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8.終焉(8)

「さあ、進太。仕事はまだ終わらないよ。死体を車に引き上げて砂防ダムに沈めるんだ」
冷たく言い残してチハルが車に向かった。見上げた進太の目に紫紺のスーツを着た後ろ姿が見えた。勝者を愛でるように、クロマルが尻尾を振り立てて後に続いている。進太の目から改めて涙がこぼれた。殺された清美ではなく、殺したチハルがたまらないほど悲しく見えた。


Mは松の木の下に素っ裸で直立している。後ろ手に縛った縄尻が頭上の松の枝に結びつけられていた。つま先立ちで吊り下げられた苦しい姿勢を、もう三十分近く強いられている。地に足を着けることもできなくはないが、後ろ手をねじ上げられる苦痛に耐えなければならなかった。そんなMの姿を名淵はライカで二十ショットも狙った。今はMGFの運転席に座って、ファインダーからのぞき込んでいる。立ったまま失禁する決定的瞬間を狙っているのだ。Mには愚かしい行為としか思えない。遠く響いた銃声に負けて、裸になった自負心が惨めだった。だが、求められた官能には応えねばならない。それがこの屋敷で二十六年前に学んだことのすべてだった。

「もう、耐えられそうにないわ」
悩ましそうに尻を振って訴えてみた。カメラを構えた名淵が身を乗り出す。うつむいたまま顔を左右に振った。長い髪が乳首を撫でる。股間を小さく開き、心持ち腰を前に出した。ウッと声に出して息むと、陰毛の間から一筋の水脈が飛んで地上に落ちた。放尿を続けながらうなじを上げ、名淵の構えるレンズを見つめた。見られることで、確かに黒い快感が下腹の底で燃えている。だが、新鮮味はない。使い古しのぼろ雑巾のような感じだ。このまま脱糞したい衝動を必死に耐える。変態女が何を我慢しているのかという、チハルの嘲笑が聞こえてくるようだ。もう、何を耐えているのかも、正確には分からない。ひたすら老いが怖いのかも知れなかった。
「凄い、Mさん、凄く美しい。最高のショットを納めさせてもらいました。ありがとう」
名淵の興奮したバリトンが響いた。何を見ても凄いとしか形容できない、いつか聞いた声と同じ調子だった。人はこうして狂気に染まっていくのかも知れない。悲しさが募る。

「さあ、一緒に裏の方を探検してみましょうよ」
ライカを胸に下げて近寄ってきた名淵が、松の枝に吊った縄尻を解きながら提案した。Mは黙ってうなだれている。濡れた股間が不快だった。
「返事をしなくても、縄を使えばついてくるしかないですよ」
答える様子のないMに名淵が妙な宣告をした。縛られた後ろ手から垂れた縄がいきなり股間を潜った。おどけた調子で名淵が前に回り、跨がせた縄の端を持って力いっぱい上に引いた。Mの口から悲鳴が漏れる。ざらつく縄が強烈に股間に食い込んだのだ。名淵が縄を曳いて歩き始める。縄の痛みをこらえ、Mも名淵についていかざるをえない。性を責めるアイデアは無限にあると感嘆するしかなかった。麻縄に擦られた肛門が痛がゆさに泣く。縄を噛んだ陰門がじっとりと濡れてきたのが分かった。新たな官能を高めるために、尻を突き出し、腿を閉じて内股で歩いた。淫らな縄が性を責め続ける。豊かな尻が艶めかしく揺れた。白い双臀に残る無数の鞭痕が赤黒い痣になっている。名淵に責められた昨夜の証だ。

