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8.試練(3)

「さあM、寝室においで。金庫もそっちにある」
Mの書いた領収書を大事そうに文箱にしまってから、先生が立ち上がって促した。隣の室に通じる両開きの引き戸が開けられると、暗い方形の室の中央に置かれたダブルのロー・ベッドが真っ先に目に映った。先生は壁のインバーター・スイッチを調整して、新聞の見出しが読めるほどの光量に間接照明を調整した。南側の腰高窓の上でエアコンの微かな音が響いている。窓は隣の事務室と同様、ステンドグラスがはめ込みになっていたが、図柄は豊満な西欧の裸婦だ。事務室の聖母マリアとは対照的だった。先生がベッドの上にビニールシートを拡げた。Mは命じられるままベッドに上がり、シートの上に正座した。マホガニーの頑丈な枠に載せられたマットレスは極めて固い弾力だった。高価なスプリングの動きが素肌に伝わってくる。

「高い買い物だったが、やっと使うことができる。楽しい夜になりそうだよ」
生き生きとした表情で剥げ頭を輝かせた先生が、部屋の隅の棚からSM用品の入った袋を取ってMの前に置いた。
「さあ、一晩お世話になる品を膝の前に並べるんだ」
命じられたMが袋から婆さんたちの自信作を取り出す。柔らかな黒革を縫製した乳房強調拘束具、口枷、手枷、足枷、膝枷。最後に肛門調教具とT字帯が膝の前に並んだ。婆さんたちの内職現場で見たときとは違い、いずれも凶々しい光を放っている。自分の身体を拘束する器具を並べる情けなさに、つい眉をひそめてしまった。目ざとく表情を読んだ先生が口元に笑みを浮かべた。

「おお、そうだ。領収書だけ書かせて金をやらぬのでは詐欺になるね。すぐ十万円を支払おう」
うれしそうな声で言って、先生は部屋の北隅に置いた金庫の前にしゃがみ込んだ。金庫は小さな冷蔵庫ほどの大きさがある。何回もダイヤルを回したあげく、小さな金属音と共に錠が外れた。金庫の中を見せ付けるように扉を大きく開けた。厚さ十センチメートルほどの札束が三つ並んでいる。先生は三千万円もの大金を部屋に置いているらしい。一つの札束の上から十枚の札を数え、そのまま手に持って戻って来た。金庫の扉は閉めようとしない。金の力をMに見せ付ける気のようだ。

「十万円だ。この札が身体を買うんだ。ちゃんと渡すぞ」
先生が厳しい声で言って十万円を手渡す。素っ裸のMにしまうところはない。身体を売った屈辱だけが札から伝わってきた。仕方なくベッドの横のテーブルの上に置いた。落ちて無くならないようにインターホンの受話器を札の上に乗せた仕草を、我ながら見苦しいと思ってしまった。
「さあ、M。これで身体は僕のものだ。早速、拘束具を身に着けてもらおう。手の届くところはすべて自分で装着するのだ。順序を間違って着けられない装具があれば、初めからやり直しをさせる。最初だけ指定するが、まず口枷にする。生意気なことを言えないように口を大きく開けているのだ。言葉が話せなくなる前に言いたいことを言ってから口枷を装着しなさい」
ベッドの正面に置いたスツールに座った先生が冷酷な口調で命じた。
「言いたいことなど何もないわ。どうせ一晩買われた身体よ。存分に辱めるがいい。私は心までは売らない」
「ハッハハハ、やはり生意気なことを言う。女郎に売られた娘がほざくのと同じ台詞だ。今も昔も女は変わりはしない。そんな娘もつらい折檻を味わった後は嘘のように転ぶ。ここは遊郭の跡だ。Mにも折檻に泣く女郎の気持ちを味あわせてやる。さあ、口枷をするんだ」

