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7.結婚(2)

Mの足は行きつけになったトラッドショップに向かった。まばゆい店内に入ると顔なじみになった店員が愛想笑いで迎えた。
「いらっしゃいませ。今日は何をお探しですか」
来る度にまとまった買い物をするMは、店員には上得意に見えるらしかった。
「先日見せてもらった指輪を見せてください」
「ええ、プラチナのペアリングですね。やはり大きなサイズの品をお取り寄せしましょうか」
ショーケースの鍵を取りにレジに向かう店員が勝手に気を回して振り向く。Mは答えずにショーケースから出された赤い宝石箱を手に取った。大きな方の指輪を摘んで左手の薬指にはめた。じーんと結婚の感触が指から全身に伝わってきた。結婚の記念が指に重い。喉から手が出るほど指輪が欲しかった。ぶら下がった小さな値札をまた読む。十万円を示す小さな洋数字が六桁になって並んでいる。だが、Mは一万円しか持っていない。どうしても指輪が欲しいと、また思った。これほど物に執着したのは初めてのことだ。大屋に貸した十万円が目の前をよぎる。すぐ返してもらおうと思い定めて指輪を抜いた。

「またどうぞ」
店員の明るい声が背中に響いた。十万円の指輪が売れそうな予感に、うれしさが溢れた声だった。Mは大屋の店に急いだ。二時間前に別れたばかりの暗い顔が脳裏を掠める。金のことしか考えていない血走った目をしていた。この一週間、大屋は昼食を食べない。節約が食費にまで及んでいるのだ。でも、金が必要なのはMも同じだった。息子の学費の捻出に苦しむ大屋と結婚記念の指輪の費用がいるMと、金の悩みに差別はない。何よりも大屋に貸した金はMが労働した金なのだ。しかし、店のシャッターは下りたままだった。潜り戸に小さな書き置きが貼ってある。

「都会に出張します。三十日の朝、お出でください」

書き置きの文字は無惨なほど力がなかった。大屋の描くスケッチに笑われそうな文字だ。弱々しく夜風に揺れている。Mは仕方なく富士見荘に戻った。大屋の戻る三十日が待ち遠しかった。
指輪のことが頭から離れず、Mは二十九日の祝日の午前と午後の二回、トラッドショップに指輪を見に出掛けた。二回目に行ったときは店主が奥から出てきて応対した。店主は現品で構わないなら二割引きで八万円でよいと申し出た。Mにとっては渡りに船の話だったが、手元には一万円しかない。もう一度よく考えて来ると答えて帰ってきた。指輪どころではなく刑務所までの旅費にも事欠きそうだった。どうしても五月の連休中に一回は妻としてピアニストに面会したかった。いらだちが募る。婚姻の証となる新戸籍が手元にないことがもどかしくてならない。戸籍ができなければ面会が許される道理がなかった。とりあえず新しい戸籍だけは、受け取りしだい速達で郵送することに決めた。だが、いくら筆無精のMでも、夫になったピアニストに戸籍謄本だけを送るわけにはいかない。散々思案したあげくに短い手紙を書いた。


前略
私の夫になったピアニストに、正直言って、何を書いていいか迷っています。書きたいことが多すぎて、何を書いたらよいか思い悩む気持ちのすべてを、とりあえずお送りします。
四月二十八日に届け出た、二人の婚姻届は、同じ日付で受理されます。明日の三十日には、新しい戸籍を速達で同封します。でも、今は、私自身も戸籍を見ていません。特に結婚の実感はないのですが、これであなたに、いつでも面会に行けると思うと、いらだつ心が安らぎます。
すぐにでも飛んでいきたい。新しい戸籍も会って手渡したい。でも、私も意外に不自由な暮らしをしています。以前のMでいられないことが、きっと妻の証だろうと思って、高ぶる気持ちを慰めて仕事に励んでいます。
五月の連休中には、一度はお訪ねしたいと思っています。
ご自愛ください。M

7.結婚(1)

工事現場で誘導灯を振り続ける日が三日続いた。この間Mは、ピアニストから返送されてくるはずの婚姻届をひたすら待ち続けた。言い古されたことだが待つ身はつらい。日毎に焦燥が募っていった。今日の昼休みには書留の控えを何度となく見てしまった。心身ともに疲れ切って富士見荘に帰った。汗みずくになった身体を風呂の湯で揉みほぐしたが疲労は消えない。浮かぬ顔で部屋に上がっていくと、茶色の封筒を手にしたお菊さんが待っていた。