「あれっ、土蔵の扉が開けっ放しだ。廃墟とはいえ不用心が過ぎる」
いかにも検事らしい言葉を残して、名淵が土蔵の前にMを曳き立てていった。土蔵の中で挑みかかる魂胆が透けて見えておかしい。ズボンの股間の部分が膨らんでいる。官能の予感が急激に高まっていく。
「中はずいぶんきれいだよ。当然、がらくたもある」
声に促されてMも土蔵に入った。中央の太い柱がまず目に飛び込む。柱の前に散乱した衣類が異様な雰囲気を伝えた。しゃがみ込んで衣類を点検していた名淵の肩に緊張が走った。すぐに立ち上がって室の隅に置かれた自転車に近寄り、無惨に曲がったリアタイヤを調べる。Mも肩越しにのぞき込んだ。リアフレームに書かれた清美の名前が衝撃を与えた。即座に名淵に事情を告げた。ひとしきり土蔵の中を調べ回してから、名淵が口を開いた。険しい表情をしている。

「状況から見て、進太君の担任の先生が事件に巻き込まれた確率は非情に高い。恐らく、自転車に乗っているところを車に追突されたようだ。加害者は事故を隠蔽しようとして先生を拉致した。下着は見付からないが、この土蔵で裸にして監禁したことは間違いない。自転車の横にあったバケツに、排尿した痕跡がある。麻縄の束とランタンも残っている。僅かだが、床に血痕も見付かった。きっと怪我をした者がいるんだ。先生は犯人の隙を突いて逃亡したと思われる。尿はまだ新しかった。昨日・今日に起こった事件だ。先生の救出は時間との勝負になる」
発見した事実に基づいて名淵が推論を下した。論旨に間違いはないとMも思った。進太の顔が脳裏に浮かび、説教している清美の顔に変わった。路肩に駐車していた黒いゲレンデヴァーゲンと銃声が清美の顔に覆い被さる。死のイメージが目の前に広がる。有り得ないことだが、有り得るかも知れなかった。

8.終焉(7)

「ダメッ、クロマル、やめるんだ、ダメッ」
命じた進太の声が震えていた。小さな岩棚の上に上半身を預けて倒れている清美に、なおもクロマルが吼えかかった。きつく両目を閉じた清美のまぶたが痙攣している。裸身全体が激しく震えていた。

「トラバサミを踏んだ拍子に倒れたんだ。大腿骨も折れている」
チハルの冷たい声が落ちた。
「ねえ、キヨミ先生を助けてやってよ。痛そうで見てられない」
青ざめた頬を震わせて進太が叫んだ。チハルは黙ったまま首を横に振った。清美は沢水を飲みに来るイノシシを狙ったトラバサミの罠にかかった。重い金属の歯は、きっと足首を砕いてしまっただろう。突然襲い掛かったショックと激痛で仰向けに倒れた。だが、後ろ手に縛られた清美はバランスが取れない。トラバサミに繋いだ鎖も足首を放しはしない。全体重が右足にかかり、脚をねじ切るようにして大腿骨が折れたのだ。命を助けるには救急車を呼ぶしかなかった。トラバサミを外して運び上げ、再び土蔵に監禁したとしても、処置しようがない。

「進太ちゃん、お願い。救急車を呼んで。お願いだから、私を助けて」
思いがけない大きな声が響いた。チハルと進太が揃って清美を見下ろす。清美は蒼白になった唇を震わせながら進太を見つめている。無惨に開いた股間で陰毛が風に揺れていた。もはや寒さなど感じる余裕もなく、小刻みに裸身を震わせているだけだ。眉間に寄せた二本の筋と、素肌に浮き出た脂汗が痛みの激しさを訴えている。
「キヨミ先生が泣いて頼んでいるよ。ねえ、チハルの携帯電話で救急車を呼んでやろうよ。放っては置けないよ」
進太が哀願した。大きな目から涙が溢れている。もちろん放っては置けない。トラバサミの罠を確かめに、いつ猟師がやってくるか分からないのだ。チハルは射殺することを決意した。肩に吊ったレミントンを下ろし、頬付けにして構える。狙いを付けられた清美の顔が恐怖に歪んだ。

「殺さないで、お願い、殺さないでください。片足がなくなっても恨みません。命だけは助けてください。お願いです」
裸身を震わせて清美が命乞いをした。縄目から飛び出た乳房がわなないている。
「ダメッ、チハル。撃たないで。先生を殺さないで」
進太が絶叫した。チハルが進太の目を見つめた。冷たい声で問い掛ける。
「そんなに少年院に行きたいのか」
問い掛けられた進太が驚愕する。
「えっ、チハルはどうなるの」
答えを保留して問い返してきた。