先生の言葉が待ち受けている現実をMに思い知らせた。屈辱と恐怖が身体の中で交錯する。固く唇を噛みしめてから膝の前の口枷を手に取った。大きく口を開けて金属の輪を口にはめ、両手を後頭部に回して黒革のベルトで止めた。もっと強く、もっときつくと先生の注文が飛ぶ。Mの顔は縦横に走る革ベルトで無惨に歪んでしまった。次から先生の指示はない。装着する拘束具を自分で選ばねばならなかった。いずれにせよ手枷が最後に残ることに間違いはない。できれば一番恥ずかしい肛門調教具は後回しにしたかった。しかし、身体と足を拘束した後で、器具をうまく肛門に挿入できなければ初めからやり直しだった。やはり肛門調教具を選ぶしかなかった。Mはヒョウタンのように二つの瘤がついたゴムの筒を手に取った。手に取った瞬間、尻の穴がキュッとすぼまる。婆さんたちに強引に挿入されたときの激痛が甦った。確か、婆さんたちはLサイズだと言っていた。それを今度は自分で挿入するのだ。大きく股を開いて片手を尻に回した。目をつむって指先で肛門をゆっくりもみ上げる。先生の目が股間に吸い寄せられているのが目をつむったままでも痛いほど分かる。恥辱を振り捨てて一心にピアニストのことを思った。小さな官能の炎が下腹部に灯る。肛門が快楽に咽び、陰門に愛液が溢れ始めた。愛液を指先ですくって肛門になすりつける。黒いゴムの筒先を肛門にあてがい、陶然とした気持ちでゆっくり挿入していった。ピアニストの逞しいペニスを初めて尻に迎えるのだと思い定めた。陰門が歓喜に震え、大きなゴムの瘤を肛門が一気に飲み込む。Mは大きく溜息を付いた。だが、休んではいられない。皮のT字帯でゴムの筒を厳重に股間で止めた。異物を体内に呑み込んだ尻が屈辱に震えた。次に乳房強調拘束具を取り上げ、複雑に交差する皮帯に苦労しながら全身を拘束した。惨めな自縛を続けるMを、尻に垂れ下がった二本のゴムパイプとゴム鞠が滑稽に揺れて嘲笑う。最後に膝枷と足枷を着けて立ち上がった。引き締まった肉体に柔らかな皮帯が食い込み、裸身を縦横に拘束している。

8.試練(2)

「誰だね」
小さなスピーカーから、かん高い声が返ってきた。
「Mです。お金を借りに来ました」
躊躇なく答えたが、頬が赤くなるのが分かった。
「Mさんに貸す金はないよ。身体だけが資本の者には金は貸せない。いつ壊れるかも知れないからね。金貸しの常識だよ」
にべもない答えが返ってきた。Mは愕然とし、絶句した。
「Mさん、金は貸せないが、身体は買うと言ってあったろう。金が必要なら僕に身体を売りなさい」
感情のこもらない機械的な声がスピーカーから流れた。Mの裸身が小刻みに震える。
「私に、春をひさげと言うのね」
「ハハハハ、やけに古い言葉を使うね。女を買うと言っても僕は九十歳だよ。前にも言ってあったと思うが、自由恋愛と言ってやに下がりたくないから買うと言うのだ。後は売る方の自由意志だよ」
先生が事務的な声で、借金の代わりに売春を迫った。声とは裏腹な楽しそうな表情が目に浮かぶ。金の欲しいMを翻弄して喜んでいるに違いなかった。唇を噛みしめたが、もう道は残されていない。

「お願いです。私の身体を買ってください」
震える声で答えると同時に、ドアの錠が外れる音が大きく響いた。Mは思わず辺りを見回してしまう。だが、暗がりに人の気配はない。老人福祉センターで遊びまくってきた婆さんたちは、とうに寝入ってしまったようだ。冷たくなった手でドアのノブを回し、そっと手元に引いた。開いたドアから室内の明かりが走り出る。裸身が白々と照らし出された。胸を張って前に進もうと決心したが、妙に背中が屈んでしまう。
「ほう、いい覚悟だ。初めから身体を売るつもりだったのかね」
Mを見た先生が感動の声で言った。急いで黒檀の机に広げた書類を引き出しにしまい、うなだれた裸身を鋭く見上げる。射るような視線が全身に突き刺さってきた。Mは後ろ手にドアを閉めながら慌てて言葉を捜した。
「いいえ、すぐにでもお金が貸してもらいたくなって、闇雲に飛んできてしまっただけです」
とんちんかんな答えを口にすると、妙な自信が湧いてきた。たかが電車賃を借りるのに、よそ行きは要らないと思った。すでに素っ裸でいるのだ。よく事情を話せば電車賃ぐらいは貸してもらえそうな気がしてきた。Mは背筋を正し、うなじを伸ばして先生の目を見つめた。一通りの事情を話し終えると文机の向こうで先生が大きくうなずいた。丁寧に着こなした桐生お召しの単衣が豪奢で鷹揚な雰囲気を伝える。Mの口元に思わず微笑みが浮かんだ。

