕は堪えきれずに吹き出してしまいました。確かに、紺色のブレザーは高校の制服にも見えます。しかし、晋介が言ったように、バーバリーのブレザーでは高級にすぎたようです。嫌味が鼻につきます。
「いや、よく似合っているけれど、晋介らしくないよ。バーバリーとシルクでは余りにも決まりすぎだ」
笑って答えると、晋介が鼻を鳴らしました。成金趣味と思われたと誤解したようです。
「十万円の商品券をもらったから仕方ないんだ。この店でしか使えないから、思い切って高いものを選んだ。でも、考えてみると貧乏くさいね」
晋介が訳の分からないことを言いました。ホテルに戻らなかった晋介に、何があったか僕は知らないのです。思い切り怪訝な顔をして晋介の目を見つめてやりました。
「ごめん、進太さん。俺、ホテルに帰らなかったもんね。じつは、この百貨店の会長さんの家に泊まったんだ。その親父が大の写真好きで、俺の作品を譲ってくれと言ってせがむんだよ。まだプロじゃないと言ったら、金でなく商品券をくれた。オリジナル・プリントを手放すのは嫌だったけど、その親父がすごく作品を気に入ってくれたので、うれしさに負けて手を打ってやった」
すまなそうな声を出したのは、最初の謝りの言葉だけでした。後の言い訳を話す晋介は、得意そうに小鼻を膨らませていました。しかし、たとえ自社限定の商品券とはいえ、一枚の写真が十万円で売れたのです。自慢するのも無理ないことです。僕も、晋介の写真が認められたことを喜ぶのにやぶさかでありません。
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- 2012/04/18/Wed 15:00
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- 第10章 -巡礼-
ホテルのツインルームで、僕は一人で目覚めました。隣のベッドはメイクされたままです。晋介はホテルに戻らなかったようです。
手荷物一つない晋介は、どこに泊まっても不自由はありません。けれど、始めからいなかったような雰囲気もあります。ツインルームに一人で泊まっていて、怖い夢にうなされてしまった。目覚めてみたら夢と分かり、当惑して辺りを見回している。そんな気分になる寝覚めでした。
寝ぼけ眼に映る無人のベッドが、不審と不安で揺れています。海炭市に着いた夜から続いた異常な出来事は果たして、僕が実際に体験したことだったのでしょうか。
衝撃的な疑念が脳裏を走りました。慌てて毛布をはね除け、起き上がります。厚手のカーテンの隙間から日の光が射し込んでいました。テレビの上の時計の針は午前八時を回っています。改めて隣のベッドを見下ろしました。背筋を肌寒さが掠めていきます。晋介の不在がもたらした不安に、全身が震撼しました。ブルッと身体が震えます。思わず裸の背を丸くして腕を組み、うなだれてしまいました。温かな素肌の感触が手に伝わってきます。股間で勃起したペニスが僕を見つめています。てらてらと光る亀頭の先を見つめていると、過激な性の感触が甦りました。
打ち寄せる波が、白い尻の割れ目で砕け散ります。海水に呼吸を断たれた祐子が、全身を震わせて苦悶します。陰部が強い力で収縮し、このペニスを強烈に締め付けたのです。その瞬間、祐子が官能を求めたと、僕は信じました。
死を踏み越えて再生した祐子。そして、人型に燃え上がって死んだ校長さん。そのすべての光景が脳裏に渦巻きました。でも、あれほどの事実の集積が、一日のうちに本当に起こったのでしょうか。
圧縮された記憶がツインルームに流れ出していきます。身体全体ががらんどうになってしまう恐怖が、喉元まで込み上げてきました。
素っ裸でシャワールームに跳んでいって、扉を開きました。真っ先に脱ぎ散らかした服が目に入りました。汚れたスニーカーに素足を入れると、濡れた感触が不快でした。海水が染み込み、砂にまみれた布地が事実の存在を実感させてくれます。
夕べ、疲れ果ててホテルに帰り着いた僕は、シャワーを使うやいなや、ベッドに潜り込んでしまったのです。なにかしらホッとした気持ちになりましたが、まだ安心はできません。証人となる祐子も晋介もいないのです。デイバッグに入れてきたジーンズと白いトレーナーに袖を通して、部屋を出ました。
フロント係の老人は、くどくどと理由をこじつける僕に、笑顔で祐子の部屋の鍵を差し出しました。やはり、部屋はリザーブしてあったのです。はやる気持ちを抑えて、慎重に祐子の部屋のドアを開きました。一目で見て取れる狭いシングルルームは完璧にメイクされていて、使われた形跡がありません。急いでクロゼットを開けると、見慣れたボストンバッグが置いてありました。祐子が海炭市にいたことは間違いありません。圧縮された記憶はすべて真実でした。新しい朝が始まっていたのです。
約束どおりに写真コンテストの会場に行けば、晋介に会えると確信できました。午前十時が待ち遠しくなります。
