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11.祭り(9)

「ママッ、ママ」
喧噪の中でひときわ高いボーイ・ソプラノが叫んだ。
Mは驚愕の目で疾走するキリンを見た。一番大きなキリンの背に、ちっぽけな人影を認めた。Mの顔が一瞬に歪む。

「危ないっ、進太」
陶芸屋が叫んだ。キリンの前に飛びだそうとしたMの足にステッキを投げ付け、身を投げるようにして前方に飛び出す。Mの足がもつれた。

「アッ」

声にならぬ悲鳴がMの口を突いた。疾走してくるキリンの直前に陶芸屋の身体があった。よろよろと左に傾いた痩せた身体を、サクタロウの蹄が音高く蹴り飛ばす。生き物の潰れる音を、確かにMは聞いたと思った。陶芸屋の身体が無様に跳ね上がった。スローモーション画面のように、ゆっくりとサクタロウの足並みが乱れる。大きく傾いだ巨大な背から小さな裸身が落ち、宙に舞った。二百人の悲鳴が広場を満たし、3頭のキリンが一団となって織姫通りに走り去っていく。

すべてが一分間もかからぬうちに終わった。陶芸屋はキリンの蹄で頭を割られて死んだ。即死だった。ぼろ切れのような死体の横に、キリンから落ちて失神した進太の裸身が転がっている。駆け寄って抱き締めたMの腕に、進太の確かな鼓動が伝わる。ほっとして空を仰ぐと、素っ裸で後ろ手に緊縛された睦月が進太を見下ろしている。睦月の目には相変わらず何の感情もない。ただ暗く深い闇だけがあった。
静寂の戻った煉瓦蔵に急にセミの鳴き声が響き渡る。夜になって狂い鳴くアブラゼミの音に、遠くから救急車のサイレンが共鳴した。芝居は終わった。



市民病院に収容された進太は、幸い全身の擦過傷だけで済んだ。二日後の退院と同時に、窃盗と過失致死で警察に補導され、児童相談所に送られた。いずれは教護院に措置されることになる。

睦月は予定通り8月の末にメルボルンに発った。行き掛けの駄賃のように、進太を養子にするようMに迫った。陶芸屋に先立たれたナースも、祐子も、チーフも、この養子縁組を薦めた。児童相談所にいる進太もMの養子になることを望んだ。親権の放棄を決意した睦月を責めても、今さらどうにもならない。母子二人の家族は、陶芸屋の死を契機に崩壊したのだ。

Mは進太と養子縁組をし、警備会社を辞めた。市に移り住んだ歯医者を誘って山地の蔵屋敷に住む決心をした。温かく受け入れる家庭ができなければ、進太は教護院を出ることができない。Mは戸籍上の祖父に当たる歯科医と一緒に、進太を育てようと思った。たとえ理不尽な家族が新たに生まれるとしても、擬制の家族を見続けてきたMには似合いの物と思えたのだ。ただ官能の行く末だけが寂しく下半身を被った。

夏は終わり、秋の気配が色濃かった。



第8章 祭り ―完―

明日より、第9章 拉致 お楽しみに!

11.祭り(8)

3頭のキリンと進太は、織姫通りの信号のすぐ手前まできた。薄暗い交差点の右手からは、明るすぎるほどの照明が差し込んでいる。けたたましい八木節のリズムに混ざり、大勢の人から立ち上る喧噪が押し寄せてくる。イカを焼く生臭いにおいと、水飴やフルーツの甘いにおいが、腹の空いた進太の鼻を襲う。キサラギとキリタロウを従えたサクタロウの足が一瞬止まった。長い首を真っ直ぐ上げ、すべての音を聞き分け、においを嗅ぎ分けようと空を見上げた。

「サクタロウ、行くんだ」
背を真っ直ぐにして、進太が叫んだ。手綱にしたスカーフを力いっぱい手元に引く。おびただしい数の露店が上げる食品のにおいが、サクタロウの警戒心に勝った。サクタロウは早足で交差点を右折する。進太の小さな裸身が斜めになり、キリンの背から落ちそうになる。必死に掴んでいるスカーフが高い衣擦れの音をたてる。大きく見開いた進太の目に、織姫通りを埋めた八木節踊りの輪が飛び込んできた。道路中央に引き出された二層の櫓が大きく揺れる。サクタロウが風を切って走る。見る間に踊りの輪が乱れ、人々が散り散りになる。

