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9.巨樹は倒れるままに(5)

「さあ、光男。Mのお陰で自由になれたんだ。お礼にMを縛ってやれ。Mは拘束具に慣れているから、尻から先に縛るんだ。さあ、早く。時間がない」
拘束を解かれたままうずくまり、鼻を啜り上げている光男の尻を蹴って、ピアニストが冷酷に命じた。
「ピアニスト、あなたが縛りなさい。あなたが言い出したことよ」
裸身を震わせてMが大声で言った。
「僕が汚らわしい拘束具を装着すると思うか。Mの仲間はもう、光男だけだ。早く四つ足で這って尻を掲げてもらいたいな。時間がないんだ。それとも怖じ気づいたかな」
「何を言う」
大きく叫んだMは、歯を食いしばってコンクリートの床に両手を突いた。

両足を大きく左右に広げ、豊かな尻を高々と宙に掲げる。天窓から射し込む弱い光が剥き出しの尻の割れ目を容赦なく照らした。股間が寒い。
先ほどまで自分を拘束していた鎖を持って、光男がMの股間に屈み込んだ。目の前に広げられた尻におずおずと顔を寄せる。静かな呼吸に合わせて息づく赤い肛門に、そっと唇を付けた。初めて舐めるMの股間の感触が光男の下半身に染み通る。大きく勃起したペニスを振りながら、光男は舌で丹念に肛門を解きほぐした。丸めた舌先が、すんなりと肛門に入るようになってから、光男は股間から顔を離した。最前まで自分の尻の中に入っていた金属棒を右手に持ち、丁寧に舌で清めた。金属棒の先端を肛門に垂直に当て、そっと力を込めると、すっと根元まで中に呑み込まれていった。

金属棒の根元に挿し込んである鍵に指先を添えたまま、躊躇した光男がピアニストをうかがう。怖い目つきで睨み返され、そっと鍵を回した。Mの体内で、金属棒が傘のように開く感触が、光男の指先に伝わってくる。四つ足で立ったMの裸身が微かに震え、聞こえないほどの呻きが口から洩れた。

Mの両足首を足枷で拘束してから、光男は裸身に両手を添えて上体を立たせた。しゃがんだ姿勢で、Mは背中に両手を回す。手錠の冷たい感触が後ろ手に触れた。錠の鳴る音が二回、背で響いた。Mのうなじが微かに下がる。
ピアニストと修太の目の前に二つの裸身がうずくまっている。痩せた光男の裸身の横に、陰惨なMの裸身があった。後ろ手錠に戒められた両手の下に、しゃがみ込んだ豊かな尻が見える。尻の割れ目から延びた鎖が、両足首を縛った鎖の中央で連結され、コンクリートの床に垂れ下がっていた。全身に鳥肌の立った二つの裸身は、冷気の中で震え続けている。四人の吐く息が驚くほど白い。

「だいぶ時間を潰してしまった。さあ、行こう」
二人を見下ろしたまま、晴れやかな声でピアニストが言った。
「光男はどうする。ここで待っていてもいいが、Mと一緒に行くかい」
妙に優しい声でピアニストが光男に問い掛ける。
うずくまった光男が首を縦に大きく振った。
「ピアニスト、いい考えがある。光男にMを曳かせよう」
今まで黙っていた修太が楽しそうに言って屈み込み、ポケットから出した犬の首輪を素早くMの首に巻いた。首輪の鎖を強引に光男の手に握らせる。
「修太、いいアイデアだ。これで光男も自由意志で理事長に会うことになる。ねえ、M。立派な自由意志だよ。素っ裸の光男が素っ裸のMを曳き立てて行くんだ。最高だよ。さあ、光男。立つんだ」

ピアニストに命じられた光男が立ち上がる。抗うこともできない。薬漬けになった身体に情けなさを感じた。しかし、地獄のような憂鬱感よりはましだと思い、Mの首輪に繋いだ鎖を手元に引く。
「M、ごめんなさい」
頭上から力無い光男の声が落ち、首輪が急に引き上げられた。
喉を締め付ける痛みに喘ぎ、Mは両足に力を入れて立ち上がった。裸身を戒めた鎖が鳴り、静まり返った空間に金属音が反響した。左右に開いた両足を揃えてみたが、当然腰は伸ばせない。かろうじて腰を曲げ、尻が突き出た無様な姿勢がとれるだけだ。それでも尻から延びた鎖が一杯に張り切り、体内で傘のように開いた金属棒が尻を痛め付ける。とても歩ける姿勢ではない。

