すぐ握り返された手に、車内の暑さを越えた懐かしいぬくもりを感じ、ふと「別れの曲を聴きましたか」と尋ねてしまった。
初めてベンツの中で発せられた自分の音声が、車内にこだまするエコーのように何回となく耳に響いた。
「悲しい調べね」
か細いアルトが、真っ直ぐ耳に突き刺さる。
悲しい調べと言ったMの言葉が、頭の中で駆け回り、身体を鞭打つ。突き立ったペニスを皮鞭で一閃されたような痛みと衝撃が全身を襲った。僕のピアノよりきっと、今聞いた声の方が数倍悲しいものに相違ないと僕は思った。そうでなければ今、僕はここにいる資格もない。ひたすら煩わしさを避け続け、情けない気持ちを抱いてマスターベーションに耽るしかないと思ったのだ。
たまらなく身近に感じたMが愛おしく。「好きです。愛しています」と、デルタに置いた右手を握りしめ、指の間に入った陰毛を引っ張りながら言ってみた。
もう、両親の思惑も気にならない。鎖に繋がれ、肛門から金属の棒を突き出している、彼女好みのファッションも気にならなかった。ただひたすら彼女が好きで、ペニスを突き入れたい気持ちだけが一心につのっていた。
「私もピアニストが好きよ」
期待した通りの答えに全身が震え、彼女を覆っているポンチョを引きむしり、輝く裸身に覆い被さっていった。
「お待ちなさい」
母の金切り声が響き渡る。
しかし、僕はシェパードのケンではない。待てと言われてそのままになったのでは、人間ではなくなると思った。少なくとも、一切を賭けて、ただ一人の女性と合体したいと決心した男のすることではない。
鎖に緊縛された身体に激しく挑んだが、狭苦しい車内で自由が利かず、肛門から続く鎖に、したたかペニスを打ち付け、射精してしまった。
「いつも元気なんだね」と言って頭を撫でるMの仕草に母を感じ、隔てて座る冷たい母を憎もうと思った瞬間、車が止まった。
顔を上げて前を向くと、フロントガラス一杯の海が広がっていた。深い緑色に染まる日本海が、上半分のコバルトの空の下で、朝日を浴びて輝いていた。崖っぷちで止まったベンツのエンジンが、鼓動のように振動を伝えるが、僕の目は真っ直ぐ、広がりきった海に注がれたままだ。
ドアが開き、父と母が外に出て行く気配がした。潮の香りが車内に満ちる。
「あの人たちはね、私を突き落とす断崖を下見に行ったのよ」
遠くMの声が聞こえた。
僕の目には、緑色に悶える海しか映っていない。
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