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11.祭り(4)

チハルと進太を乗せたMG・Fは動物園の正門を迂回し、水道山の中腹にある裏門を目指した。動物園は山の形を生かして飼育舎がレイアウトされている。同じ中腹にあるキリン舎は裏門から300メートルと離れていなかった。雨に煙る闇の中に金網を張った門扉がそびえている。左右に開く観音開きの巨大な門扉だ。二つの鉄パイプをチェーンで巻いて南京錠が下ろしてあった。

「だめだ、僕がキリン舎に入れても、これではサクタロウと一緒に出られないよ。正門は鉄扉だし、どうにもならない」
ヘッドライトに照らし出された高さ3メートル、幅6メートルの金網の門扉を見上げ、進太が泣き声を上げた。
「へえ、弱虫め。見ただけで諦めるのかい」
チハルが馬鹿にした声で言ってMG・Fを路肩に止め、エンジンを切った。幌を打つ雨音と雷鳴だけが車中を満たす。
「だって僕は、夜の裏門に来たのは初めてなんだ。門扉がチェーンで縛られているなんて知らなかった。もう、だめだよ」
進太の絶望の声が響き渡った。チハルの口元に笑みが浮かぶ。
「錠が下ろしてあるということは、園内の警備がないということ。それと、この夕立では何をしても見咎められる恐れはないということ。この2つがここまで来て発見できた事実だ。さあ進太、どうする。もう帰って眠りたくなったかい。このまま帰っても私は一向に構わない」

歯をきつく食いしばって進太はチハルの言葉を聞いた。このまま帰ればただの負け犬になるだけだった。決して耐えられることではない。だが、この門扉からキリンを連れて出ることは到底無理だ。また絶望が全身を被う。進太はうなだれて黙り込んだ。遠く雷鳴が聞こえる。さしもの雷雲も遠のいていく気配がした。雷鳴に代わって急に、耳の奥で音楽が鳴った。今朝聴いたばかりの「ボレロ」の調べだ。シンバルの音が鳴り響き、進太を鼓舞する。助手席にうずくまった小さな肩が震えた。たとえキリンを連れ出せなくても、チハルにサクタロウを会わせる義務を感じた。それがチハルの好意に報いる進太の責任だと確信した。勇気が全身に満ち、背筋がしゃんと立った。
「濡れネズミになって無駄足になるかも知れないけど、ぜひサクタロウに会って欲しい。チハル、お願い。一緒に来てください」
進太が真剣な声で頼んだ。チハルが闇の中で進太の目をのぞき込む。白く冷ややかな炎が進太の目の中で燃えている。三千度の熱で輝く炎と同じ色だ。

「よし、行こう」
大きくうなずいて答え、チハルはドアを大きく開けて路上に出た。冷たい風と横殴りの雨が全身を襲う。MG・Fのトランクを開け、黒いデイバッグを引き出す。見る間に濡れネズミになったチハルの身体に、黒いパンツと黒い長袖のTシャツがへばりついた。精悍でマニッシュな、黒い裸身が突然出現した感じだ。形良く盛り上がった乳房と、位置の高いスマートな尻が進太の目にもまぶしい。ショートの髪がびっしょり濡れ、頭の輪郭が露になる。耳元のダイヤのピアスが稲妻に光った。黒いデイバッグを右肩にかけ、チハルは大股に門扉に向かう。慌てて進太が付き従う。歩きにくいサンダルを脱ぎ捨て素足になってチハルを追った。門扉の前にチハルがひざまづき、デイバッグから巨大なニッパーを取り出す。左右二つの門扉を縛ったチェーンを無造作にニッパーの歯で挟み、渾身の力を入れて断ち切る。鋭い金属音が二度響き、チェーンと南京錠がチハルの足元に落ちた。
「これで出口はできた。さあ、キリン舎に案内しな」
背後で切断作業を見つめていた進太を振り向き、チハルが大きな声で命じた。闇の中で白い歯が笑っている。進太は喜びを全身に現し、躍り上がって前に出た。錠を破戒された門扉を開き、周りを見回してから園内に入った。

裏門から山の上に向かって、アスファルトのだらだら坂が続いている。作業車両の専用道路なので結構広い。進太とチハルは雨に煙る園内灯の青い光の下を、足早に歩いていく。全身はもう、雨に濡れたというより服を着たままプールで泳いできたと言った方が適切な有様だった。寒ささえ感じた肌が上り坂で汗ばみだしたころ、高い石垣の切れ間にキリン舎が見えた。飼育広場のある正面からは裏手に当たる。屋根までの高さが五メートル以上ある鉄骨とコンクリートパネルで築いたキリン舎は、大きな鉄扉を固く閉ざしている。方形の飼育舎の横に小さな張り出しがあり、飼育員の出入りするドアがあった。

