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10.面談(4)

疲れ切った進太はコンクリートで固めた護岸に上がり、うつ伏せに寝ころぶ。熱く灼けたコンクリートが冷え切った肌に気持ちよい。背から尻を炙る斜めになった日射しも心地よかった。仰向けになって空を見上げると、山地の方角に巨大な入道雲が立ち上がっていた。進太も立ち上がり、皮を被ったペニスを川面に向けてのびのびと放尿した。飛び散る尿を浴びたコンクリートの裂け目の水たまりで、赤黒い物が動いた。屈み込んでのぞくと大きな鋏を上げたザリガニが進太を威嚇している。無造作に手を伸ばし、進太はザリガニを掴もうとした。湯のように暖まった溜まり水の中で、ザリガニは素早く進太の指先を挟んだ。鋭い痛みが指から脳に走る。今度は慎重にザリガニの背を摘んだ。手に持ったザリガニを目の前にかざして見ると、相変わらず大きな鋏を振り立てて進太を威嚇している。細長い足で必死にもがき、荒々しく尾ヒレを振り立てている。なんとも醜悪な姿だった。この醜いちっぽけな生き物が鋭い痛みを与えたのだと思うと、怒りが込み上げてきた。ザラザラとした固い殻を摘んだ親指と人差し指に力を込める。ピシッと小さな音が響き、指先の抵抗が消えた。潰れたザリガニの胴から、ぬるっとした粘液が足元に滴り落ちた。驚愕と快感がない交ぜになり、真っ赤な感情となって膨れ上がる。進太は右手を高々と振り上げた。そのまま力いっぱい、ザリガニをコンクリートの地面に叩き付ける。生物が砕け散る何とも言えない物音が響き、裸の足や股間にザリガニの体液や内蔵の破片が跳ね返ってきた。ねっとりとした感触を素肌に受け、進太の背筋が一瞬に凍り付く。続いてえもいわれぬ残酷な快感が吹き出し、尻の穴の周りがむず痒くなった。外向きの殺意は肛門を中心に生まれた。ペニスの先にへばりついた赤黒い液体を指に取り、鼻先に持っていくと腐った魚のにおいがした。足元のコンクリートの地面にザリガニの残骸がごみのように転がっていた。大きな鋏で指先を挟まれた事実が、まるで嘘のようだ。ザリガニの死骸を無表情に見て進太は立ち上がった。死骸になってもやはり、醜悪な姿は一向に変わらない。ただ、死を契機にして一切の関係が絶たれたことだけが唯一の変化だった。

進太は火照ってしまった裸身を再び川面に浮かべた。流れに逆らってゆっくり泳ぎ、脱いだ服を置いた橋下に向かう。冷えていく意識の底にザリガニになった沢田と祖父が見える。進太の口元が歪み、心地よさそうな笑いに変わる。Mに聞いたことがある山地のピアニストの家に行こうと思った。ピアニストの家は歯医者だ。歯医者には毒薬がある。毒薬があれば簡単に大人を殺すことができる。とにかく武器を手に入れることだと進太は思った。そうすればもう、何でも進太の思いのままになるような気がした。冷たい流れの中で、進太はまた楽しそうに笑う。幼すぎる殺意は甘い味がした。ようやく夕暮れがやってきた川面を涼しい風が渡っていく。不意に全身の寒さを感じ、進太は身体を震わせて身近な岸に上がった。

「こらっ、泳いでいるのは誰だ。山根川は遊泳禁止だ。どこの学校の生徒だ。先生に連絡するぞ」
はるか頭の上から怒声を浴びせられ、進太はぎょっとして空を見上げた。
頭上四メートルの橋の上で、自転車に乗った制服警官が欄干から身を乗り出し、進太を睨み付けている。夕焼けで赤くなった空をバックに、警官の姿は恐ろしいほど大きく見えた。進太は毒薬のことを見透かされた思いがした。恐怖が全身を走り抜ける。脱ぎ捨てた服を捜すのも忘れ、進太は素っ裸のまま芦原の中に逃げ込んでいった。