「新妻になったばかりのMさんが金の要る事情はよく分かった。つまり、結婚指輪の八万円と刑務所までの旅費の二万円、締めて十万円が当座に必要な金だ。そしてMさん自身が、大屋に十万円、お菊婆さんに六万千円を貸しているというのだな。つまり債権がある」
債権という言葉を聞いてMの希望が大きく膨らむ。
「そうなんです。債権を抵当に取ってくれていいわ。私は身体だけが資本でなく、債権を持っている。今は電車賃だけでいいんです。十六万千円の債権を担保に二万円を貸してください。先生に損な話ではないわ」
「ハッハハハハ、話ではそうなるというだけだよ。債権は債権でも、超不良債権では紙代にもならない。金は人を見て貸さねばだめだ。現在のMさんに金を借りる資格はない。やはり身体を売るしかないね」
先生の言うとおりだった。Mの裸身がまた小さくなる。

「この前Mさんが訪ねてきたとき、僕の買ったSM用品を身に着けてくれればいつでも二万円出すと言ったはずだ。今回はそのほかに八万円支払う。SM用具を使って一晩身体を責めることが条件だ。悪い条件ではない。僕としては結婚のお祝いも入れてあるつもりだ。たったの一晩、老人の前で恥ずかしい姿に耐えるだけだ。何と言っても人妻の身体を買うほど楽しいことはない」
人妻の身体を買うと言った言葉が胸に突き刺さった。だが、ピアニストの告別の不安が大きくMにのし掛かる。是が非でも明日は面会に行きたかった。もう退くことはできない。
「お願いします」
小さな声で言って頭を下げ、きつく唇を噛んだ。
「よし決まった。異例だが先に十万円を渡そう。Mさんも領収書を書いてください。そうすれば間違いがない」

領収書
金壱拾万円也、五月四日に将に領収しました。
但し、拘束具等SM用品のモデル及びSM器具の使用モニターの役務料として。M

Mは言われるままに、一晩身体を買われる証文を書いて署名した。書き終わると同時に見えない縄で全身を拘束された感じがした。何のことはない、性の奴隷としての一夜が始まるのだった。

8.試練(1)

五月四日の休日をMは昼近くまで寝て過ごした。この一週間の疲れがピアニストからの手紙で吹き払われて、久しぶりに安らかな気持ちで眠れたのだ。頭は幾分重かったが身体は見違えるように軽い。次の日曜日までには金の工面も何とかなるような気がした。決められたスケジュールどおりに起きて、洗面し、朝食を取った。昨日までの焦燥に駆られた暮らしが嘘のように思えてしまう。連休中は婆さんたちは食事を作らない。年に三回、正月と五月の連休とお盆が婆さんたち休暇だった。もちろん内職も休みだ。金策に駆け回っているお菊さんを除いた三人は、連日市の老人福祉センターに出掛けている。大きな風呂に入り、カラオケを歌い、ダンスをし、それぞれが持ち寄った御馳走を分け合って食べるのだという。何も持っていかなくても、褒めてやりさえすれば食べきれないほど、ご相伴に預かれるのだそうだ。三人の婆さんは温泉旅行のようだと言って喜んでいるが、Mは老人福祉センターに行くわけにはいかない。三日間の食事を自分で賄わねばならなかった。嫌でも出費がかさんだ。

Mは腰高の窓を大きく開き、たまに高架を通り過ぎる電車を見て漠然と時間をつぶした。無為の時間のありがたさが素肌の上をゆっくり流れていく。五百円の予算でコンビニエンス・ストアで買ってきた幕の内弁当とウーロン茶で一日分の食事をとる。婆さんたちの作る質素で量の少ない食事に慣れたため、たとえ一食きりの幕の内弁当でもヴォリュームがあった。ことさらゆっくり食べ、唯一の情報機器の携帯ラジオのスイッチを入れた。Mのような屋外労働者にとって、ラジオは天気予報と時報を聞くための必需品だった。地元のFM局が流すピアノの音色がちっぽけなスピーカーから聞こえてきた。ドビュッシーの流麗な調べが部屋を満たす。ピアニストの才能を惜しんだ歯科医の言葉が耳に甦った。確かに今からでは遅すぎるのだ。何もかもが遅いと思った。Mの涙腺がまた緩み始める。たまらなくショパンが聞きたくなった。ハッとしてラジオを消した。ピアニストの弾くショパンが勝手に耳の底を駆け巡る。悲しいまでに透き通った音色だった。夕日の射し込む部屋で、身体の中で鳴り響くピアノは明確な声をMに伝えた。