「ほら、待ちに待っていた便りが来たぞ。素っ裸になってとくと見ろ」
お菊さんの声を聞いた瞬間、火照った顔が真っ赤に染まった。慌てて封筒に手を伸ばすと裸身に巻いたバスタオルが意地悪くむしり取られた。お菊さんの視線が無毛の股間に吸い寄せられる。電気虫に刺された性器が無惨に赤剥けになっていた。慌てて背中を向けた。今度は無数の鞭痕が赤黒い痣になって残る尻が露になってしまった。

「ほう、折檻されたのか。苦労したな。これも美しく生まれた者の定めだ」
お菊さんがぽつりと言った。裸身に残る数々の傷跡を目にしても動じる気配はない。さり気なく手を伸ばして鞭痕の走る尻の割れ目をさすった。Mの裸身がビクッと震える。ざらついた手の感触が妙にうれしかった。今度は陽気な声が耳元で響いた。
「さあ、わしが証人になった婚姻届をゆっくり見るがいい」
促されて封筒を開けた。中には郵送した婚姻届が一枚入っているきりだ。急いで郵送したMも用紙以外は入れなかったが、返送してきたピアニストの手紙が同封されていないのは拍子抜けだった。足元から不安が込み上げてくる。紙片を開くのが怖い。おずおずした指先で、見つめるお菊さんの目を意識して婚姻届を開いた。真っ先にピアニストの署名と押印を確認して大きく息を吐いた。これで手続きができると、全身で安堵してから視線を進めた。空けたままにして郵送した「婚姻後の夫婦の氏・新しい本籍」には妻の氏が選ばれ、山地の住所が本籍地にしてあった。

「ややっ、婿殿になるな」
横に回って婚姻届をのぞき込んでいたお菊さんが感動の声を上げた。証人になった歯科医の署名を、ピアニストはどんな気持ちで見ただろうかとMは思いをはせる。父の氏を捨てMの氏を選んだ気持ちを考えると、うれしさと悲しさが目まぐるしく交錯していった。他はみなMが書いたとおりだった。ただ一個所「夫の職業」の医師が二本の赤線で消され、几帳面な文字で演奏者と訂正してあった。Mの目に始めて涙が溢れた。

「お菊さんありがとう。お陰で婚姻届ができたわ。これから市役所に行って届け出てきます」
大きな声で言って白いシルクシャツを素肌に着た。ピアニストと面会したときと同様、黒のロングスカートと煉瓦色のジャケットを選ぶ。
「まったくMははしこいの。思い定めたら一直線だ。そんなに急ぐとすぐ転ぶぞ。ところでM。おめでたついでに、わしに三万円貸さぬか」
顔一杯の笑顔を浮かべたお菊さんが堂々と言い切った。足元を見透かしたような借金の申し入れだ。給料日に奪われるようにして五万円を貸したMの手元に三万円が残ったことをちゃんと覚えているのだ。
「私だって、無一文になるわけにはいかないわ」
「それでは一万でいい。孫の留学が早まりそうなんだ。息子が百万円も無心してきた。よっぽどのことだぞ。何とかしなければ親子の縁も絶たれそうだ。M、恩に着るぞ」
ちゃっかり手を差し出しているお菊さんに、仕方なく一万円を渡した。もうMの手元には一万円札と数千円の小銭が残っているだけだった。
「車に気をつけて役所に行けよ」
機嫌よく、子供に言うような注意を口にするお菊さんと連れだって廊下に出た。一刻も早く届け出がしたかった。有り余る苦労が一枚の紙片に込められているのだ。Mにとっては初めての所帯苦労といえる経験だった。


人気のない市役所の宿直窓口に婚姻届を出した。ちょうどピアニストくらいの年齢の職員がファイルから出した例文と届けを慎重に照合する。
「おめでとうございます。今日の日付で婚姻届を受理します。明日は祝日なので明後日の三十日に市民課の職員が処理します。でも、婚姻の日付は変わりません」
Mとピアニストの結婚記念日は四月二十八日になった。ついでに婚姻の証となる新戸籍の謄本を二通予約した。三十日のこの時刻に宿直窓口に戸籍を取りに来ることを約して晴れがましい顔で市役所を後にした。挙式も披露宴も、祝福もない結婚でも気にならなかった。宿直職員のおめでとうの声だけが心に染みた。いつまで続くか知れないが新しい家族ができたのだ。Mはできるだけ長い家族の存続を瞑目して願った。

6.義父母(5)