安心すると同時に、今度は祐子に腹が立ってきました。校長さんの死体の始末はできたのでしょうか。目の前のボストンバッグの処理も考えなくてはなりません。異常な記憶の集積した海炭市で、再び祐子を訪ねる気には到底なれません。散々思案したあげくに、宅配便で山地のドーム館に送ることにしました。
ようやく気が晴れた僕は、一切の荷物を持って食堂に向かいました。晋介が泊まらなかった部屋を見たくなかったし、スクランブル・エッグと温かいパンを、たらふく食べたかったのです。
海炭市のメインストリートの角に、写真コンテストの会場がある百貨店がありました。ビルの側面に設置された電光掲示板が、写真展の開催を赤い文字で流し続けています。
会場は、九階の催事場です。僕は、エレベーター係の制服を着た女性に階数を告げました。他に客はいません。開店早々の、平日の十時では無理のないことでしょう。エレベーターは真っ直ぐ会場に直行しました。
会場の入口にしつらえられた派手なアーチに「日本一の夕日・写真コンテスト」と大書した看板がかかっていました。文字の色は昨日海岸で見た夕日と同様、血のような赤です。肩をすくめて会場に入った瞬間、圧倒的な数の夕日に迎えられました。百点近い写真があるのでしょうか。暖色系の色彩のオンパレードです。鮮やかすぎる色合いが目にしみます。けれど、最初の迫力に慣れてしまうと、夕日にそれほどの違いはありません。ゆっくり鑑賞する気もなくなり、周囲を見回してみました。
だれ一人いない会場の奥まった位置に、黒々とした作品が展示してあります。赤・黄・オレンジが氾濫する会場の中で、その作品はひときわ異彩を放って見えました。晋介の写真に違いありません。足早に、作品に近寄っていきました。
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- 2012/04/17/Tue 15:00
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- 第10章 -巡礼-
「祐子の言うとおりかも知れない。妄想を追うのは校長一人でたくさんだ。焼死した校長の遺体を、屋敷の庭で見付けたよ。俺はびっくりして、足跡を追ってきたんだ。済んだことは仕方がない。後始末は俺がするよ。この辺は人気もないから、まだ間に合う。祐子はひとまずホテルに戻っていた方がいい。後で必ず迎えに行く」
しっかりした声で呼び掛けました。常識が甦りました。
「そうだよ。ホテルに帰って風呂に入ろう。服を着るんだ」
素早く僕が口を挟みました。祐子が大きく首を左右に振ります。
「いいえ、私は、生まれたままの姿で霜月の所へ行きたいのよ。持ってきた荷物はすべて要らない。さあ、霜月、行きましょう」
霜月の大きな手を握った祐子がマットレスを下ります。さすがの霜月も現実の官能に未練があるのでしょう。逞しい裸身が従っていきます。
僕は慌てて砂丘を駆け下りました。遠ざかっていく二つの裸身に大きな声で呼び掛けます。
「色キチガイ、セックスするのが、そんなにいいのか」
悲痛な声を出したつもりでしたが、耳に届いた叫びはごく軽い響きでした。歩みに連れて揺れていた悩ましい尻の動きが止まり、祐子が振り返ります。
「ええ、とってもいいわ。Mの気持ちがやっと分かった。ねえ、進太、Mがいなくても生きていけそうだわ」
明るい声が戻ってきました。僕の口許に苦笑が浮かびます。死んでしまうより、官能を求める方がいいに決まっています。でも、Mの気持ちが分かったなどと言って欲しくありません。抑圧してきた性を解放したくらいで舞い上がってしまった祐子に、はっきり言ってやることにしました。
僕は、大きく一歩を踏み出しました。
「祐子が官能を求めるのは勝手だ。でも、Mは、希望のために官能を追ったんだ。死ねないから官能を求めたんじゃない」
聞いていた祐子の顔が、見る間に泣き顔に変わりました。けれど、すんでの所で踏みとどまります。奥歯を噛みしめて僕を睨みました。どうやら、泣き虫の祐子は消え失せてしまったようです。
「そんなことは、百も承知よ。私は今、過去から一歩を踏み出したところなの。Mに代わって自分を祝福したくらいで、目くじらをたてる進太が子供なのよ。私は、進太の方が心配よ。あなた一人で、Mを捜し出せるの。ねえ、自分の戸籍を見たことがあるの」
静かに答えた祐子が、最後に突飛なことを口にしました。僕は反射的に首を左右に振ります。
「海炭市に来る前に、Mの戸籍を取ってみたのよ。当然進太の戸籍でもあるわ。Mの両親も分かったし、生まれ故郷も分かった。Mは晋介が住む、夕日のきれいな街で生まれたのよ。私の代わりに、晋介に連れていってもらいなさい。Mを捜す手掛かりが掴めるかも知れないわ」
耳の底で祐子の声が反響しました。僕はぼう然と砂浜に立ち尽くしたまま、手を振って去っていく二つの裸身を見送りました。
未来に一歩を踏み出したという祐子が、いつもの説教の代わりに、奇妙な事実を告げたのです。まるで波間で揺れていた祐子のように、あやふやな置きみやげでした。