ヘッドライトの光を浴びて雨上がりの路上が輝いている。オープンにしたMG・Fの車内に、山根川を吹き下ろす涼しい風が巻き込んできた。雨のにおいがチハルの鼻をくすぐる。森林の香りと一体になった、雨の山地特有のにおいだ。久方ぶりに感じた懐かしさが、アクセルを踏むチハルの右足に力を与える。鋭い加速が小気味よい。車は成田空港で借りたレンタカーだ。チハルは二年振りの帰省にフェラーリを選びたかったがレンタルなどない。仕方なく空港の前のローバーの店で強引にMG・Fを借りた。借りてしまってから不意にMのことを思い出し、暗然とした気持ちになってしまった。おまけに車体の色も真紅だ。だが天候には恵まれ続けた。雷雨の多いこの地方に入ってからも、不思議と雨上がりの道ばかり走った。まるで遠ざかる雷雲を追い掛けてきたみたいだ。Mの悪運の強さに思いを馳せ、思わずたわいない笑みが浮かぶ。別に会いたくはないが、Mにはもう6年会っていない。チハルがコスモス・アメリカに赴任した年に会ったのが最後だ。その後の話も、時折祐子から国際電話で聞かされたが特に関心はなかった。アメリカの仕事は忙しい。今のチハルはコスモス・アメリカの副支配人だった。お陰で、これまで欠かしたことがない夏の帰省も、二年振りになってしまっていた。

MG・Fは山地にただ一つあるコンビニエンス・ストアの前に差し掛かった。大きな水溜まりのできた広い駐車場に、車は一台もない。徐行して店内をのぞき込んだが、客もいない。これで商売になるのかとチハルは思い、益々過疎になっていくらしい山地の将来を危ぶんだ。時刻はまだ午後八時を過ぎたばかりだ。
「私には関係ない」
大きな声でつぶやくと、両側から迫った山塊の上に稲妻が光った。続けて間延びした雷鳴が轟く。チハルは正面の闇の先に目を戻し、再びアクセルを踏み込もうとした。突然、左手の黒い林の中から白い影が飛び出す。チハルは慌ててブレーキを踏み込んだ。四本のタイヤがけたたましい音を響かせ、MG・Fは道路の中央で急停止した。ヘッドライトの光を浴びて、小さな裸身が路上に突っ立っている。雨上がりの涼しい山間で震える裸身は、あきれるほど幼く見えた。緊張しきったチハルは拍子抜けし、続けて笑いが込み上げてきた。

10.面談(2)

進太はリビングの食卓でうつむいて座っていた。入ってきたMに縋るような視線を浴びせ、またうなじを下げた。陶芸屋には一瞥もくれない。Mはリビングの奥の二人掛けの椅子に陶芸屋を座らせ、その横に立った。
「さあ進太。お祖父ちゃんが迎えに来てくれたわ。早くご挨拶しなさい。きっとかわいがってくれるわ」
睦月が言って、座っている進太の頭を小突いて立ち上がらせた。両手で背中を突き、陶芸屋の前に押し出す。ふてくされた態度で従った進太の代わりに、睦月が食卓に座った。
「進太、照れていないで、お願いしますって、ちゃんと言うのよ」
実の息子の気持ちも推し量れなくなった睦月が、妙に機嫌のいい声を出す。声に促され、進太が初めて大きな目で陶芸屋を見つめた。憎しみのこもった冷たい視線だった。

「ねえ、お義父さま。大きな目から口元にかけては、死んだ修太と生き写しでしょう。私はいつも、見ていてたまらなくなったわ。男らしい気持ちもそっくりなのよ」
睦月がしんみりした声で陶芸屋に話し掛けた。睦月はいつも、心の赴くままに言葉を紡ぎ出す。じっと、まばたきもせず進太を見つめていた陶芸屋の耳を、睦月の言葉が打った。2メートル前に立つ少年は確かに、幼い修太が甦ったと見まがうほど生き写しだ。陶芸屋の喉元に熱いものが込み上げてくる。次々に喉に込み上げてくる感情の波が目に涙を溢れさせる。陶芸屋の口を声にならぬ叫びが突いた。不自由な身体が嘘のように、椅子から腰が上がり、立ち上がった。