Mは突き刺さる春の日射しを全身に浴びた。木々の緑と空の青が目にまぶしすぎるほどだ。股間を割った縄目の痛さに狭い歩幅で尻を振って歩く。裸身の至る所に浮き上がる赤黒い鞭の痕が痛々しい。うなだれて歩く目に剃り上げた股間が見える。二本の縄目に挟まれて突き出た性器の先が強い日射しに透けてしまいそうだ。目を上げると庭の真ん中に並んだ太い梅の木が見えた。
「この枝に逆さに吊すわ。縄を引くのはあなたしかいないから、片足吊りにしましょう」
Mの足元にうずくまった歯科医の妻が右足首を太い麻縄で縛り上げた。服と靴を地上に置いた歯科医が、妻に命じられるまま足首を縛った縄を頭上の太い枝に回した。
「さあ、力いっぱい縄を引くのよ」
苔むして湿った柔らかな地面に仰向けに寝かされたMの耳に合図の声が聞こえた。歯科医がゆっくり縄を引き始める。右足が徐々に上がり、斜めに腰が浮かび上がる。なおも引き上げられる足の痛みに悲鳴を上げ、後ろ手に縛られた裸身を震わせて悶えた。十五年前と同じ責めだったが左足を吊り上げる役目のピアニストはいない。右足を襲う痺れるような痛みがピアニストの不在を改めて肉体に教える。止めどなく涙がこぼれ落ちた。

突然、疎水の向こうの道路でクラクションが鳴った。初めは遠慮がちに鳴ったクラクションがやがて大きな音で鳴り響いた。誰かが折檻を見咎めたようだった。
「ドーム館の娘の車だわ。生意気に、いいところを邪魔する。あんなにクラクションを鳴らしたら近所の人が出て来るわ。私たちは家に入りましょう。息子を奪ったMをこれだけ懲らしめれば我慢もできる」
憎々しく言った歯科医の妻が、行き掛けの駄賃とばかりに逆立ちになった尻を力任せに蹴った。悲鳴が上がり、不安定に吊り下げられた裸身が大きく揺れた。たわわに茂った梅の枝葉も一斉に震える。葉陰からこぼれた小さな毛虫が白い裸身を掠めて落ちた。開ききった股間に三匹のイラガの幼虫が入り込んだ。三匹の幼虫は苦痛に悶える太股を毒針で刺した。瞬時に股間から脳に電撃が襲う。電気虫と呼ばれる毛虫の針から出た毒液は痛烈な痛みをMに見舞った。悲痛な叫びが春の山地に響き渡った。
歯科医の妻が笑い声を残して引き上げていく。歯科医がMの股間を婚姻届の用紙で被い、妻の後に続いて蔵屋敷に戻っていった。あまりの痛みに全身で悶える耳に駆け寄ってくる足音が聞こえた。祐子が来ると思った途端に緊張が解け失禁してしまった。

「やはりMだったのね。待ってね、すぐ縄を解くわ」
息を切らせて走り寄った祐子が梅の幹に縛り付けた縄を素早く解く。音を立てて裸身が地上に落ちた。
「M、ごめんなさい。私の力では支えきれないの」
横たわるMの前にうずくまった祐子がそっと裸身をなでる。剥き出しの股間をのぞき込んで眉をしかめた。
「股間を電気虫に刺されているわ。針を抜くから大きく足を広げていてね。かわいそうに、性器を刺されている。でも、股縄がガードしていたから他は内股だけよ。不幸中の幸いだわ。ピアニストの両親は最低。MもMよ。結婚なんてしてやらなければいいんだ。ピアニストの家の前を通る度にのぞき込んでいてよかったわ。M、もうちょっとで殺される所よ」
「祐子、もういいのよ。歯医者さんに結婚を承諾してもらったわ。お願い、すぐドーム館に戻って封筒と切手を持ってきて。婚姻届をピアニストに速達で出したいの」
素っ裸で後ろ手に緊縛されて横たわり、大きく股間を広げたMが祐子の話を無視して懇願した。泣き笑いになってしきりに頼む顔をのぞき込んで、祐子は絶句してしまった。土と涙で汚れた顔に確かな官能のきらめきが浮かんでいた。

6.義父母(4)