「私は絞首刑だ」
素っ気なく答えた。進太の顔が泣き笑いのようになる。
「イヤダ、そんなのは嫌だ。先生を殺してください。先生、これは安楽死です」
進太の叫びが谷間にこだました。同時に清美の裸身がのたうち回る。
「ヤメテッ、タスケテッ、あんたたちは人殺しよ。イヤッ、殺さないで」
痛みを忘れて叫び、のたうち回る清美を見下ろして、チハルが銃口を下げた。スーツのポケットから青い実包を取り出し、改めて薬室に入れる。
「肉の砕け散る散弾は使わない。一発で殺してやるよ。美しい肉体への、私なりの情けだ。進太は人を殺す瞬間を目を開いてよく見なさい」
独り言のように呼び掛けてから、チハルが引き金を引いた。かん高い銃声が響き渡り、清美の胸に大きな穴が開いた。多量の血が流れ出し、白い裸身を真っ赤に染める。横にいる進太が口を押さえてしゃがみ込み、全身をひきつらせて嘔吐した。

8.終焉(6)

「昨夜、隣室から怒鳴りつけたチハルの車よ」
耐えきれずに名淵に告げた。名淵が振り返って黒い車体を見つめた。
「凄い車に乗ってるね。誰も乗っていないようだが、どうしたんだろう」
視線を戻した名淵が、素っ気ない声で言った。
「チハルはクレー射撃が趣味なの。猟期に入ったから、きっと生き物を撃ちに来ているのよ」
答えた声が冷たかった。別にチハルに敵愾心を持っているわけではないが、マニッシュな態度と行動には、つい眉をひそめたくなる。暴力志向が露骨に現れているようで不快だった。そんなチハルに進太を委ねている自分が歯がゆくてならない。たとえ、ショック療法だと割り切ってみても、リアクションを考えると心が痛んだ。Mには暴力が発散する匂いが耐えられないが、それに惹きつけられる人の気持ちも分からないではなかった。恐らくMが追い求めてやまない、闇に溶け込む漆黒の炎と同様、悲しさに打ち勝つ希望を夢見させるのだろうと思う。それを死の迷路と呼ぶなら、彷徨っている進太自身が出口を見付け出すしかなかった。誰だって、いつも別れ道に立っているのだ。

Mは暗い気持ちを抱えたまま、築三百年の屋敷に続く私道に向けてハンドルを切った。崩れかけた長屋門を潜り抜けた途端、目に映った光景は往時とは比べものにならなかった。二十六年間の歳月だけが、荒廃しきった屋敷を代表していた。何の感傷も浮かびはしない。枯れきった庭の中央にあるモクセイと、松の巨木が胸を張り、成長の歴史を主張しているようだ。モクセイの下にMGFを止めた。エンジンを切ると辺りを静寂が包み込んだ。

「凄い、とにかく凄いね。一言で言えば栄華の跡だ。築三百年の屋敷とはよく言ったもんだよ。重層した歴史が風化する直前のきらめきがある」
名淵が興奮した声で言ってドアを開けた。胸にぶら下げたライカM6のファインダーをのぞいて、何回となくシャッターを切る。穏やかに晴れ渡った日射しが、廃墟を情け容赦もなく照らし出していた。
「あれ、こんなものが落ちていたよ」
松の根元に屈み込んで、崩壊した母屋の茅葺き屋根を写していた名淵が立ち上がって声を掛けた。三重になった麻縄の輪を摘んだ左手を掲げる。口元に卑猥な笑いが浮かんでいた。縄は清美の足を縛っていたものだ。