「修太。進太」
息子と孫の名前を同時に口にして、陶芸屋は自由になる左手を大きく横に開いた。
「進太、俺と鉱山の町に行こう。お父さんの暮らした土地で一緒に暮らそう」
喘ぐように陶芸屋は言って、硬直した右足を引きずり、修太の思い出と合体した進太の前に歩み寄る。
Mの目の前で進太の震える足が一歩後退した。足の震えは全身に伝わり、身体全体が泣き出したように震えた。進太のすぐ前に、左手を突き出し、足を引きずった陶芸屋が迫る。

「死ね、鉱山の町なんかに誰が行く。お前なんか死んでしまえ」
憎悪に満ちた叫びを上げ、進太が頭から陶芸屋にぶつかっていった。渾身の頭突きを受けた陶芸屋の痩せた身体が後ろ向きに吹っ飛ぶ。今まで座っていた椅子に後頭部が当たり、鈍い音が響いた。
進太は無様に床に倒れた陶芸屋を、肩で息をしながら見下ろす。意外なくらい心は平静だった。床を汚した赤い血が鮮明に目に映った。慌てて陶芸屋に駆け寄ったMが何事か叫び、硬直した身体を抱き起こしている。視線を巡らして食卓の母を見る。睦月はぼう然とMと陶芸屋を見ている。大きく見開いた目に、たちまち失望の色が広がっていくのが分かった。部屋の中央に立ちつくす自分だけが、まるで別世界にいるような気がした。
「誰も僕のことは構ってくれない」
ふてくされた少年の声が進太の頭の中で響いた。これまで聞いたことのない低い声だが、自分の声に相違なかった。

「睦月、陶芸屋は頭を打ったわ。意識はあるけど、念のため、救急車を呼んで」
進太の耳に初めて他人の声が聞こえた。冷静なMの声だ。睦月の応える声がして救急車を要請する声が続いた。電話をかけ終えた睦月が進太の横に立った。進太は母の顔を見上げた。目と目が合う。睦月の目に特に感情はない。きっと僕の目もママと同じだと進太は思った。思った瞬間、口元に笑いが浮かんだ。睦月の右手が挙がり、力任せに進太の頬を打った。皮膚を打つ高い音が部屋を満たす。
「進太は馬鹿よ。黙って鉱山の町に行けばいいんだ」
低く押し殺した声が頬の痛みを耐える進太の耳を打った。
「ウルセイ、みんな、みんな、死んでしまえ」
大声で叫びながら進太が外に駆け出していく。妙に乾燥したボーイ・ソプラノの余韻がMの耳に残った。遠くから救急車のサイレンが近付いてくる。途端に蒸し暑さが甦り、全身から汗が噴き出してくる。
明日は祭りの初日だった。

10.面談(1)

Mと陶芸屋は午後になってから睦月のアパートに向かった。
七月最後の日曜日の昼下がりも相変わらず暑い。かろうじて日陰になった一階の駐車場で、二人はオープンにしたままのMG・Fに乗り込む。照りつける日射しを遮る術はないが、熱のこもった締め切った車よりはましだった。睦月のアパートまでは車で三分とかからない。カー・エアコンが効き始める前に着いてしまう。だが、右片麻痺の陶芸屋と歩けば、ゆうに二十分はかかるに違いなかった。

「この時刻にならないと、睦月は起きないのよ。暑いけれど我慢して」
助手席に座った陶芸屋に弁解するように言ってから、Mはアクセルを踏み込む。水道山から吹き下ろしてくる微かな風を切って、真っ赤なMG・Fが発進した。家並みの連なる山手通りが暑熱の中で揺らめいて流れ去る。