ウッ、ウワッー

驚愕に満ちた女の叫び、男の呻き、足音、泣き声、身体のぶつかり合う音、露店の倒れる音。一切の音が渦巻き、一つの轟音になって3頭のキリンを興奮の極致に誘う。目まぐるしく風景が流れ、黒々とした煉瓦蔵のフォルムが急に大きくなる。赤黒い壁の横手に大きく開かれた鉄扉が見えた。進太は最後に残ったバナナを渾身の力で投げた。疾走するサクタロウが条件反射のように巨体を寝かせ、鋭く左に曲がる。蹄の音を高らかに夜空に響かせ、3頭のキリンは一散に煉瓦蔵の広場へ駆け込んで行った。


メルボルン国際演劇祭応募作品「ヤギブシ」の最終幕は今、最高潮を迎えようとしていた。照明を落とした煉瓦蔵側面の扉を、白いピン・スポットが照らし出している。広場のクスノキの下で約百人の観衆が静まり返り、スポットライトの先を見守る。
ひときわ高くお囃子の横笛が泣くと、煌々と輝くピン・スポットの照度が極端に落ちた。黒く開いた扉の中から薄闇の広場に、白々とした裸身がよろめき出る。全裸背面合掌縛りに緊縛された睦月が、うつむきがちに歩く。背中で縛られた両手で握る赤い蝋燭の炎が風に揺らめく。素肌を走るステンレス・ファイバーの縄が怪しく光った。きれいに結われていた高島田が千々に乱れ、裸身をなぶる。またたくまに悽愴な美が広場を占有した。睦月に続いて、縄尻を曳く主人に扮した黒子が現れる。大久保玲がデザインした黒子の衣装は、夜目にも鮮やかないぶし銀に輝いている。睦月の素肌の滑らかさと金属繊維の輝き、そして黒子のいぶし銀の衣装。闇にまたたく銀河のようなコントラストが、観衆を異形の世界に誘う。二人に従うように、煉瓦蔵の中からぞろぞろと観衆が出てくる。

睦月の裸身がクスノキの枝葉の下でよろめき、片膝をついた。割開いた股間を暑く湿った風が渡る。広場を取り囲んだ観衆の間から、一斉に溜息が漏れた。睦月の裸身を快感が貫く。全身が戦き、暑さの中で鳥肌が立ったとき、太股の間を温かな澪が流れた。止めようもなく失禁は続き、足元に広がる。取り囲む観衆に広がる感動の嵐が睦月の裸身を翻弄する。歯を食いしばって顔を上げ、虚空を睨み付けたとき、広場の照明が一斉に灯った。舞台セットの端から白いスモークが立ち上る。赤を主調にした照明を浴びてピンクに染まった煙がたなびく。睦月はじっと織姫通りから現れる馬子の出を待った。


Mの隣りに立つ陶芸屋が、また大きく溜息を洩らした。静けさの中で地面を打ったステッキの音が空しく響く。
「やはり来ない」
陶芸屋の悲痛な声が耳元で聞こえた。赤い煙が立ち上る舞台の先に織姫通りの明かりが見える。
「やはり来ない、か」
陶芸屋の嘆きをMが反芻したとき、見えていたはずの織姫通りの明かりが陰った。凄まじいエネルギーが前方から迫る。巨大な影が一瞬のうちに観衆を追い散らし、広場を疾走した。凍り付いた視線の隅を鮮やかな影が三つ横切っていった。錯綜する騒音の中に、かん高い蹄の音が響いた。強烈な獣のにおいが鼻孔を突く。慌てて振り返ると、煉瓦蔵の裏庭を走り回る3頭のキリンが目に飛び込んだ。黒と黄の華麗な網目模様が闇に浮かび上がって見える。信じがたい光景だが、現実のキリンは古ぼけた煉瓦蔵によく似合った。今、裏庭を一回りしたキリンがまた、広場に向かって疾走してくる。

11.祭り(7)