11.祭り(3)

午後6時の山地の空は真っ黒だった。闇の中を鋭く稲妻が走り、雷鳴が山肌を震わせた。大粒の雨が、まるでバケツで水をぶちまけたように空から真っ直ぐに降る。チハルは幌をかけたMG・Fを土砂降りの雨の中に発進させた。助手席には緊張した顔で進太が座っている。進太はチハルの黒いTシャツを着ているが、大きすぎてワンピースのようだ。下半身は裸で、足に赤いサンダルを突っ掛けている。チハルが黒いショーツを穿くよう勧めたが、進太は頬を赤くして断ってしまった。

「ハッハハハ、恥ずかしがることはない。Tシャツは大きすぎるけど、私のショーツは小振りだから、小さな進太にぴったりだよ。スッポンポンでいるより、よっぽどましさ」
降りしきる雨を見つめる進太の耳に、チハルの笑い声が甦る。邪気のない飾らない態度は好きだが、どうにも無神経な言動が進太の気に障る。Mと違ってチハルはデリカシーがないと、また赤く染まった顔をチハルに向け、進太は無言の抗議をした。

「女にはもてそうだけど、進太は男で苦労するよ」
進太の視線を感じたのか、チハルが前を向いたままポツンと言った。激しい雷鳴が後に続く言葉をかき消す。青白い閃光が狭い車内を連続して貫いた。黒い幌と窓ガラスの合わせ目から染み込んだ雨水が、幾筋もガラスを流れ去る。雨水で歪んだ真っ黒な風景の中に、沢田と陶芸屋の顔が浮かび上がった。二人ともザリガニのように醜い表情をしている。進太はチハルの言葉を幼いなりに実感した。再び閃光が走ると沢田と陶芸屋の顔が消え去り、緊張にこわばった自分の顔が映った。やはり醜く歪み、目から涙のように雨水が流れている顔だった。
「水道山を越えて行くよ。いくら土砂降りでも、祭り期間の織姫通りは通行止めだろう。でも、参ったなあ。ほとんど前が見えない。雷雲に追い掛けられているみたいだ。ずっと土砂降りだぜ」
うんざりした声でチハルが言って、鋭く右折した。MG・Fのテールが大きく左に流れる。チハルが素早くハンドルにカウンターを当てて車体を立て直し、美術館に向かう急な坂道に向かった。ダッシュボードの白い時計は午後七時に近付いている。思いのほか時間がかかったが、水道山を越えればすぐ山手通りに出る。ここから動物園までは直距離なら2キロメートルもない。それにしても凄まじい降りだ。市街は今、雷雨のピークを迎えている。


睦月は煉瓦蔵の広場を激しく叩く鋭い雨脚を見ていた。巨大なクスノキの枝葉が風雨に身悶えしている。絶え間なく稲妻が走り、雷鳴が轟く。大粒の雨はコンクリートの地面で跳ね上がり飛び散る。風向きによって冷たい飛沫が足元を濡らした。もうじき午後7時になる。開演まで30分しかない。早く雷雲が通り過ぎ、雨が上がることを睦月は祈った。

細く開けた煉瓦蔵の扉を目掛け、強まった風雨が襲い掛かかる。肌寒くなるような風に全身を包まれ、睦月の肩が震えた。きれいに結い上げた日本髪の鬘も風に震えた。睦月は緋色の長襦袢を着て、細紐で前を結んでいる。まるで浮世絵から抜け出してきた遊女のように、あえかな姿だ。だが、せっかくの衣装も第一幕の見せ場で無惨に脱がされてしまう。薄紫の湯文字一つに剥かれた裸身を、厳しく後ろ手に緊縛されることになる。最終幕ではその湯文字すら許されない。背面合掌縛りに緊縛された手に赤い蝋燭を握らされ、素っ裸で折檻部屋に曳かれていくのだ。その時はきれいに結い上げた高島田も千々に乱れ、凄惨な姿になっているはずだ。ステンレス・ファイバーの縄と、ことさらに裸身を白く彩る全身に塗ったドーランだけが最終幕の睦月の衣装だった。