コンクリート平屋造りのアパートの前にしゃがみ込んだ、進太の小さな姿が見えた。ドアの上から張り出した庇が路上に小さな影を落としている。今年の夏の進太お気に入りの場所だった。進太の姿を認めたMの顔に微笑みが浮かぶが、決して涼しくはない路上の日陰で、昼になってから起き出してくる母を待つ進太の気持ちを考えると悲しい。睦月にMの部屋への出入りを差し止められた進太が、虐待のやんだ今でも約束を守っているのが哀れでならなかった。
小さくクラクションを鳴らすと、はじかれたように進太が立ち上がる。いつものように手を振って喜ぶかと思うと身を固くし、近付いていくMG・Fをじっと見つめてから背中を見せてしまった。そのまま慌てたように玄関のドアを開け、中に入ってしまう。

「俺は嫌われたようだ」
車を止めた瞬間、助手席から陶芸屋の落胆した声が響いた。無頓着な陶芸屋にしては鋭すぎるほどの反応だった。血の繋がりはやはり凄いとMは思い、舌を巻く。しかし、なに食わぬ風を装って横を向き、陶芸屋の顔を見た。肉親に対する強固な信頼と不安が交差した不思議な表情をしている。Mの知らない顔だった。

「気を落とすことはないわ。照れたのかも知れない」
Mが声を掛けると、即座に陶芸屋の顔付きが明るくなる。何の理由もいらない。ただ、血を巡る信頼が不安に勝っただけに見えた。陶芸屋の頭の中で勝手な思惑が一人歩きを始めようとしている。理不尽な家族がまた、新しく生まれる予感がした。Mの胸の底に悲しみが込み上げてくる。それにしても暑い。
Mは車を降りて玄関のドアに向かう。助手席から降りようとして苦闘する陶芸屋の気配がMの背中を打つ。構わず手を伸ばしてドアのノブを回した。ノブはカチッと音がしたきり回ろうとしない。何度ノブを回しても同じだった。進太が錠を下ろしたのだ。ようやくMの背後に立った陶芸屋が、事情を察して身を固くしたのが分かる。

「進太、Mよ。ドアを開けなさい」
一枚の鉄のドアを挟んで、すぐ前に進太の居る気配がする。だが答えようともしない。仕方なくMは、この家を訪れて一度も使ったことがないインターホンを押した。三回押すと、インターホンを通して睦月の声で返事があった。まるで広大な邸宅を訪ねていったような気分になる。
「こんにちわ睦月、Mよ。修太のお父さんをお連れしたわ」
Mが応えると同時にインターホンが切られ、短い廊下を走ってくる足音がドア越しに聞こえた。

「進太、何で鍵なんかかけるのよ」
睦月の怒声と玄関から立ち去る小さな足音が聞こえた後、ドアが開かれた。煉瓦色のジーンズにピンクのTシャツを着た睦月の小柄な身体が、二人を押し戻すようにドアの外まで出て来た。
「まあ、お義父さま。暑い中を、遠い所からよく来てくださいました。今まで進太もここで待っていたのですよ。あの子は照れ性だから、お義父さまにお会いするのが急に恥ずかしくなったんですわ。閉め出したりして本当に済みませんでした」

睦月はMの横に並んだ陶芸屋に深々と頭を下げ、使い慣れぬ言葉を機関銃のように連射した。歯の浮くような台詞にMが辟易とすると、急に矛先がMに向かってくる。
「Mは気が利かないわね。こんなちっぽけな車では進太を乗せられないじゃない。もう荷物も用意してあるんだから、祐子から大きな車を借りてきてよ。進太はすぐにでも鉱山の町に発てるわ」

「とにかく俺を進太に会わせて欲しい。まだ会わせてもらったことがないんだから、早く顔が見たい。睦月さん頼みますよ」
睦月の勝手すぎる態度にたまりかねた陶芸屋が、満身の思いを込めて頼んだ。
「あら、お義父さまは進太と会うのは初めてでしたか。でも、これからはずっと会っていられるのだから急ぐこともないわ。M、早く車を借りてきてよ」
「睦月こそ急ぐことはない。私も陶芸屋と一緒に進太と会うわ。とにかく中に入れてちょうだい」
Mと陶芸屋に言い寄られた睦月が、珍しく折れた。黙ってドアを開け、二人を先に中に通す。進太を引き取ってもらう手前を考えたのかも知れない。目の前にメルボルンがぶら下がっているのだ。明日は稽古最後の一般公演の日だった。Mは陶芸屋に肩を貸して、狭く短い廊下をリビングに向かう。蒸し暑さで滲み出た汗が寄り添った二人の肌をぬめぬめと濡らした。