静けさの戻った部屋で、Mは文箱を開けてピアニストの手紙を開いた。獄中で綴られた文字を急いで読み返す。だが、ぜひ読んで欲しいという詩は難解だった。何度読み直してもよく分からない。Mは繰り返し、繰り返し詩を読んだ。やがて声に出してつぶやく詩文の向こうから音楽が聞こえてきた。ピアノの音色だった。その清明なピアノの調べは、まがうことなくショパンの「別れの曲」だ。詩文の中の告別の文字だけが大きく目の前に拡がる。手から手紙が落ちた。耳の底で「別れの曲」がむせび泣いている。すっかり日の落ちた暗い部屋で、目に焼き付いた告別の文字と、耳に張り付いたピアノの音色が疾走する。全身が寒い。
開け放した窓から入る冷たい夜風を受けて、Mは敷きっぱなしの布団の上で正座している。不吉な予感が裸身を包み込んでいるが、金縛りにあったように身体が動かない。冷たくなった肌の感触が他人事のように寒さを訴えてくる。不思議だった。よろよろと立ち上がって窓を閉めようとした。目の前の高架を轟音を上げて電車が通り過ぎる。架線がスパークして、白い火花が黒い夜空に飛び散った。瞬く間に光の帯となった電車が目の前を走り抜けた。日本海沿いの刑務所のある駅まで鉄路は続いているのだ。行かなくては、とMはつぶやく。行かなくては、とMが叫ぶ。五月五日と日付の打たれた告別の言葉と「別れの曲」の調べに、Mはピアニストに会って応えなければならない。素肌に鳥肌が立って全神経が緊張した。たとえ不吉な予感が杞憂に過ぎなくても、連休中に行かなくてはならないと決心した。だが、金がなかった。今日までクリアできなかった問題がまた頭をもたげた。大屋もお菊さんも貸した金を返すはずがなかった。

「私も借りればいい」
大きな声で言って壁に掛けた鏡を見た。鏡に映った黒い顔はいつになく生気に溢れている。結果を考える功利を捨て去ったいつものMの顔だ。まなじりを決した目には涙の予兆もなかった。

「ようし」
もう一度大きな声を出してうなずいてから勢いよくドアを開けた。暗い廊下を素っ裸のまま大股で歩く。空き室を過ぎ、大階段の踊り場を過ぎて金貸しの先生のドアの前に立った。夜風に吹かれて冷たく冷え切った肌が、身体の芯から込み上げる熱で燃え上がってくる。もはや世界にはMとピアニストしかいなかった。厚い木のドアに備え付けられたインターホンのボタンを、Mは確かな指先で押した。

7.結婚(4)

暗い気持ちで迎えた連休初日の五月三日の午後、Mに宛てて速達が届いた。茶色の封筒の裏には氏の変わったピアニストの署名があった。Mの心が高ぶる。部屋の中央に座って封を開いた。


前略
M、手紙と新しい戸籍謄本を送ってくれて、ありがとう。
Mと僕の、二人だけの戸籍は新鮮な感動を与えてくれた。気持ちの高ぶりが今も消えない。やっと思いを遂げられたうれしさで全身が震えている。
今すぐにでもMに会いたい。連休中に僕を訪ねるという手紙の言葉に胸がときめく。だが、僕のために、連休中の面会は取りやめて欲しい。
恥ずかしい話だが、喜びのあまり、まだ冷静になれないでいるのだ。
またしても取り乱した姿を見せてしまいそうで怖い。連休明けの最初の日曜日に僕はMを待っている。ゆっくり仕事の疲れを癒して欲しい。
三日前、読書班の囚人が僕の独房にも本を届けてくれた。
荒川洋治詩集「水駅」に僕は感動した。僕がピアノで表現したかった音のすべてが彼の詩の中にあると思った。つい、慣れぬ手つきで、勝手に荒川洋治の詩を借りて、Mのために文字を綴った。ぜひ、読んで欲しい。

「音の駅」

Mはしきりに曲の名を訊いた。柔らかな肌を重ねて私たちは眠る。

音は流れる、静寂を敷き詰めた枯れ野をひとときの風となって。これっきりの耳の数で、風の調べを聞き分けるのはつらい。

ときにピアノの音色を追い、声楽の沈黙を撃つ、流れきたる音の彼方に。だが、調べに拒絶された音のかけらは、静けさの果てで飛び交うこともなく、聾者の耳に囁きかけることもないと。