「ありがとうチハル。本当にありがとう。チハルのお陰で、僕は夢がかなえられる。本当にありがとう」
涙声で何回も頭を下げる進太を、チハルは笑って見下ろす。
「礼はキリンに乗ってからいいな」
涙を拭って進太が大きくうなずく。まなじりを決して進太は石垣を見つめた。バナナの房をスカーフに結びつけて首に掛け、力いっぱい石垣を登る。石垣の天辺に立つと、ちょうどサクタロウの背の高さと同じになった。サクタロウは無邪気に路側帯に植えられた紅葉の葉を食べている。進太はバナナを一房取って皮を剥いた。サクタロウに向けてバナナを振ると、長い首だけを伸ばしてくる。

「だめ、サクタロウ、こっちに歩いてくるんだ」
厳しく言って背にバナナを隠すと、やっとのっそり近付いてくる。サクタロウが背に乗れるところまで来たとき、進太はちぎったバナナを前方に投げた。即座にサクタロウが向きを変え、素早く路上に落ちたバナナに首を伸ばす。進太の足先に無防備なサクタロウの背がある。進太は一瞬の躊躇もなく、サクタロウの背に飛び乗った。ブラシのように固い短毛が股間を刺す。ぱんぱんに張り切った肌が一瞬揺れた。だが、サクタロウは進太を振り落とすよりバナナを選んだ。巨大なキリンの背に乗った進太は、巨木に不安定にとまったセミのように見える。必死の思いで太い首にスカーフを回して手綱を確保する。少し抵抗の素振りを見せたサクタロウも、小さな荷物を諦めたように進太を背にして、また紅葉の葉を食べに行った。

「進太、すてきだよ。キリンに乗った人間を、私は初めて見た」
キリンを見上げて感動の声を上げたチハルが、進太にはやけに小さく見えた。
「ありがとう、本当にありがとう。チハルも一緒に煉瓦蔵に行こうよ。ママにもぜひ紹介したい。なんと言ってもチハルは僕の大恩人だ」
キリンの背で誇らかに言った進太はちっぽけだが、チハルの目にはとても大きく見える。これで良かったとチハルは思った。夢が実現することも、この世にはあった。その事実が無性にうれしかった。
「いいえ、進太。私は行かない。これでさよならだよ。進太のことはきっと忘れない」
「残念だな。でも僕は行く。きっとチハルも喜んでくれるね」
答えた進太にチハルが大きくうなずく。進太は坂の下を見つめ、ちぎったバナナを遠くに投げた。サクタロウがバナナを追ってゆっくり歩き出す。進太は手綱を握り、キリンの誘導を必死で覚えようと歯を食いしばる。

チハルの目の前を異様な一団が遠ざかっていく。三頭のキリンが街へ続く坂道を下りていくのだ。ひときわ大きいキリンの背で、ちっぽけな進太の裸身が不安定に揺れている。いつキリンが暴走を始め、進太が振り落とされても不思議はない眺めだった。振り落とされれば、多分進太は死ぬ。しかし、チハルはそれでも構わないと思った。これだけの手助けをした責任も特に感じなかった。少なくとも、絶望の淵にいた進太が夢を現実にしたのだ。夢の実現が死に繋がって悔いるのは、夢の実現を望まぬ人間の驕りに過ぎない。チハルの脳裏にMの顔が浮かんだ。どうやらMと同じようなことをしてしまったと一瞬思った。頬が赤くなる前に激しく頭を振り、Mの幻影を振り払う。明日は祐子を誘い、八木節祭りを案内させることに決めた。思えば、それが今回の帰省のただ一つの目的だった。
街へと続く家並みの向こうから、チャカポコ、チャカポコと陽気な八木節音頭のリズムが流れてくる。

カッカッカッカと蹄の音を響かせて、サクタロウは山手通りを歩む。
雨上がりの通りは閑散としている。八木節祭りの会場になった織姫通りに向かう人影も見えない。すでに市民全員が祭りに出掛けてしまったような気がする。もう午後9時に近いのかも知れなかった。
「芝居が終わってしまう」
焦りに咽せたつぶやきが進太の口に上った。しかし、キリンのサクタロウは平気な顔で、広い道路の真ん中をもの珍しそうに長い首を振りながら悠然と歩く。大きな歩みに連れて進太の裸身も微妙に揺れる。すぐ近くに赤信号を点滅させた織姫通りと合流する信号が見えているが、なかなか近付かない。