「ねえ、Mさん。せっかくだからモデルになってくださいよ。廃墟に浮かび上がる美しいヌードが撮りたい。短い縄だけど十分縛れますよ」
甘えるようなバリトンで懇願した。運転席に座ったMの眉が曇る。突飛な申し出が、さんざん縛られ責め苛まれた二十六年前の記憶を呼び覚ます。頼みを拒絶しようと思った。車から降り、三メートル先の名淵を睨み付けた。頭上に松の枝が張りだしている。素っ裸で後ろ手に縛られて、吊り下げられたことのある枝だ。軽いめまいが襲い、微かに銃声が聞こえた。チハルが発砲したのだと思った。この瞬間に無抵抗な生き物が殺されたのだと確信した。悲しみが全身に満ちる。銃声に促されたように、マウンテンパーカーを脱いだ。セーターとジーンズを脱いで全裸になる。いつの間にか、名淵が背後に立った気配がした。うなだれて両手を背中に回すと縄の感触がした。暗い意識が後ろ手に縛られたことを告げた。熱く燃え上がってきた股間が、過去を現在に引きずり込む。


清美はしゃがみ込んで沢を見下ろした。シダとササに覆われた細い流れが五メートルほど下った谷間に見える。沢沿いに下っていけば、必ず街道に突き当たるはずだった。だが、沢に降りる斜面は意外に急峻だ。後ろ手に縛られていてはバランスも取れない。清美はしゃがんだまま蟹のように這い降りることに決めた。そっと右足を伸ばして足場を探り、膝を屈伸させて重心を移動する。大きく開いた剥き出しの股間をササの葉がなぶる。背筋がぞっとするが、歯を食いしばって這い進んだ。二メートルほど降りたところで、犬の吠え声を聞いた。反射的に全身が緊張する。その拍子に、大きく踏み出した右足が赤土で滑った。尻餅をついた途端にスニーカーが脱げ落ち、沢筋に転がっていった。仕方ないので左足で足場を確保する。犬の吠え声に追い立てられるようにして這い進み、最終の岩棚までいって立ち上がった。わずか五十センチメートル下に沢水が流れている。気温も低く裸身が寒い。転がっているスニーカーを拾おうとして、岩棚から山沿いの地面に降りた。素足が冷たい地面を踏んだ瞬間、足首が千切れるほどの激痛が襲った。電撃に打たれたように身体が後ろ向きに倒れる。縛られた手に岩が当たると同時に高い音が響き、右足に激痛が走った。全身に痛みが走り回り、意識が遠のく。遠のいていく意識を繋ぎ止めようとして、仰向けになった身体の向きを変えた。再び全身に激痛が襲う。涙が溢れ、鼻水がこぼれた。霞む目で右足を見ると、大きく開いた股間の先で、不気味にねじ曲がっている。足首から吹き出している真っ赤な血が見えた。また意識が遠のいていく。犬の吠え声がすぐ側で響いた。

8.終焉(5)

ゲレンデヴァーゲンの運転は進太に任せ、チハルは蔵屋敷の庭から連れてきたクロマルを膝に抱いた。クロマルはセッターとシェルテーの雑種で、体型はシェルテーに似ている。精悍な猟犬というより、白いたてがみを持った愛玩犬に見える。だが、犬の臭覚は決して軽んじられない。チハルは膝の上に載ったクロマルに最低限の仕付けを施そうとした。始めは運転席の進太に気を取られていたクロマルが、チハルの気迫に押されて従うような素振りを見せた。これまでも、何回かクロマルを猟の真似事に連れ出したことはある。いつも進太が一緒だったから、それほどの役には立たなかったが、確かに猟犬の素質は見せていた。今度の仕事は猟から見ればよっぽど楽だ。ひたすら清美の臭線を追い続けてくれればいい。それも、たかだか二時間前の人が通らない山の中の臭線だ。きっとうまくいくと信じて、クロマルの頭を撫でた。
「ワンッ」
うれしそうにクロマルが一鳴きして、チハルに答えた。チハルの口元に精悍な笑いが広がる。人を狩り立てるのは初めての経験だった。