Mには告げて。過誤の世界を、過ぎ去った夢を。無償の音色に揺れた山地はすでに無く、沈黙の素肌の下にあるのは白々とはぜる炎の音だと。

妄執、この激しい音に惹かれて、道はふたつに別れた。沈黙と喧噪、両極に引き裂かれた地平を吹き抜け、歌い続け、私たちはどこまでも進軍する。懐かしい陰部を求めて、十五年間の官能を貫く。

五月五日、私はこの静寂の地平を旅発つ。その朝も私は、きっと演奏者ではない。肉と肉を繋ぎ合わす魔法も知らず、沈黙したピアノの音色だけを求め続けたという。その音色は、死に絶えた者を悼む挽歌ではなく、生き延びる者がすべてと言って笑い、笑い疲れて眠る、幼子のための子守歌でもない。負け続けた静寂の果てに突き刺す、歓喜のシンフォニーでもなかった。永遠の極みで純質な骨となって鳴り響くという、ただひたすらに寄り添い、慕い合う者への、かなわぬまでの告別であったと。

官能の極みを求める、妻には告げて。



Mはピアニストからの手紙を何回も読み返した。短い手紙だったが難しい内容だった。最後の詩などはまったく理解できない。ただ、連休中は仕事で疲れた身体を休めるようにという優しい配慮だけは痛いほど心に染みた。無理をして電車賃を捻出しなくても済むこともうれしかった。たとえ離れていてもピアニストと気持ちが通いあったと独りで決めて、小さな声で啜り泣いた。
夜遅くなってから、Mは素っ裸のまま井戸端に下りていった。連休中は婆さんたちは風呂をたてない。火照った身体を冷水で拭ってからでないと眠れない気がした。春の夜風を受けて冷水に浸したタオルで裸身を拭った。気持ちがすっきりして爽快になる。人気のない夜とはいっても、人妻が素っ裸で外にいるのは結構スリリングで粋なもんだと勝手に思い、にんまりと笑ってしまった。いつになく浮き立った気分で、濡れ手拭いを肩に掛けて玄関に上がった。大階段に足をかけると凄い勢いで金貸しの先生の部屋のドアが開いた。

「しつこい、二人とも早く帰れ。何回来ようが大屋さんとお菊さんに貸す金はないよ」
先生の怒声が階段の下まで落ちてきた。
「そこを何とか頼みますよ。出世払いと言うじゃないですか」
大屋の縋り付く声が弱々しく響いた。
「だめだ、何と言ってもだめだ。返済できない金を貸す金貸しはいないよ。僕は社会事業をしてるんじゃないんだ。息子の学費や孫の留学に貸した金が返る道理がない。ねえ、大屋さんもお菊さんもよく聞きなさい。話は簡単だよ。金がないなら大学を辞めて働けばいいんだ。高校が気に入らないのなら丁稚奉公でもすればいい。大学も留学も金の余ったお人のいく所だ。分を知らない人に金は貸せない。出世払いとはよく言ってくれたものだ。出世払いは親の信用じゃないよ。子供の信用に貸すんだ。見ず知らずの子供に金は貸せない。さあ、さっさと帰っておくれ」
先生の説教が終わると、大きな音を立ててドアが閉められた。しばらくたたずんでいたらしい大屋さんとお菊さんが悄然として大階段を下りてきた。階段の下で、隅に寄って道を空けたMには気付かない様子だ。無言のまま下を向いて、二人並んで外に出ていく。お陰でMは素っ裸で挨拶を交わさずに済んだ。大屋さんとお菊さんの苦悩はまだまだ続くようだった。

7.結婚(3)

三十日の朝、朝食の席に下りていくと、お菊さんの姿がなかった。四人の婆さんがそろわないのは初めてのことだった。
「お菊さんは借金の申し込みに飛び回っているぞ。できの悪い息子と孫を持つと、あの歳になってまで所帯苦労だ。足手まといの係累ならいない方がいい。わしらはさばさばしたもんだよ」
Mが事情を尋ねる前に、お米さんがとくとくとして留守の理由を説明した。四人の婆さんの中で子供がいるのはお菊さんだけだ。言葉の端に羨ましさが含まれているようで聞くのがつらい。急いで朝食を食べて大屋の店に向かった。だが、シャッターは下りたままで、相変わらず貧相な張り紙が貼ってある。借金を返してもらうどころか、工事現場までの交通を心配しなければならない予感がした。今日の現場の近くには福祉バスの路線はない。イライラしながら古い家並みの立て込んだ市道の先に目を凝らした。高架のガードをくぐって現れた大屋の姿を見たときは、さすがにほっとした気持ちになった。ガードマンの制服のままいつものバイクに乗っている。疲れ切った様子でMのすぐ前に停車した。黒ずんだ顔を目深に被ったヘルメットで隠していたが、左の目の下に黒い痣が見えた。誰かに殴られたに違いなかった。