進太は首から下げた二本のバナナの房から一つを取って皮を剥いた。バナナの甘い香りが鼻孔を突く。サクタロウの背を左右の脚できつく挟むようにしてバランスを取り、力いっぱい腕を振り、思い切り遠くにバナナを投げた。途端にサクタロウがダッシュする。進太の背が後ろに引かれ、危うく振り落とされそうになる。すんでの所で前方に重心を移し、急な加速を必死で堪える。跨るキリンの背に慣れたせいか、不思議に恐怖はない。サクタロウの巨体も走る速さの割には安定している。左右への揺れは思ったほど無い。加速に伴う前後の重心移動さえ気を付ければ何とかなった。とにかく、長い道のりを振り落とされずにここまで来たのだ。煉瓦蔵までは、もう500メートルも無い。

11.祭り(6)

「進太が来ない」
Mの耳元で陶芸屋が情けない声でつぶやく。もう何度聞いたか忘れてしまうほど聞いたつぶやきだ。お陰で目の前の芝居に集中できない。しかし、あれほどの風雨が嘘のように通り過ぎた後、定刻通り始められた芝居は大成功と言えた。200人の観衆は固唾を呑んで芝居を見つめ、今、最後の幕間の喧噪が煉瓦蔵を包んでいた。Mは広場の舞台の前にいる。空気は蒸し暑かったが、雨上がりの涼しい風が広場を通り抜ける。時折頭上のクスノキの枝葉から水滴が落ちた。観衆は約半数の百人が外の舞台を取り巻いている。最終幕が始まれば、煉瓦蔵の中から百人の観衆が外に移動してくるはずだ。それも、すべてが睦月の演技にかかっている。

煉瓦蔵の前の織姫通りからは、絶え間なく八木節のリズムが響いてくる。各町会の櫓を囲んだ八木節踊りも、今や最高潮を迎えようとしていた。
「M、進太は遅い。本当に来るだろうか」
不安に満ちた声で、横に立った陶芸屋がまたつぶやく。
「大丈夫ですよ。必ず来ます」
極月がMの代わりに確かな声で答えた。極月は紺地に朱の波頭をあしらった浴衣を着ている。帯は鮮やかな銀だ。初めて見る浴衣姿だが、しなやかな姿態によく似合う。優雅な手つきで団扇を使う様は、どこから見ても機屋のお嬢さんに見える。Mはふと、チハルのことが気に掛かった。この織物の街の祭りを伝えてきたのはチハルの先祖たちなのだ。アメリカにいるチハルが、祭りを見るために毎年帰省すると話していた祐子の言葉も思い出された。その祭りを今年はMがコーディネートしている。チハルが目を剥く様が目の前を掠めた。慌てて周囲に視線を巡らす。しかし、いなせに浴衣を着こなしたチハルの姿はなく、相変わらず着古したブルージーンズに白いTシャツ姿の祐子の背が見えた。横に立つ大久保玲の長身に、寄り添うようにして立っている。これで進太がいれば、最高に幸せな気分になれるとMは思う。

「ほらM。最終幕が始まるわよ。ぽかんとしていたら、睦月の熱演を見逃すわよ」
直ぐ前から声を掛けられ、ぎょっとして目の焦点を合わせる。涼しそうな白い麻のパンツルックに身を固めたチーフが笑っている。隣でチーフと手を繋いだ天田が意地悪そうに片目をつむった。他愛ない幸せがMの周りを取り巻く。
「進太は、きっと来るよな」
不幸せを一身に背負ったように、陶芸屋がまたつぶやく。
煉瓦蔵の中から八木節の音色が聞こえてきた。広場の舞台にも再び鮮やかな照明が輝きだす。劇団スタッフの手で織姫通りに面した鉄扉が大きく開かれ、街の賑わいが目に飛び込んできた。幕間も終わり、いよいよ沢田正二率いる劇団・真球の国際演劇祭応募作品「ヤギブシ」の最終幕が上がった。


動物園で生まれ育ったキリンは、やはり野生と違う。進太が時間をかけて話し掛け足を撫でた甲斐があって、やっと警戒心を解いた。だが、チハルが大きく開け放した扉から外の道路に出ようとはしない。