「ずいぶん緊張しているね。幕開きを待つ役者ほど美しい者はこの世にいない。睦月、すてきだよ」
背中からバスが響き、睦月の背筋を熱いものが駆け下りる。黙っていると背後から優しく抱かれた。
「ほら、乳首がこんなに固くなっている」
長襦袢の胸元に入り込んだ温かな手が尖った乳首を摘んだ。沢田のささやきが睦月の耳元をなぶる。
「先生」
万感の思いを込めて睦月が喘いだ。沢田の手が乳房から放れ、長襦袢の裾を割り開く。優しい手の感触が睦月の股間に広がる。
「大丈夫、芝居はうまくいく。明日から睦月はスターだ。この続きは打ち上げの後にしよう」
沢田の力強い声と共に、股間から手が離れた。睦月の下半身が熱く燃え上がる。将来のすべてが今夜の芝居にかかっていると思い定めた。心なしか、ぼんやりと目に映る雨脚が小降りになったような気がする。しばらくすると雷鳴が遠のき、風も弱くなってきた。睦月は一切を忘れ、ひたすら開演の時刻を待った。進太のことなど、まるで胸中にない。

11.祭り(2)

Mは午前11時に織姫通りを車で往復した。これが祭りの最終チェックになる。正午からは織姫通りが車両通行止めになり、3日間の八木節祭りがスタートするのだ。相変わらず空は良く晴れ、空気は灼け付くように熱い。コンクリートの電柱にとまったセミが頭上から暑苦しい鳴き声を落としている。通行止めを一時間後に控え、織姫通りを通行する車両は少ない。通りの両端の歩道から路上に、巨大な笹飾りが交互に垂れ下がっている。赤や黄、青、金や銀の原色を散りばめた吹き流しやくす玉の重みで、太い竹がたわわに曲がっている。オープンにしたMG・Fから手を伸ばせば七夕飾りを掴めそうだ。通りの左右に軒を連ねた露店では、様々な格好をした若い露店商が商売の支度に余念がない。各町会ごとに組まれた八木節の櫓は、道路の中央に押し出される時刻を今や遅しと待っている。日が落ちれば、この櫓を囲んで幾重にも八木節踊りの輪ができる。すでに街は祭り一色に染まっていた。

Mは織姫通りの準備に遺漏がないことを確かめてから、煉瓦蔵の前に車を止めた。閉められた鉄扉の間から広場の舞台が見える。舞台は青いビニールシートで覆われている。連日の雷雨に備え、公演が始まらなければセットは姿を現さない。芝居の幕は午後7時30分に上がる。思わず山地の方角を見上げると、もうすでに巨大な積乱雲が立ち上がっていた。この分では早い夕立が予想される。宵のうちの降り上がりを、Mは祭りの成功のために願った。

スニーカーの中に汗が溜まってしまうかと思えるほど、剥き出しの足を汗が流れる。Mは車をスタートさせ、天満宮の前で左折して山手通りに入る。MG・Fをアパートに駐車し、自転車に乗り換えるつもりだ。ついでにシャワーを浴び、Tシャツも着替えたかった。しかし何よりも、昨夜から食事もしようとしない陶芸屋のことが気になる。昨日、陶芸屋は病院で後頭部の手当をした後、睦月のアパートで進太の帰りを待った。出血に驚いた割には、幸い傷は軽傷だった。進太が帰らぬまま夜中になり、疲れ果ててMの部屋に戻って来た。その後も陶芸屋は、まんじりともしないで睦月の電話を待っていた様子だった。朝から憔悴していた顔が目に浮かぶ。

Mが部屋のドアを開けると、玄関の前に陶芸屋が立ちつくしている。真っ赤に充血した大きな目で力無くMを見つめた。
「進太が来るかと思って、じっとしていられないんだ。なあM。進太はどこで夜明かししたんだろう。俺は心配でならない。夏なのが唯一の救いだ。これが冬だったら、俺は一晩中進太を見付けて歩くよ」
進太を見付けて歩かないMを、なじるような声で陶芸屋が愚痴をこぼした。部屋の窓は開け放してあるが、クーラーは入れていない。蒸し暑さがMの気力を奪う。Mは返事も返さぬまま部屋に上がり、エアコンのスイッチを入れて窓を閉めた。その場で素っ裸になりバスルームに駆け込む。冷たい水を頭から浴びると、やっと人心地がついた。全身から滴をしたたらせたままキッチンに行き、冷蔵庫を開ける。朝用意して置いたソーメンを取り出し、2人分テーブルに並べた。

「さあ、陶芸屋も食べなければだめよ。夜になって芝居の公演が始まれば、進太は煉瓦蔵に来るわ。絶対に来る。それまでに体力を付けておかないと、また進太に逃げられるわ。後7時間しかない。さあ早く食べて、横になって昼寝しなさい」
Mが明るい声で呼び掛けると、陶芸屋が目を輝かせて食卓に着いた。

