「お待たせしました」と彼が言って、奥のドアを開けて銀のトレーに載った飲み物を運んで来た。広い部屋の中にコーヒーの香りが広がる。目の前の大きなガラスの卓に置かれたカップはロイヤルコペンハーゲンだ。そっと一口付けたコーヒーはなんと、インスタントだった。思わず私は、にっこり笑ってしまった。
「今日は、本当にご迷惑をお掛けしました。でも、ありがとう」
彼が、改まった口調のバリトンで言う。
「いいえ、私の好きにしたことですから。でも、興奮している声を聞いたときは、びっくりしてしまいましたわ」
「恥ずかしいところをお見せしてしまった。あんな事で腹を立てるなんて、まだまだ打ち込み方が足りないんでしょうね」
「どんな人たちだったんですか」
「精神障害者の支援団体に属する者だと言ってましたね。私が精神障害者のプライバシーを写真に撮って公表し、食い物にしているから抗議に来たと言っていました。あんな賞なんて辞退すればよかったんです。それを、少しでも多くの人に友人たちのすばらしい世界を見て貰いたいなんて思って。失敗でしたよ。甘いことを考えてしまったようです」
「いえ、すばらしい展示会だと私は思いました。ごく一部の、心ない人たちに理解されないといって、私たちにまで見る機会を与えないというのは、残念なことだと思います」
「もういいのですよ。済んだことですから。あなたに分かっていただきたいことは、あの写真に写っているのはみんな私の友人なんだということです。私は、友人たちの住む真摯な世界に憧れ、少しでも近付こうとしてシャッターを切るだけなんです。でも私自身にいつも裏切られ続けて来ました。彼らの世界へ近付くどころか、ますます遠ざかって行くのを感じますね。写真なんて虚しいもんですよ」
「難しく考えるのが、お好きなんですね」
不用意に私が言うと彼は、じっと私の目を見て片目をつむった。一瞬、頬が赤らむのを感じ、目を伏せてテーブルの上のコーヒーカップに、意味のない視線を落としてしまった。
しばらくの間、沈黙が流れた後、彼が立ち上がった。
「お願いがあるんですが。ぜひ、あなたの写真を撮らせてください」
突然かすれた声で言った彼は、返事も待たずに背を向け、部屋の隅のアルミの機材入れからライカM4を持って戻って来る。レンズはズミルックスの50ミリだ。
「時間は掛けませんから」と言って、アンブレラの付いた照明器を一灯運んで来てスイッチを入れた。
白く眩しい光線が私の目から視力を奪い、ライトの影から連続してシャッターの音が響いた。
ひとしきりシャッターの音を響かせてから彼が、ライトの影から出て来た。
「凄く良かったですよ。時間がないのが本当に残念だ。ねえ、明日は祝日ですよね。ぜひ明日も来てください。久しぶりに創作意欲がわいてきましたよ」
嘘のような賛辞に面食らいながらも私は、訴え掛ける情熱的なバリトンもいいものだと思い、何が良かったのかを尋ねるのも忘れ、月並みな質問をしてしまった。
「明日は、展示会の初日じゃあないんですか」
「あんなものはいいんです。絶対に来てくださいね」
彼の返事に絶句したまま、あたふたと家路についた私は、何か忘れ物をしたような心残りを、あの古い屋敷に置いてきたようだった。
それは、展示会で見た彼の被写体と比べ、似つかわしい物とてない私をモデルにしたいという、彼の下心であったかもしれない。
多分、彼のスタジオにいた間に、何かが音も立てずにはじけたのだ。何がはじけたのか記憶をさかのぼっても分からなかったが、確かに二人の間で、彼のバリトンを中心にして何かがはじけたのだ。それは予感ではなく、もう始まっていることなのだと私には理解できた。
渓谷沿いの道を流れるようにハンドルを切りながら私は、妙に浮き浮きしてくる気持ちと、明日の取材を断る口実探しの嫌悪感に分裂した感情を、十二分に楽しんでいた。
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