歯科医夫妻の前にMの裸身が直立した。雑然としたアトリエがまばゆいばかりに明るくなる。歯科医の口から思わず溜息が洩れた。
「まあ、首から上と手だけが真っ黒だわ。白と黒の不気味な身体ね」
歯科医の妻が目ざとくあらを探した。剃り上げた股間の上で両手を重ねたMが軽く唇を噛んでから応える。
「私は毎日、工事現場で交通整理をして働いている。お金は自分で十分に稼げるわ」
労働を軽んじることは誰にも許せなかった。鼻で笑った歯科医の妻が背後に回る。太い麻縄を手にして憎々しい声でMに命じた。
「さあ、黒い手を背中に回しなさい。厳しく縛り上げて打ち据えてやるわ。財産目当ての結婚を汚い口からきっと白状させてやる」
後ろに組んだMの両手に縄が巻かれる。手を縛った縄は首に引き上げられて胸元に回された。後ろ手に引き上げられた腕が痛い。乳房の上下を走る縄がうつむいた目に映った。塑像の骨組みに巻く、粘土のこびり付いた汚れて黒ずんだ麻縄だった。
「わざわざ子供のようにツルツルに剃り上げた股間なんて見たこともない。いやらしい。こんな変態女に大事な息子を取られてはたまらないわ。臭い股も厳しく縛り上げてやる」
歯科医の妻がさげすみの声で言って、ウエストを縛った縄を臍の下で固く結んだ。結び目から延ばした二本の縄尻を真っ直ぐ股間に下ろし、剥き出しの性器を縄の間に挟んでから背後に回した。尻の割れ目に食い込んだ縄を引き上げて後ろ手を縛った縄と結び合わせる。股間を縄で割られて一層悩ましさが増した尻に甲高い鞭音が響いた。

「ヒッー」
不意に鞭打たれたMの口から悲鳴があがった。長い竹べらを振りかざした歯科医の妻が続けて尻を打ち据える。たまらず逃げ出す白い尻を竹べらが追い回した。二本の縄で無惨に股間を割られてしまったMの逃げ足は鈍い。たちまち壁際に追い詰められ、したたかに鞭打たれた。豊かな尻に縦横に赤いミミズ腫れが走った。どれほど打たれただろうか。緊縛された素肌全体に赤黒い鞭痕が浮き出したころ鞭がやんだ。苦痛に呻きながら床にうずくまって鞭を避けていたMを、歯科医の妻が鋭く問い詰める。
「これしきの責めで音を上げられたら息子が浮かばれない。さあ、M。白状しなさい。息子の財産が欲しくて結婚するんだろう。さあ言え。言えば許す。まだ折檻されたいのか」
Mは歯を食いしばり、力を振り絞って尻を高く掲げた。ひときわ強く、二回、尻が打たれた。
「ヒッ、ヒヒッー。お義母さんのおっしゃるとおりです。許してください。財産目当ての結婚です」
Mの悲鳴がアトリエに響いた。歯科医の妻が竹べらの鞭を捨てる。怒らせた肩がやっと落ちた。上気した頬を二筋の涙が伝う。

「とうとう白状した。やはり財産目当てだったのね。ねえあなた、この女は変態どころか盗人よ。庭の梅の木に吊さなければ気が済まない。結婚をやめさせられないのなら、盗人のMを梅の木に吊して罪を償わせるのよ。そうでないと余りにも息子がかわいそう」
小さくうなずいた歯科医がMが脱ぎ捨てた服と太い麻縄を手にする。腰に打った縄尻を歯科医の妻に曳かれてMが立ち上がった。Mの頬も涙に濡れている。鞭の痛みと母から息子を奪う痛みが全身に広がっていった。うなだれて歩みだしたMを、急に歯科医が引き留める。壁の隅の一角を被っていた濡れた布を一気に引き剥がした。スツールほどの大きさの粘土がよく練られて滑らかな地肌を見せている。
「M、お願いだ。そのまま粘土の上に座ってくれ、Mの型が欲しい」
「あなたっ、たいがいにしなさい」
妻の叱声を尻目に、歯科医は真剣な眼差しで鞭打ちの跡が浮き上がった裸身を見つめる。Mは請われるまま粘土の上に腰を下ろした。尻全体が冷たい弾力のある粘土に沈み込む。歯科医の合図で尻を上げると、見下ろした粘土の上に股間を割った縄の跡も生々しい尻の雌型が出来上がっていた。
「M、ありがとう」
さり気なく礼を言う歯科医の口元が少年のように無邪気に笑っていた。思うがままに美を追求した芸術家の満足感がありありと表情に浮かんでいる。確かに息子のピアニストより父の歯科医の方が才能があると認めるしかない気分になった。歯科医の妻がのんきな歯科医を睨み付ける。荒々しく腰縄を引いてMを曳き立てていく。素っ裸のMを真ん中にした異様な一行はそのまま玄関から戸外に向かった。

6.義父母(3)