Mは仕方なく、思い切って尻を後ろに突き出し、膝を曲げて中腰になった。ユーモラスなほど無惨な姿が見えるようだ。全身を恥辱が襲う。
八年振りに裸身を責めた拘束具は、当時の屈辱感だけを現在のMに伝える。とても官能の高まりなど感じはしない。若々しさの失われた成熟しきった裸身を、醜いほどに拘束具が痛め付ける。

9.巨樹は倒れるままに(4)

十メートル程歩くと、柱の陰になっていた位置に、白いダウンジャケットを着た修太が見えた。右手に黒い革鞭を下げた修太の前に、痩せた裸身が石油ストーブの赤い火を浴びてうずくまっている。
光男の裸身を認め、Mが大きく目を見開く。
鞭音に怯えて身体を丸くしてうずくまる光男は、Mと同様素っ裸だった。細い腕を後ろ手にされ、手枷で縛られている。両足首を繋いだ足枷の鎖の中央からは、別の鎖が真っ直ぐ股間へ延びている。
遠い過去の記憶が甦り、思わずMは尻をすぼめてしまった。

「懐かしいかい。八年前に、毎日Mを責めていた拘束具だよ。辛さを思い出して尻の穴が震えるだろう。それとも、Mにとっては喜びかな」
横に立ったピアニストが冷たい声で言った。
「なぜ光男をこんな目に遭わすの。なぜ光男がここにいるの」
Mが震える声で叫んだ。凍り付いた鋸屋根の天井で、悲しい叫びが反響する。
「理事長がMを呼んだからさ。僕はこうなることを予想していた。理事長は迷っていたからね。決断を下すには、Mの強さが必要になったのさ。だから、Mと一緒に光男を理事長に会わせようと思う。Mのように破れかぶれなほど強い性ではなく、醜いほど弱い性があることを理事長に知って欲しいんだ。醜い現実を見せないと、理事長が判断を間違う恐れがある。光男ならちょうどいい。ペニスは大きいし、官能を求める姿勢はMと同じようだ。しかし、誰の目にも光男は醜く映るだろう。夕べ、山地まで行って連れて来ておいた甲斐があった。二人一緒に理事長と会ってもらう。いいね」

ピアニストのたくらみは最低だった。個人が個人として向かい合うときに高まる官能が、現実の一部に過ぎないことを理解できないのだ。自分で作った仕組みの中でないと、何も信用することができない、弱々しい姿が目に浮かぶ。だからピアニストは、現実を直視することなどできはしない。Mは個人としての官能の高まりから、夢とは違う現実を見てきた。どんな夢も、官能の極みからは色褪せて見える。すべての夢を取り去った場所で、ひたすら自分の人格と責任だけで対処することが現実に生きることだと思う。ピアニストは光男の裸身を過酷に拘束し、その醜さをMが追い求める官能と対比させようとしている。いっさいがピアニストの頭の中で組み立てられた仕組みに過ぎない。幼稚すぎて笑う気にもなれなかった。

宣言するように声を整え、Mはきっぱりと答える。
「光男の自由意志がどこにも反映されていないわ。私はすべてを自分の責任で選ぶ。暴力的に曳き出される光男とは違う。ピアニスト、恥を知りなさい」
冷気の中でピアニストの顔が赤く染まった。しかし、すんでの所で踏みとどまり、邪悪な言葉を紡ぎ出す。
「確かにMの言うとおりだ。光男を戒めている拘束具はMのものなのだからね。Mが身に着けて理事長に会うべきだ。そうだ、Mの真実の姿を理事長に見てもらおう」
Mの脳裏を、拘束具に戒められた悲惨な裸身がよぎる。八年前の若々しい身体だった。しかし、もう二十七歳の肉体ではない。あの時の官能の高まりが、現在も得られる保証はない。
ピアニストの意地悪い声が追い打ちを掛ける。