「さあ、サクタロウおいで。一緒に外に出よう。自由に街が走れるんだぞ」
いくら進太が呼び掛けても、長い首を外に突き出すだけで出ようとはしない。まるで天気をうかがっているようにも見える。しかし、時折遠雷が響くだけで、空はもう、すっかり晴れ上がっている。雨で洗われた夜空には星も瞬いている。暑くもなく寒くもない、素っ裸でいるのが似合いなほどすがすがしい夜だ。

「おいでよ、さあおいで」
肌にへばりつく濡れたTシャツを脱いで、素っ裸になった進太が疲れ果てた声を出した。
「餌で釣るしかないね。食べるかどうか分からないけど、冷蔵庫にはこれしかなかった」
開け放した鉄扉の横に立ったチハルが、黒いデイバッグからバナナを出して進太に投げた。進太は面食らった顔で、手にしたバナナを見る。猿ではあるまいし、キリンがバナナを食べるなんて飼育員の梅田さんからも聞いたことはない。だが、このままでは朝になってしまいそうな恐怖が湧く。進太はバナナの皮を剥いて高々と頭上に掲げた。甘いバナナの香りがにおい立つ。好奇心の強いサクタロウが長い首を伸ばし、巨大な顔をバナナに近付ける。進太が素早くバナナを背に隠すと、ザラザラした舌で進太の顔を舐めた。バナナが欲しくて甘えている様子がありありしている。進太は急いで五メートル離れ、またバナナを頭上にかざした。今度はサクタロウが躊躇無く歩みを進めた。蹄の音が響き、黒と黄の網目模様に覆われた巨体が、扉を通り抜けて戸外に出た。進太の顔がうれしさに歪む。泣き笑いをしながら、なおも先に進む。サクタロウはバナナを追ってアスファルトの道路を歩き、飼育舎から十メートル以上離れた。キサラギとキリタロウも後に続いている。高い石垣の横まで出てから、進太はサクタロウに三等分したバナナを与えた。サクタロウは太い涎を流し、おいしそうにバナナを噛む。進太は後からついてきたキサラギとキリタロウにも、同じようにバナナをやった。二頭ともおいしそうに食べた。進太の気分は最高度に高揚する。キリン使いになったような気がして大きく胸を張った。黒いデイバッグを提げて近寄ってきたチハルが、房になった四本のバナナと長いスカーフをバッグから取り出す。
「このスカーフは祐子の織った品だよ。柔らかいシルクだからキリンの首に巻いても興奮しないかも知れない。手綱替わりになる」
チハルが言って、バナナとスカーフを手渡す。進太にはチハルの裸身が輝くようにまぶしい。ぞんざいな口調も、天の声のように優雅に聞こえた。

11.祭り(5)

「ここから入るんだよ」
一声言って駆け出していった進太がドアの前でチハルを振り返り、泣きべそをかく。
「畜生。ここも鍵がかかっている。鉄のドアだから、こじ開けることもできないよ」
青い水銀灯の光を浴びた泣き顔を見ながら、チハルは平然とドアの前に立った。確かに鉄製の強固なドアだが、錠は玄関ドアと同じシリンダー錠だ。
「進太、管理棟はどの辺にあるんだい」
にっこり笑いながらチハルが尋ねた。進太の表情がまた明るくなる。
「あの小さな丘の向こうだよ。キリン舎は管理棟から一番遠くにあるんだ」
期待のこもった声で、即座に進太が答えた。チハルが黙ってドアの前にひざまづく。黒いデイバックから今度は重そうな工具を取り出した。金工用の充電式ドリル・ドライバーだった。十五・六ボルトの最強力な機種だ。チハルは空を仰ぎ、轟き続ける雷鳴を確かめてから、ドリルの先を無造作にノブの中央の鍵穴に当てた。引き金式のスイッチを握ると、途端にかん高い音が雷鳴に混じった。