「大屋さん、その格好で都会に行ったの。まさかバイクで行ったんじゃないでしょうね」
Mの問いに答えるのもつらそうに、大屋はうんざりした素振りで両肩をすくめた。
「この格好で都会に行ったのさ。もう電車賃もない。息子の下宿で雑魚寝だよ。情けないったらありゃしない。M、後十万円貸してくれって言ったって無理だよね」
「当然でしょう。今朝だって十万円を返して欲しくて待っていたんだから」
大屋の図々しい申し出に腹を立て、Mの声が尖った。
「分かっているんだが散々だよ。もう親子で心中するしかない。連休明けまでに四十万つくらないと息子は退学になる」
「だって、その四十万のために私は十万円貸したのよ」
訳の分からない大屋の答えがMの怒りに油を注いだ。
「甘かったんだ」
大屋は嘆息してうなだれてしまう。
「都会で何があったの。何が甘かったのよ」
「学費を全額払いたくて、息子の学費を押さえた金融業者の所に行ったんだ。やっとつくった四十万円を見せ金にして、息子の学費を返してくれるように交渉したんだ。鬼のような奴らだった。利息が高くなってもいいという俺の申し出を鼻で笑い。今までの利息だと言って全部取り上げたんだ。見てくれ、暴力金融だよ」
目深に被っていたヘルメットを上げて、大屋は殴られた後の痣を見せた。黒く内出血した肌にうっすらと血が滲んでいる。Mは大きく溜息を付いた。大屋はなけなしの金を四十万円も捨ててきたのだ。最低の男だった。後は息子を中退させて稼がせるしかない。Mの十万円は今日返るどころか返済も怪しそうだ。このままでは指輪どころか刑務所までの電車賃も出ない。最悪の朝だった。

惨憺たる気持ちでMと大屋は一日の仕事を終えた。満足に食事をとらない大屋の身体は仕事中にも危なげに震えた。その分Mに負担がかかる。全身が疲労に浸かってしまったような気がした。お互いに無言のままバイクに乗って帰路に着いた。途中で市役所に寄ってくれるよう大声で頼む。大屋の返事はない。返事のない様子から交通費を請求される予感がした。考えてみれば、毎日バイクに乗せてもらっているのだ。だが、最後のプライドが大屋に交通費のことを言わせないようだった。Mとのコンビを解消されれば、今の大屋ではきっと会社をやめさせられるに違いなかった。バイクは市役所の構内に滑り込んだ。大屋を待たせて宿直窓口に向かった。用意してあった新しい戸籍謄本を二通、七百円と引き替えに受け取る。そのまま一通を準備した封筒に入れ、大屋に郵便局に向かってもらった。受付窓口で速達の手続きを終えると、やっと肩の荷が下りた気がした。借金に回るという大屋に礼を言って織姫通りでバイクを降りた。トラッドショップに寄ってみたい誘惑に駆られたが、まず電車賃の捻出が先だと思って真っ直ぐ帰る。あいにく富士見荘の玄関先でお菊さんと鉢合わせしてしまった。お菊さんの焦燥も思いの外深そうだ。

「M、千円貸してくれろ」
暗がりで目が合うなり、些細な借金を申し込まれた。
「千円でいいんだ。知人に借金を申し込むのに菓子折がいる。貸してくれろ」
財布からまた千円が消えた。お菊さんの方が数倍も上手だった。身体がぐったりして風呂に入る気力もなくして部屋に上がった。だが、親切な桜さんが風呂の時間を告げに部屋を訪ねてくれた。婆さんたちは一番風呂に入るのがどうしても嫌らしい。桜さんは風呂を勧めた後もおずおずと言葉を続ける。
「Mは現金で持っているからお菊さんに借りられるのよ。お金は全部郵便局に預けなさい。手元に現金がなければ、たやすく貸すこともできないでしょう。どうしても貸したいときは郵便局まで同行して貸すの。必ず局員の見ている前でね。そうすれば局員が証人になると借りた人も思う。貸したお金が帰ってくる確率も上がるわ」
Mに返す言葉はなかった。うなだれたまま何回も首を縦に振った。肉食獣の集まる草原に放り出された子ウサギのような惨めな気分になった。暮らしの奥は本当に深いと思って大きく溜息を付いた。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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