「不幸せな死者に会いたい」
息を切らせているMに、老人が掠れた低い声で訴えた。身長はMとほとんど変わらない。背筋をまっすぐ伸ばし、白くなった髪と髭に覆われた顔でMを見つめている。確かに老人には違いなかったが、黒いウール地の襟元からのぞく肌は青年のように張りがあって朝日に輝いている。
「Mさん、私を死者に会わせなさい」
白い髭に覆われた口が微かに動き、威厳のこもった声で命じた。見知らぬ老人に名を呼ばれたMが動揺する。仕事を思い起こし、かろうじて事務的な声を装って答える。
「見も知らぬ方にお会わせする事はできません」
老人の柔和な目に疑問が浮かび、大きく見開いた目でMを見つめ直す。拒否されたことが信じられないといった風情だ。
「私はかわいそうな死者に呼ばれたから来た。Mさんの許可をもらいに来たわけではない」
「なぜ不幸せで、かわいそうな死者というのですか。気安く私の名を呼ぶあなたは何者です」
まぶしすぎる朝日を浴びた山上で繰り広げられる対話は、現実離れのした感覚をMに与えた。一方的に知られ過ぎていることに違和感が募る。
「その死者は、本当に不幸せではないのかね」
「亡くなった方は皆不幸せです」
混乱した頭で、また事務的に答えた。
「私は一般論など言っていない。ここにいる死者の生涯が不幸せで、かわいそうだと言っているのだ。Mさん、私は皆に師匠と呼ばれている者だ。勝手に会わせていただく」
宣言するように言って、老人が素早く観音開きの扉に両手を当てた。そのまま閉じた両手をゆっくり広げると、錠が下りているはずの重い扉が大きく開いた。信じがたい光景を目の当たりにしたMが一瞬たじろぐ。その隙を突いて黒い柔道着を着て登山靴を履いた老人が、光男の遺体を乗せた担送車を無造作に後部ドアから引き出す。脚が開いて地上に降り立った担送車の上の遺体を、光り輝く朝日が残酷に照らしだした。
「何をするのですか」
大声で叫んだ抗議を無視して、老人は遺体を覆った白布のファスナーを足元まで引き下ろした。痩せこけた光男の屍があらわになる。強烈な光を浴びた蒼白な顔で、乗りの悪い化粧が醜いほど目立った。歪んだ唇に塗った赤黒いルージュが毒々しい。
「おお、かわいそうな少年は都会にまで追われ、業病にとりつかれて死んだのだ。哀れだ。怒り高ぶる魂が見える」
嘆きの言葉を口にした老人が腰を屈め、素早く光男の唇に顔を寄せた。髭もじゃの口を唇に合わせ、そっと舌を伸ばして毒々しいルージュを舐め取る。
「Mさんのルージュを貸しなさい」
老人の所行にあっけにとられたMは、命じられるままショルダーバッグからゲランを出して手渡す。真紅のゲランを右手の薬指に塗った老人が光男の唇に器用に指先を這わせた。貧相だった死に顔が生き生きと輝き出す。
「死化粧は大切だ。不幸せな死者は、決して神々に受け入れられることはない。自ら立つより他はないのだ」
独り言をいった老人は、胸の前で合わせられた光男の両手に手を伸ばした。
「死者を縛ってはいけない。死者は自由な者なのだ。そうは思わないかね、Mさん」
Mに語りかけながら、老人は光男の両手首を結わえた包帯を取り去る。光男の右手を握り、力を入れて手を下ろさせる。固く硬直した手が嫌な音を立てた。非常識な行為だったが、決して遺体を冒涜しているようには見えない。Mは新鮮な感動を抱いて老人を見つめた。Mの名を知り、光男の来歴を知り、錠の下りた扉を簡単に開いた老人。朝日に照らしだされて行われた出来事が、まるで奇跡に立ち会っていたような荘厳さで思い起こされた。これまでずっと求め続けたものに、ようやく会えたような気持ちさえした。
「光男は生まれ変わるのですか」
陳腐な言葉がごく普通に口からこぼれ落ちた。
「死者は生まれ変わりはしない。死者のままだ。生きている者は、いずれすべて滅びる。それまでの間、不幸せな死者たちはずっと待っているだけだ。この世の神々は決して死者を受け入れようとしない。神々も含め、いっさいが滅び去るまで待つしかない」
「あなたは神々に君臨する神なのですか」
喘ぐようなMの言葉が寒々とした裸木の間を流れていった。
「私は神ではない。インチキ宗教と一緒にしてもらっては困る。私は神ながらの道を教え諭す者だ。死者と今生の者に光明をもたらすことが使命だ。だが、私のような者はこの世に二人とはいないだろう」
「まるでイエスのように」
「その者を知っているのかね」
老人の問いが宙に舞った。Mは黙したまま光男と老人に見入っている。
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