清美が逃亡した後の土蔵には、クロマルに匂いを覚えさせる品が溢れていた。チハルは清美の着ていた衣服を床に広げ、クロマルを呼び寄せた。真剣な表情で衣服を指し示し、長い鼻先にあてがった。すぐクロマルが興味をあらわす。牡のクロマルは、たとえ人でも雌が好きなようだ。特に黒いレースのブラジャーが気に入ったようで、しきりに尻尾を振って匂いを嗅いだ。頃合いを見て、チハルがブラジャーをスーツのポケットに隠した。クロマルは服地の上から匂いを嗅ぐ。ポケットからブラジャーを出すとうれしそうに吼えた。一緒に転がり出た散弾の青いシェルには見向きもしない。ブラジャーを床に引きずって素早く外に飛び出す。布切れを胸ポケットにしまって素知らぬ顔をしていると、クロマルはあっけに取られたように首を傾げた。続いてしきりに地面を嗅いで歩く。すぐに臭線を探り当て高々と尾を上げた。空を仰いで高鼻を掲げる。

「ヨシッ、イケッ」
すかさず進太が命令を下した。逃亡した清美の臭線を追ってクロマルが進む。進太が小走りに後を追った。クロマルの足が速くなったところで、チハルはゲレンデヴァーゲンを発進させた。二十メートルほどの間合いを置いて、ゆっくりクロマルと進太を追尾した。街道に向けてしばらく下ったところでクロマルと進太が立ち止まった。クロマルの吼え声が連続して響いた。チハルも車を降りて近付いていく。
「ほら、大手柄だよ。この犬を見直してしまった」
進太が感動の声で叫んで、黒い布切れを両手で広げた。
「キヨミ先生のショーツだよ。色っぽいだろう」
呼び掛ける進太の声が弾んでいる。心持ち頬が赤く染まっていた。確かに大胆な下着だったが、それを穿く清美は油断できないとチハルは思った。だが、清美の運も尽きたと改めて確信する。山へ逃げ込んで、犬に追われたらひとたまりもない。それも、逃げ込んで一時間も経っていないのだ。せいぜい五百メートルも追えばエンドマークだった。
「ここから山に入ったんだね。馬鹿なことをするもんだ。進太、クロマルに首輪を付けなさい。ゆっくり狩り立ててやる」
命じる声にも余裕が溢れていた。クロマルを先頭に、二人の猟師が山の中に分け入って行った。


ブリテッシュ・レーシンググリーンに塗られたMGFが、築三百年の屋敷に続く道をゆっくり走っていく。ハンドルはMが握っていた。荒れた路面を避けながら慎重に運転する。オープンにした車内に晩秋の風が巻き込んでくる。いくら日射しが強いからといって、午前十時を回ったばかりの風は冷たい。助手席に座る名淵が寒そうにスーツの襟を立てた。Mの口元に笑いが浮かぶ。サロン・ペインの駐車場でMGFのハンドルを握るように言われた時に、Mは迷わず車体をオープンにした。オープンにして走ったことのない名淵は、目を丸くして幌を巻き上げる動作を見つめていた。そのときの間抜けた顔が目に浮かんだ。

「そんなに楽しいのかい」
笑いを見咎めた名淵が憮然とした声を出した。
「いいえ、楽しくはないわ。この道に入るのを二十六年間避けていたのよ。楽しいはずがない。悪いことが待ち受けているような気がして、不安になってくるのが正直な心境よ」
笑いを納めて真剣な声で答えた。名淵が、はなじらんだ様子で肩をすくめた。白いマウンテンパーカーを着込んだMにも風の寒さが伝染する。大きくくしゃみをすると、今度は名淵が笑った。他愛ないやり取りが楽しかったが、不安は去らない。緩いカーブを曲がりきった先の直線道路に駐車してある黒塗りの車が見えた。巨大なカラスがうずくまっているような凶々しさを感じる。チハルが愛用するゲレンデヴァーゲンに間違いなかった。ベンツの四輪駆動車に乗る者は市にもいない。昨夜の叱責の声が甦った。あのときチハルは、進太が死の迷路を彷徨っていると言って責めたのだ。死を連想させる黒塗りの車体が見る間に大きくなる。擦れ違う時に車内を見上げたが、誰もいない。言い知れぬ不安だけが肥大する。

8.終焉(4)