9.祖父(6)

窓の外は明るいが、もう午後五時を回っていた。
Mは祐子のリビングで、進太の置かれた状況と母の睦月の行動を陶芸屋に詳しく話した。積極的に不自由な身体を乗り出して、陶芸屋は熱心に耳を傾けた。話が睦月の虐待に及ぶと眉をしかめ、苦しそうな顔で遠くを見た。まるで孫の痛みに息子の痛みを重ね合わすような悲愴な表情だ。すぐ決心を固め、大きくうなずいて口を開く。

「考えるまでもないことだ。進太は鉱山の町に引き取る。俺たちだって進太のことを忘れていたわけじゃない。これまでだって、いくら頼んでも睦月が会わそうとしなかったんだ。俺たちは祖父母だ。引き取る権利があるし、義務もある」
興奮した陶芸屋は、すぐにでも進太を引き取りに行きそうな剣幕だ。しばらく間を置いてからMが口を開く。

「結論を急ぐ陶芸屋の気持ちは分かるけど、私はもう少し待って欲しいと思っているの」
Mの言葉を聞いて陶芸屋の顔が曇った。Mの真意を計りかねるように、鋭い視線でMを見つめた。
「はっきり言うと事情が変わったのよ。睦月が母子二人の生活を見失って、気まぐれとしか思えない虐待を続けていたときは、私も進太を陶芸屋に引き取ってもらおうと決心したの。でも今は違う。睦月にとって進太は、ただの邪魔者になってしまった。だから、陶芸屋に進太のことを頼み込んだのよ。頼んだのは睦月で、私でも祐子でもない。それが問題なの。進太は母に見捨てられたと思っているわ。すごく感情が不安定で怖いくらいよ。このまま陶芸屋が進太を引き取れば、小さな胸に仕舞いきれないほどの傷が残る。今初めて、進太に睦月が必要なのよ」

陶芸屋は訝しそうな顔でMの話を聞いた。たとえ心に傷が残っても、進太はまだ小学校の一年生だ。時間をかければ、母に捨てられた傷などきっと癒えると思った。
「子を虐待する母が母なら、子を捨てる母も母だ。どっちも許されることでない。事情は何も変わらないよ。俺たちが進太を引き取ればすべてが解決する。後は時間が進太を癒すだけだ」
「時間をかけても癒えない傷があるのよ。母を慕いだして、何とか関心を引こうとまでしている進太にとって、自分を引き取ろうとする陶芸屋はきっと敵に映るわ。無理をしたら二度と心を許すことはないと思う」

「では、どうしたらいいんだ」
「分からないわ」
力無く答えたMの声に悲しさが滲む。
「進太に会わずに帰れと言うのか」
陶芸屋の声に怒気が滲む。どうやら小さな進太に、大きな希望を見出したようだった。Mの悲しさが募る。
「いいえ、帰ることはないわ。明日は陶芸屋と一緒に、私も睦月と進太の母子に会う。睦月の前で進太が同意しない限り、決して鉱山の町へ引き取らないと言って欲しいの」
Mの頼みに陶芸屋は答えようとしない。長い沈黙の時間が流れた。


「明日までに決心してくれればいいわ。今夜は、狭いけれど私のアパートに泊まっていってね。さあ行きましょう」
Mの声にはじかれたように、祐子が立ち上がった。
「何で小父さんがMのアパートに泊まるの。私は、ここに泊まってもらう予定だった。私はアトリエに行けばいいんだから、それが普通でしょう。今日のMはおかしい。汚く見える」
「汚いものを見たと思うから祐子はそう言うのよ。確かに私たちは、祐子の目に汚い行為を見せた。性の高まりはなかったけれど、私が官能を望んだことも事実よ。陶芸屋は私の部屋に泊まるわ」
「私は何をしたらいいの」
祐子の悲痛な声がMの耳を打った。Mは厳しい眼差しで祐子を見上げる。
「ここに、大久保さんを呼ぶといいわ」
自分の耳にさえ冷たく響く言葉がMの口に上った。祐子がかん高い声を上げ、ソファーに泣き伏す。代わりにMが立ち上がった。いつまでも子供でいられるわけではない。まだ七つに過ぎない進太が、大人の世界の入口に立たされようとしているのだ。