「そうか、今夜は睦月の芝居があった。そうだ、進太は必ず来る。M、ありがとう。やっと一安心できた。よーし、俺も食うぞ」
陶芸屋の元気な声が部屋に響いた。進太が今夜、煉瓦蔵に現れることだけは確実だと誰もが思う。ただし、その後の推移は誰にも予測はできない。だが、陶芸屋の希望は大きく羽ばたいていった。Mは味気なくのびてしまったソーメンを無理に喉に流し込む。陶芸屋はうまそうにソーメンを啜り、だし汁のお代わりまでした。憔悴しきっていた顔が嘘のようだ。食事が終われば、いびきをかいて眠るかも知れない。再び暑熱の街に出て行かねばならないMは、羨望のこもった目で陶芸屋を見つめた。

11.祭り(1)

ついに毒薬は手に入らなかった。
進太は浅い微睡みの中で歯を食いしばり、寝返りを打った。天井の巨大なガラスのドームから差し込む夏の光が一瞬目にまぶしい。朝の九時近くになっているに違いなかった。だが、昨日までのように暑苦しさを感じることもない。エアコンの風が素肌を優しく撫で回していく。エアコンのノイズに混じって、微かに音楽が聞こえる。軽やかな小太鼓の響きに乗ってオーボエが心地よく歌っている。耳を澄ますと同じメロディーが何度も繰り返されていた。音楽は壁一つ離れた隣の部屋から聞こえてくる。チハルがCDをかけたのだと、進太はぼんやりした頭で思う。三拍子のリズムは進太の微睡みの中に入り込み、徐々にクレッシェンドしながら気分を高揚させていく。ラヴェル作曲の管弦楽曲「ボレロ」が進太をもう一度夢に誘った。「ボレロ」の調べに乗って真っ青な空を白い天馬が舞っている。高く低く天馬は舞い、大空を駆けて進太を宙に誘う。だが進太は空に舞い上がることができず、天馬の背に乗ることもできない。たまらない焦りが込み上げてきて、進太は慌てた。

「サクタロウ待ってよ。ぼくを乗せてよ」
大声で叫んだ瞬間、進太は完全に目覚めた。足で綿毛布を蹴ってベッドの上に起き上がる。高まる「ボレロ」の調べが、全聴覚を満たした。そっと目をつむると、キリンのサクタロウの背に乗って疾走する自分の姿がありありと見えた。夢で見た天馬よりスリリングでさっそうとした姿だ。進太はベッドの上でリズムに合わせて全身を揺すった。足を投げ出し、まるで手綱を取るように両手を胸の前に突き出し「ボレロ」の調べと一体になる。ひときわ高くシンバルが鳴り響き、管と弦が吼えた。曲のエンディングと共に進太は立ち上がり、真っ直ぐ背を伸ばし大きく伸びをした。今日は八月一日、八木節祭りの初日だ。母の睦月が芝居に出演する日だ。
進太はサクタロウに乗って、煉瓦蔵から母を連れ去る自分の姿を思い描いた。あの巨大なサクタロウと一緒なら何だってできる気がする。

「よーし、やってやるぞ」
大声で言ってベッドから飛び降りた。途端にドアが開けられ、驚いた顔でチハルが部屋に入ってくる。
「どうしたの進太、大声が聞こえたよ。祐子のベッドで怖い夢でも見たのかい。それにしては元気そうだね。小さいくせに、今にも立ち上がりそうなオチンチンだよ」
面白そうに進太を構う言葉を無視し、進太は床に正座して深々とチハルに頭を下げた。

「お願いがあります。今日の夕方、僕を市の動物園へ連れていって下さい。頼みます」
素っ裸のまま神妙な顔で頭を下げる進太を見下ろし、チハルがまた面食らった顔になる。
「市は今日から祭りでしょう。何でわざわざ動物園なんかに行くの」
「僕はサクタロウに乗るんだ。サクタロウに乗って、ママをここに連れてくる。邪魔をする奴はみんな、蹴散らしてやる」
最後の言葉に鋭い殺気が籠もった。チハルの背筋を冷たいものが掠める。同時に面白いこと、この上なかった。最近にない痛快な気分になる。昨夜、進太の語るたどたどしい話を聞いて、ある程度の事情も理解できた。だが母の睦月は、進太が邪魔者を蹴散らしてまで連れ戻す価値があるとは思えない。六年前に山地の奥で見ているはずの睦月の顔を、どうしてもチハルは思い出せない。それなりの人物としか思えなかった。でも、母を慕う進太の気持ちはチハルにも分からなくはない。都会の兄の元に行ったチハルの母も三年前に死んだ。アメリカにいたチハルは死に顔も見ていない。急いで帰ってきたときはもう骨になっていたのだ。