進太はチハルの背中に立ちつくし、脅威の眼差しでしなやかな肩を見下ろした。チハルの精悍な姿態から、荒々しい暴力のにおいが立ち上がっている。何かしら懐かしい甘い香りが雨中に満ち、進太はむせ返る思いがした。金属を断ち切る騒音はすぐやみ、ノブの中央にポッカリと穴が通った。シリンダーを破戒された錠はもう役立ちはしない。
「ドアも開いたよ」
つまらなそうな声で言って、チハルが進太を振り向いた。
「凄いね。チハルは何でも壊してしまう。そのデイバッグは魔法のバッグだ」
感極まった声で進太が叫んだ。チハルは答えずに進太に場所を譲る。
「魔法のバッグではない。大人は子供と違い、考えられる限りの準備をして来るものだ。いずれ進太にも、きっと分かる」
チハルは心の中で言って立ち上がった。喜びに震える進太の顔を見つめる。これから先は進太が仕事をするのだ。チハルに見つめられ、緊張した表情に戻った進太がそっとドアを開けた。暑く湿った空気とすえたような獣のにおいがドアの奥から流れ出し、二人の全身を覆った。

ドアの先は広い飼料置き場だった。左手の通路の先がぼんやりと明るくなっている。進太は慣れた様子で真っ直ぐ通路を進む。チハルが遅れて後に従う。通路の先から濃厚な獣のにおいと、うごめく気配が漂ってくる。チハルは慎重に歩みを進めた。通路を抜けると、突然開けた五メートルもある天井の下に、3頭の巨大な生き物がたたずんでいた。常夜灯の鈍い光を浴びた黒と黄の網目模様が、ひときわ新鮮にチハルの目を打った。すぐ前にいる一番背の高いキリンが大きく鼻を鳴らし、蹄で鋭く床を蹴った。大きな音が飼育舎に響き渡る。サクタロウに違いないとチハルは思った。一瞬背筋を恐怖が走った。妻のキサラギと、息子のキリタロウを守るためにサクタロウがチハルを威嚇したのだ。

「サクタロウ怒らないで。この人はチハル。僕の友達だよ。怒らないで」
進太がはっきりした声で呼び掛けると、サクタロウが長い首を回して中央にいる進太を見た。チハルはその隙に、鉄扉の前まで音を立てないように注意して走った。扉の向こうは二人が歩いてきた車両専用道路だ。
「進太、キリンが警戒を解くまで、私は石になる」
短く進太に言ってから、チハルは三頭のキリンを改めて見上げた。サクタロウの身長はどう見ても4メートルはある。少し後ろで子キリンを庇うように立つキサラギも一回り小さいだけだ。2歳になったばかりのキリタロウさえ3メートル近い。チハルは首をすくめてからTシャツとパンツを脱いだ。素っ裸になると妙に落ち着いた気分になる。キリンと言ってもサクタロウは男だ。種が違っても雄が雌を嫌いな道理はない。たとえキリンでも、雄と接するときは裸に限ると思い、引き締まった肌に浮いた水滴を指先ではじいた。

つんと上を向いた二つの乳首の根元で、金色のリングが怪しく光った。リングはきれいに陰毛を剃り上げた股間でも揺れた。床に座り込んで目を閉じると、チハルの脳裏にボギーの姿態が浮かび上がる。ボギーの大きなペニスの先にもチハルと同じ金色のリングがぶら下がっている。二人で性器にピアッシングしたのは去年の夏だ。ボギーと離れ、日本に来てからまだ二日しか経っていない。ロサンゼルス郊外の広大な屋敷で毎週末、二人は誰憚ることなく素っ裸で戯れるのだ。燦々と日の照りつける広々とした芝生で、チハルは乳首のリングに繋いだ鎖をボギーに曳かれ、素っ裸で緑の芝生を走り回る。股間のリングを曳かれるときは本当につらい。ユーモラスに股間を突き出し、息を荒くして一心に走る。エネルギッシュなボギーの走りについていくのは並大抵のことでない。そして、ボギーのペニスのリングと、チハルの股間のリングを繋いで走るときの快感。ああ、なんてダイナミックな性なんだろうとチハルは思う。それに比べ、この国は常にせせこましすぎていると嘆きたくなる。しかし、進太のアイデアは違う。十分すぎるほど壮大なスケールだと確信し、目を開いた。間近に見上げたキリンの威容は、背筋が寒くなるほどチハルを威圧した。小さな進太がこの巨大な生き物の背に乗る姿を想像すると、涙が出るほどの楽しさが込み上げてきた。
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アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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