「責任と人格が決めるんだろう、M。そのMが、八年前に自分が演じたことを、今になって拒絶する道理がないよね」
甘えきったピアニストの論理がMの怒りに火を点ける。寒さに震える裸身が引き締まり、胸を張って直立した。
「いいわ、ピアニスト。私を縛りなさい」
はっきりとMが答えた。
「修太、光男の拘束具を外してくれ」
ピアニストが修太に命じ、銀色の小さな鍵を手渡す。修太は黙って鍵を受け取り、うずくまった光男の背後に回る。右手の手錠を外すと、大きく鎖を鳴らして光男が叫ぶ。
「ダメだよ、M。この責めは辛すぎる。Mが惨めになってしまう」
光男の叫びを無視して、修太が機械的に戒めを解く。啜り泣く光男の尻を高く掲げさせ、最後に肛門に残った装具に鍵を入れ、尻の穴の中で開いた傘を閉じる。無造作に金属棒を引き抜くと、棒の先からうっすらと白い湯気が立った。陰惨な光景だった。

9.巨樹は倒れるままに(3)

優美な裸身がピアニストの目の前で大きく伸びをする。奔放すぎるほどのMの魅力が鋸屋根の下に満ちた。
「これで身体を拭けよ。小さいけど、ないよりましだろう」
ピアニストがポケットから大判の白いハンカチを差し出す。
「相変わらず親切ね。でも、その白衣を着せ掛けてはくれないのね」
ねだるように甘い声で応えたMがハンカチを受け取り、素肌に浮いた水滴を丹念に拭う。
「そんなにゆっくりしている時間はないよ。M、理事長に会わせる前に話がある。別の部屋で僕と付き合って欲しい」
Mのペースから逃れようと、ピアニストが妙に押し殺した、権威付けるような声で言った。
Mの口元に微笑が浮かぶ。自分自身を簡単に信じてしまう者は、いつでも権威を作り出したくなるものなのだ。ピアニストも例外ではない。広々とした現実を見ようとしない狭すぎる心が、ただ悲しいと思った。しかし、きっとピアニストは忙しすぎるのだと思い直し、優しい声で答える。

「いいわ。私は急がない」
「ありがとう、すぐ済むよ。Mの気持ちを確認したいだけなんだ。少し寒い場所だが、工場の跡がそのままなので我慢して欲しい。でも、理事長の代謝機能を押さえるため、全館の暖房を最低にしているから、こことそれほど変わらないよ。さあ、どうぞ」
口ごもりながら言って、通路の一番手前にあるドアを開ける。
ピアニストの手元に開いた薄暗い空間の入り口から、凍り付く冷気がMの裸身を打った。邪悪なたくらみが待っている予感が全身に鳥肌を立たせる。
「さあ、どうぞ」
ドアの横に立ったピアニストがまた同じ言葉を口にした。
大きくうなずいたMの裸身がドアの中に消えた。歩みに連れて躍る、高く引き締まった尻がピアニストの目にまぶしい。


Mの目の前に殺伐とした空間があった。理事長が作戦本部に使っている部分の二倍もある広大な空間だった。
天井には、二棟の鋸屋根が高々とそびえている。北向きの長大な天窓から、みぞれが降りしきる陰鬱な空の光が冷え冷えと射し込んでいる。弱く澄明な光を浴びた巨大な石の壁面が重々しくMを威圧する。
コンクリートを打ちっぱなしにした床には、鋸屋根を支えている太い柱が四本、規則正しい間隔で広い空間を貫いて並んでいる。撤去されてしまった織機の土台がみすぼらしく並び、用途も、使う者もなくした机や、椅子、ロッカーなどの調度が雑然と置かれていた。頭上から落ちる寒い光に照らされ、影すら無くしたちっぽけな調度は、栄華の後の虚しさをMに訴えているようだ。
ドアを入った所で立ちつくし、寒々とした空間を見回すMの耳に、またも聞き覚えのある甘えた声が響く。