インターホンから進太の切羽詰まった声が響き渡ったとき、チハルはまだ着替えもしていなかった。市からドーム館に帰ってきたのは二十分ほど前だったが、やり場のない鬱陶しさを持て余し、椅子に座ったまま目を閉じていた。時刻はもう、午前九時を回っている。
「チハル、助けて。僕はもう、どうしようもないよ」
スピーカーを通して聞こえてくる泣き声が、チハルを元気付かせる。Mが痴態を晒している部屋の壁に大声で毒突いた、昨夜の無様な記憶を振り払うのにちょうどいい来訪だった。すぐ上がってくるように受話器に答えてから、警報装置のスイッチを切った。程なくしてドアが叩かれると同時に、進太が部屋に飛び込んできた。

「キヨミ先生が逃げた。僕がミスったんだ。どうしよう、もう取り返しがつかないよ。ねえ、チハル、お願い、僕を助けて」
大声で頼む顔は泣きべそをかいていた。緊張して怒らせた肩は細かく震えている。だが、進太の言っている意味が分からない。ただ、真剣すぎる声の調子に不吉な匂いを嗅いだ。話は聞きたくなかったが、危機の予感が胸の底の琴線に触れた。清美を殺したくなると言っていた声が記憶に甦った。思わず椅子から身を乗り出す。

「先生を殺し損なったと言いたいの」
静かに尋ねた問いに、進太が大きく首を横に振って答える。
「違うよ。殺しはしない。車をぶつけて気を失わせてから土蔵に拉致したんだ。素っ裸で縛り上げて監禁していたのに、ゲレンデヴァーゲンを返しにいった隙に逃亡したんだ。チハルに言われたように、厳重に拘束しなかった僕が悪いんだ。ずいぶん捜したけど見付からない。ねえ、もう破滅だよ。どうすればいいか分からないよ」
一息に言った進太がまた泣き出してしまった。肩を震わせて豪快に泣く。見ているチハルが笑い出してしまいそうになるほど、手放しな泣きっぷりだ。だが、進太が昨夜実行した仕事の内容はよく分かった。チハルは進太の目を見つめて、また静かに口を開いた。

「それで、私に何をしてもらいたいの。警察に捕まらないように逃がして欲しいのか、逃亡したキヨミを捕らえて欲しいのか、はっきり言わないと分からない」
泣きながら聞いていた進太の顔が急に輝きだす。うれしそうに口元が歪んだ。
「キヨミ先生を捕まえてください。お願いします」
喜びの声で言って、進太はまぶしそうにチハルを見た。
「キヨミはどんな格好で、どのくらい前に逃亡したんだい」
「素っ裸で後ろ手に緊縛してある。猿轡を噛ませ、膝の上で足も縛ってあるよ。でも、股間を縛り忘れたから自由に歩ける。逃げた時刻は分からないけど、一人で放置した時からなら、もう二時間になる」
問いに答えた進太の様子は、もうすべてをチハルに任せきった風情だった。
「二時間は長いね。手遅れかも知れない。どちらにせよ時間との勝負だ。すぐ出掛けるよ。それから、犬、犬が必要だ。クロマルを連れていこう」
目をつむって考えていたチハルが、立ち上がって決断を下した。壁に備え付けたクロゼットを開けて黒革のガンケースを取り出す。その場でレミントンM1100に五発の実包を装填し、別の実包を二発、紫紺のスーツのポケットに入れた。横で見ていた進太の目が輝き出す。

「ねえ、チハル。クロマルはだめだよ。バカ犬だから役に立たない。それより、チハルは着替えた方がいい。戦闘服の方が追跡に似合う」
甘えた声を出して進太が擦り寄ってきた。
「進太、私が銃を用意したんだ。これからすることは遊びじゃない。時間もないし犬も要る。さあ、つべこべ言っている暇があったら車のエンジンをかけてきなさい」
一喝すると、すくみ上がった進太が真っ青になって飛び出していった。確かに戦闘服の方が活動的だ。だが、今は時間との勝負だった。チハルはスーツの足元をジャングルブーツで固めただけで、銃を手にして階下に下りた。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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