Mは厳しい表情を崩さず、陶芸屋に介助の手を差し伸べた。無言で立ち上がった陶芸屋がMと一緒に泣き崩れている祐子を見下ろす。二人の大人の目から、また涙がこぼれた。いくら待っても、もう先ほど耳の底で聞こえた、修太と光男、そして祐子の三人の子供の笑い声は戻って来ない。

9.祖父(5)

「陶芸屋の裸も見たい。脱ぎなさい」
Mの声に陶芸屋の顔が歪み、頬が赤くなった。
「俺はいいよ。とても見せられた裸じゃない。こうしていられるだけで勇気が湧く。それ以上は要らない」
「ひょっとして、ペニスが役に立たなくなったの」
Mの残酷な声が響いた。陶芸屋の顔が真っ赤に染まる。
「そうだ。勃起するどころか何も感じない。すべてを頭で感じるだけだ」
即座にふてくされた苦渋に満ちた声で陶芸屋が答えた。

「脱ぎなさい」
冷静な声で、またMが促した。
「M、おかしいわよ。さっきから見ていると、病気の小父さんに異常なことばかりするわ。小父さんがかわいそうで、私は見ていられない」
耐えきれずに祐子が叫んだ。全身が微かに震えている。
「祐子は子供に返っておとなしくしていなさい。これは、私たち大人の問題なの。今を盛りの祐子は後学のために、大人のすることをじっと見学しているがいい」
冷たい声で言いきったMが、祐子を睨み付ける。気圧されて引き下がった祐子は力無くソファーに座り、両手で頭を抱え込んでしまった。静まり返った部屋に祐子の啜り泣きが響く。やがて分かる日も来ると思い定め、悲しみのこもった目でMは祐子を見た。大人に訪れる機会は数少ない。陶芸屋はこの一瞬に希望の芽生えを賭けるしかない。今を逃がすことはできないのだ。喪失した機会は二度と来ないかも知れない。もうそれほどの歳月を生きてしまったのだ。

Mは視線を陶芸屋に戻し、裸になるよう無言で促す。陶芸屋が自由になる左手で作務衣の紐を解き始めた。痩せこけた醜い裸身がMの前に現れる。右半身は硬直し、筋肉も落ちてしまっていた。かろうじて生き残った左半身も目を被いたくなる惨状だ。股間に垂れ下がった萎びたペニスは見るに耐えなかった。Mは表情から驚愕を追い払い、毅然とした顔で陶芸屋の全身を見た。たとえ涙が溢れても、目を背けないことだけを強く決意する。すでに陶芸屋も泣いているのだ。涙はちょうどよい潤滑油になる。
「元気がないことは確かね。でも、ペニスはちゃんとぶら下がっているわ。私も舐めさせてもらうわね」
優しい声で言って、Mは陶芸屋の股間にひざまずいた。小さく萎みきって排泄の用しかできなくなったペニスを、両手で愛おしみ唇をつける。
「M、小父さんにはナースがいるのよ。忘れないで」
ソファーから祐子の最後の抗議の声が上がった。
「私はフェラチオが下手よ。でも、ナースは上手。嫉妬に狂ったナースがその気になれば、陶芸屋のペニスも高々と勃起すること請け合いよ」
大声でMが答え、萎びたペニスを口に含み舌の先で転がした。上目遣いに陶芸屋を見ると、落ちてきた涙が目に入り視界が霞んだ。

「ありがとうM。俺もまだ生きられそうだ」
官能に左右されぬ、生の喜びだけが響く声がMの頭上に落ちてきた。
「あたりまえよ」
ペニスをしゃぶりながら、Mは声にならぬ答えを胸の中で言った。家族はいいものだと心の底から思う。耳の底で、幼いころの修太、光男、祐子の笑い声が響き渡った。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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