「寒いよ、背中が寒い。修太、何とかしてよ」
哀願する光男の声は、広い空間の奥から聞こえてきた。声の方を見つめると、二棟目の鋸屋根を支える太い柱の陰に赤い光が見える。
「うるさい」
短く叱責する声と同時に、鞭で床を打つ音がかん高く響いた。
後ろにいたピアニストが前に出て、黙って奥に向かう。後に従うMの素足を、コンクリートのざらついた感触と凍えるほどの冷たさが襲った。

9.巨樹は倒れるままに(2)

ピアニストは、決断を急ぐという理事長の言葉がMを奮い立たせたことを確信した。全力を挙げて、計画を阻止するに違いないと思う。三年前と同じだった。しかし今回は、社会改造によって新しい秩序を構築するという、壮大な夢の実現がかかっているのだ。Mの邪魔建ては、絶対に許さないと心に決めた。
珍しく微笑んで瞼を閉じた理事長に目をやってから、ピアニストは側に控える修太に小声で命じる。
「取り掛かってくれ」
うなずいた修太がさり気なくドアに進み、通路へ出て行った。

「ピアニスト、私は車椅子に移る。Mと会うんだ」
再び目を見開いた理事長が大声を出した。
ピアニストの口が小さく開き、声を発しないまま閉じた。もう、何を進言しても遅かった。行くところまで行かなければならない。
ピアニストは背筋を正し、小刻みに身体を震わせているチハルの肩を叩く。
「車椅子の用意をしてくれ。後十分でMが来る」
目的を与えられたチハルが、てきぱきと動き出す。
沈み込んでいた鋸屋根の下の空間に、ようやく活気が戻り始めた。


自動ドアのガラスの前に異様な風体で立ったMの姿を、広い通路の中央に立ったピアニストが、負けてなるかと一心に見つめる。背後の車寄せに、オープンにしたMG・Fが駐車してある。
Mの長い髪は洗いたてのように濡れて乱れている。身体にべっとりと張り付いたシルクニットのワンピースの肩先から白い湯気が上がり、裾からは水が滴っている。
雪の舞う山地から、みぞれの降る市街まで、Mはオープンのまま濡れながら運転してきたのだ。

自動ドアが大きく開き、玄関に通ったMの足元に水たまりが広がる。吐く息が白い。凍えて紫色になった唇から、満足そうな声が漏れる。
「中はずいぶん温かいのね。ホッとしたわ」
濡れネズミとなったMの前に立ちはだかったピアニストが、厳しい声で問い詰める。
「何て格好をしているんだ。車の幌が壊れたのか。そんなびしょ濡れの服では理事長に会わせられない」
ピアニストの言葉を聞いたMの口元に微笑が浮かんだ。凍えきった蒼白な顔の中で、大きく見開いた両目が妖艶に光る。
「もちろん、服を脱いで裸になります。それに車の幌も壊れていない。理事長の痛みの僅かでも、身を持って感じ取りたいと思っただけよ」
平然と言ってのけたMを改めて見たピアニストの口元に、やっと意地悪な笑いが浮かぶ。

「異常だとは思うが、Mらしいやり方だよ。通路を濡らしたくないから、ここで裸になってくれ」
「分かったわ」
大きくうなずいたMが、黒いワンピースのファスナーを下ろした。下には何も着けていない。短い裾を両手で握り、無造作に捲り上げる。
鳥肌が立って緊張した下半身がピアニストの前に現れた。びっしょり濡れた陰毛の先から白い湯気が立ち上った。しかし、濡れた服地がべっとりと素肌に張り付き、両袖が脱げない。胸から顔まで服地で隠し、剥き出しの股間を晒したユーモラスな格好のMが、頭に被ったワンピースの中からくぐもった声を上げる。

「ピアニスト、手伝ってよ」
前が見えずに、よろめきながら後ろを向いた。
ピアニストの目に前に、今度は豊かな尻が出現した。尻の割れ目を中心に、見事に張り切った肌の上で、無数の水滴が丸くなっている。
苦笑を浮かべたピアニストがMの両肩に手を伸ばし、ワンピースを強く引っ張る。面白いほど簡単に服が抜け落ち、ピアニストの手元に残った。

9.巨樹は倒れるままに(1)