「サクタロウって誰さ」
浮かび上がってきた母の面影を振り払うように、チハルが尋ねた。
「キリンだよ。背が四メートルもあるお父さんキリン。僕の友達。きっと背中に乗せてくれるよ」
喜々とした声で進太が答えた。即座にチハルが大声で笑い転げる。
「ハハハハハハ、最高だよ。進太は最高に面白い。いいよ、一緒に動物園に行ってやる。私もキリンに乗った進太が見たい。最高だよ。参ったね。本当に参った。ハッハハハ」
いつまでもチハルの笑いは続いた。八木節祭りなどより、よっぽど楽しいイベントになると思う。もしかしたら進太は、本当にキリンに乗れるかも知れないと思った。チハルの笑いが消え、真剣な表情が戻る。小さな夢に立ち会う喜びが、久しぶりにチハルの下半身を熱くさせた。

10.面談(5)

「坊や、山地に露天風呂でもできたのかい」
運転席から身を乗り出し、チハルがぶっきらぼうな声で言った。
「何だ、Mじゃないのか。面白くもない」
素っ裸の子供がふてくされた声で言って首をすくめた。チハルの表情がまた緊張する。
「えっ、もう一度言ってみな。Mってのは、これと同じ、赤いMG・Fに乗っている女かい」
黙ってうなずく裸身をチハルが手招きした。
「面白いね、素っ裸なのがいいよ。さすがにMの友達の坊やだ。参ったね。さあ、車に乗りな。乗せていくよ。どこへ行くんだい」
親しげに話し掛けたチハルに誘われ、震える裸身が近寄ってくる。
「俺は進太。歯医者へ行きたい」
ひときわ高いボーイ・ソプラノで答え、進太は素早く助手席に座った。雨で濡れた髪から肩にかけて水が滴っている。全身に鳥肌が立ち、寒さに歯を鳴らしていた。チハルはヒーターを入れ、着ていた麻の白いジャケットを脱いで進太に手渡す。
「いいよ。汚れてしまうよ。僕は裸でいい」
ジャケットを押し返す進太の口調が、やっと年相応の話し振りに感じられた。チハルの口元にまた笑みが浮かぶ。

「黙って着なさい。素っ裸では私に失礼だろう。いくら小さくても、女の前でチンチン丸出しでは先が思いやられる。まあ、進太の友達のMも、素っ裸で股間丸出しのスタイルが好きだったが、真似しない方がいいよ。私はチハル。祐子の友達だよ。祐子を知っているだろう」
チハルの言葉で進太の頬がポッと赤く染まった。押し返したジャケットを手元に引き寄せ、股間から胸を覆った。下を向いたまま照れ隠しのように早口で答える。
「祐子は良く知ってるよ。チハルさんが祐子の友達なら、Mとも友達だね」
「さんは要らない。チハルでいいよ。それから、Mは友達ではない。さあ家に送ろう」
チハルの厳しい声に進太が黙る。チハルは無造作に後ろを振り向き、MG・Fをバックさせてコンビニエンス・ストアの駐車場に入った。
「だめだよ。僕は家に帰れない。山地の歯医者に行くんだ。お願い、連れていってよ。お願いだよ」

進太の泣き声が深閑とした駐車場に響いた。あまりの激情に驚き、チハルは進太の横顔をのぞき込んだ。
「山地の歯医者って、ピアニストの実家の蔵屋敷のことかい」
「そうだよ。死んだピアニストのお父さんさ。僕のお父さんも死んだけど、ピアニストと一緒に住んでいたんだ。だから、きっと歯医者は僕を泊めてくれる」
進太の言葉は遠い昔の記憶をチハルの胸に甦らせた。思い出したくはない記憶だが、整理できないまま捨て置いていた記憶が、堰を切ってチハルの胸中に溢れる。
「私は、進太の両親もきっと知っている。誰なんだい」
「修太に睦月」
進太がぽつりと答えた。チハルの脳裏に一人で立ちつくす、修太の青ざめた姿が浮かび上がる。思えばいつも、修太は深刻で苦しそうな表情をして、チハルの前に現れた。目の前にいる進太の目から口元にかけては、まるで修太と瓜二つだ。チハルは大きくうなずき、山地に向けて車を発進させた。急に進太の表情が輝き出す。

チハルはいわくありそうな進太をドーム館に泊めることに決めた。蔵屋敷に行っても歯科医はいない。祐子から聞いた話では、歯科医の妻が昨年交通事故で死に、歯科医は市に移り住んでしまったはずだった。

様々な人たちの思いが籠もる山地の谷に、新世代の進太と泊まるのも一興だとチハルは思った。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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