「ただいま」
聞き覚えのある声と共に歯科医の妻がアトリエに姿を現す。若やいだ姿態にパープルのシルクスーツを品よく着こなしている。歯科医と違って老いは感じさせない。
「やあ、お帰り。妻は生け花の集いで昨日から市に泊まりがけだったんだ」
椅子に座ったまま、歯科医が妻とMを交互に見て言った。
「奥様、お久しぶりです」
椅子から立ち上がったMが深く頭を下げて挨拶した。
「お前はM、まさかMがいるとは思わなかった。私の留守中に何の用事で来たの。年寄りの夫をたぶらかすつもりではないでしょうね」
居丈高に背筋を伸ばした歯科医の妻がMを見据え、挨拶も返さず言い放った。予期していた反応を全身で受け止め、Mは冷静な声で答える。
「私はあなたの息子にプロポーズされたから訪ねて来たのです。今、歯医者さんに結婚を認めていただき、婚姻届の証人になってもらいました。ふつつか者ですがどうかよろしくお願いします。お義母さん」
「何ですって、言うに事欠いて、お義母さんですって。あなた、どういうことなの」
怒りで顔を真っ赤に染めた歯科医の妻が、肩を震わせながら歯科医を睨み付けて叱責した。

「Mの言ったとおりだよ。立派な息子が立派な娘を選び、結婚するだけのことだ。私は祝福して、息子をよろしく頼むと言った。息子は私たちに会おうともしないのだからMにすべてを託すしかない」
「そんな、そんないい加減なことがありますか。しかも祝福だなんて。こんな女に息子は渡せない。死刑囚だと思って馬鹿にしているに違いない。そうだ、そうに決まっている」
両目を吊り上げて叫ぶ剣幕にMも歯科医も声がでない。黙って下を向いている二人に歯科医の妻が新たな怒りをぶつけてきた。

「M、遺産ほしさの結婚でしょう。息子には一億円の財産がある。あの子が稼いだお金と私たちが将来の開業資金に積み立ててやったお金よ。この蔵屋敷も土地も生前贈与してある。その財産をみすみす取られてはたまらないわ。この女は盗人に違いない。ねえあなた、目を覚ましなさいよ」
肩で息をつきながらまくし立てた言葉を歯科医は落ち着いた顔で聞いて、低い声で答えた。
「たとえ財産目当てだとしても、それが何だというのだ。死刑が執行されても相続権者は私たちしかいない。息子のために積んだ金がまた手元に戻ってくるなんて、こんな悲しいことはない。息子の選んだMが相続しても私は一向に構わないね」
「何てことを言うの。あなたはこの女にたぶらかされてしまったのよ。何と言っても一億円は大変な財産よ。目が回るほどの金額だわ。その大事な財産をどぶに捨てるだなんて、とても正気とは思えない」
またしても金を巡る話が延々と続きそうだった。Mはもううんざりだった。椅子を鳴らして立ち上がり、大きな声で二人の間に割って入った。

「私はお金なんかに関心はない。死刑囚のピアニストには親族でないと面会できないから、妻になるために婚姻届を出すだけよ。財産なんてこれっぽっちも欲しくない。相続拒否の書類を、今、この場で書いてもいいわ」
Mの言葉を聞いた歯科医の妻の顔が一層険悪になる。
「言わせておけば勝手なことばかり言う。何が相続拒否よ。金に関心がないですって。私たちを馬鹿にするにもほどがあるわ。道端で拾ったお金じゃないのよ。大切な息子のために苦労して貯めた金に関心がないと言われて、はいそうですかと引き下がる親はいないわ。いくら相続を拒否すると言っても妻の地位は法律で篤く守られている。やはり財産が欲しいに決まっている。お金目当てでなくて、どこの女が死刑になる息子と結婚するというのよ」
「私がいるわ。私はピアニストとの愛を確かめるために婚姻届を出します」
即座に答えた自信に満ちた態度が歯科医の妻を逆上させた。きつく唇を噛んでMを睨み付けた後、急に皮肉な口調に変わった。

「また聞いた風なことを言う。息子と結婚するなら、Mの言うように私は義母だわ。財産目当てかそうでないか、私がお前の身体に訊く。黙って息子を取られてたまるもんですか。息子に代わって私が試す。M、素っ裸になりなさい」
冷酷な言葉を聞いてMは一瞬目がくらんだ。十五年前の光景が鮮やかに甦った。あの時とまるで同じ情景が繰り返されようとしている。だが、苦悩に惑うピアニストの姿だけが無い。歳月の残酷な匂いが鼻先を掠めた。Mは大きくうなずいて椅子から立ち上がった。胸を張ってレモンイエローのスーツを脱ぎ去る。ピアニストの母に理解されることは永遠にないと思ったが、息子を奪われる母の憎しみを甘受することに露ほどの異論はなかった。天涯孤独のMが配偶者を得るための儀式とも思われた。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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