十二月三十一日の朝が明けた。
鋸屋根工場の高い天窓から陰鬱なほど暗い空が見える。重く垂れ込めた雲が、今にも細長く切り取られた窓に触れてしまいそうだ。音もなく降るみぞれが冷たく天窓を伝い落ちた。

鋸屋根の下の広々とした空間に集った六人は、冷え冷えとしたベッドを囲んで椅子に座っている。
ベッドで半身を起こした理事長の荒い呼吸だけが室内に響く。落ち窪んだ眼窩の底で、相変わらず炯々と光る眼差しが、時折室内を撫で切って走る。
「理事長、もう少し薬を減らしましょう。そうすれば眠れる」
ピアニストが静かな声で訴えた。
「理事長、少し眠ってください。眠っている間に部屋を暖めます。きっと爽快な目覚めが待っています」
チハルが真剣な声で哀願した。
「ピアニストもチハルも、私の身体を心配してくれるのは本当にありがたい。しかし、もう時間は残されていない。早く決断を下さねばならないのだ。一週間以上を無駄にしてしまった。その間、マスコミはシルバーグループのみならず、我々の特別養護老人ホームまで、狂ったように攻撃してくれた。迷惑な話だ。しかし彼らに真実を話したとて、マスコミの下卑た精神では、特別養護老人ホームと新しい文化の創造との関係など理解できるはずがない。マスコミに操られた大衆もヒステリー患者のように、反対、反対と、馬鹿の一つ覚えの言葉をわめき散らしている。将来を危ぶむ者など一人としていない。足元しか見ようとはしないのだ。コスモスの内部にさえ、私の計画を疑っている者がいる」
理事長は頭を巡らし、デスクの前に座ってパソコンのデスプレーを見つめている飛鳥を憎々しい目で見た。

「本部秘書の飛鳥は計画を後退させ、しばらく様子を見た上での再起を提案している。それが本部のスペシャリストたちの考えなのだろう。時を待てばよいと言う。リーズナブルな考えだ。ここに集まった新しい人たちもまた、本部の意向に賛同しつつあることを私は知っている。しかし、夢とは、夢の実現を信じるとは、そんなあやふやなものではない。実が熟すのをじっと待つことなど、猿にだってできる。何故、人は青い実を貪ることをしないのだ。狂おしいまでに求め、行動し続けることが信じるということだ。あやふやな考えで修正されてしまう計画の行く末が恐ろしい。私は計画の実現を危ぶむ」
「理事長、しばらくお休みください。薬の量を減らします。とても体が持ちません」
疑いのこもった理事長の言葉を聞くに堪えなくなったピアニストが、居たたまれず大声を出した。

「いや、もっと薬を増やしたいくらいだ。何よりも今、私は明晰な頭脳を必要としている。限界まで薬を増やせ。室温を下げて私の代謝機能を、もっと低下させろ。手も足も冷たくさせ、脳にだけ十分な熱が回るようにするんだ。そして、Mに電話をしろ。私が直接話す」
理事長の語尾を激しい咳き込みが奪った。眉間に皺を寄せて全身で苦痛を耐える。ピアニストが冷静に点滴のバルブを調節し、仕方なく薬液の量を少し増やした。

「理事長、これが限界です。これ以上は心臓が持たない」
「その心臓を持たせるのが医師の仕事だ。チハル、早く電話をかけなさい」
大量の麻薬と興奮剤で激痛と思考力のバランスを取った理事長の意志が、声となってチハルを打つ。思わずチハルはピアニストと飛鳥を交互に見た。
ピアニストが小さく首を横に振った。飛鳥が大きくうなずく。チハルはコスモスの職員としてポケットから携帯電話を取り出した。

ドーム館の電話番号をプッシュすると、待ち構えていたようにMの声が聞こえてきた。チハルがベッドに屈み込み、理事長が通話ができるように携帯電話を顔の上にかざす。
「M、私だ。すぐ来て欲しい。もう時間がないんだ。決断を急がなければならない」
「理事長。新年の挨拶には、まだ一日早すぎるわ。でも、お望みとあれば十五分後にそちらに行きます」
Mの明るい声が受話器から響いた。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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