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2 カメラマン (2)

山地へ向かうのは久しぶりのことだった。山地はこの市自慢の地域で、市街地を抜けてしばらく北へ走れば、渓谷沿いに美しい風景が続くはずだった。古くから林業で栄えた地域だったが、今は市街に通う高級サラリーマンのための住宅地区に変わっていた。恐らく彼も、そんな階層に属する一人なのだろうと私は思った。

走り初めて二十分ほどで、車は渓谷沿いのよく整備された道路に出た。しばらく上って行くと切り立った山がとぎれ、ほっとため息を付きたくなるような小さな盆地に出る。道路沿いに瀟洒な住宅が続き、途切れたところで「曲がってください」と言う彼の声で左折した。

私道と思われる一車線の道が二百メートルほど続いた後、フロントガラスいっぱいになるほど大きな長屋門が私たちを迎えた。門をくぐり、テニスコートが三面は取れそうなほど広い庭の隅に、いじましくロードスターを止める。
「遠慮しなくていいのですよ。何しろ古いだけが取り柄の家なんですから。何でも二・三百年前に建てられたと言われています。古いものがお好きだったらよく見ていってください」
屋敷のたたずまいに気圧された私の気持ちを見透かすように彼が言った。いつも人を連れて来る度に、彼は同じことを言うのだろうか。私は少し不快な気持ちになり、黙ったままエンジンを切った。

「さあ、ちょっと寄ってお茶でも飲んでいってください。とんだご迷惑をお掛けしてしまって、本当にすいませんでしたね」
彼に不似合いと思われる下世話な口調で言って、気まずくなった場を取り持つように車から降りて私を待つ。何か一言、言ってやろうと思ったが、多分、ひとあし早くエンジンを切ってしまった私の負けだ。運転席の方に回り込んで来た彼に促されるように、私は車から降りた。
もうあたりは薄暗くなっていて、彼と並んで立った庭の正面に、茅葺き屋根の巨大な屋敷構えが、まだ明るい西の空をバックに黒々とした姿で私を脅迫していた。
「あれが母屋なんですが、今は私のスタジオになっています。少し離れたところに死んだ父が建てた文化住宅があって、家族はそこに住んでいるんです。まあ、私一人しか居ないところですが、心配しないで、ぜひ寄っていってください」

日が落ちて暗くなった庭を彼と二人、母屋へと向かって歩いて行く。少女漫画のようにロマンチックなシーンなのだが、三百年の伝統が私を重く包み込んでしまう。彼の一方的な話を聞きながら、私たちは母屋へと向かう長いアプローチを歩いた。

母屋へ三メートルほどの距離まで近付いたとき、突然、黒々とした屋敷のシルエットに明かりが射した。びっくりした私は、思わず彼の腕を握ってしまった。ちょうど玄関に当たると思われる部分で引き戸が開けられ、屋内の明かりがほのかに外を照らし出した。その明かりを背にして和服姿の女性が、何かを捧げ持つような格好で黒い影となって現れた。私たちに向かって来る女性が捧げるように持っているのは白磁の花器だった。鮮やかな深紅のバラが十数本、無造作に投げ込まれている。端然とした顔立ちの女性は、すれ違いざま「こんばんわ」と声を掛けた。
「こんばんわ」と、彼が挨拶を返す。隣近所の知人同士が交わす、ごくさりげない挨拶のようだったが、私は何となく違和感を感じ、すれ違った和服姿の女性を振り返った。瞬間、私の記憶に、静謐な空気に溶け込むようにして花を生けていた女性の姿が甦った。あれはつい数時間前のことだ。あのデパートの催事場のパネルの上に彼女はいた。楚々とした着物の袖から白い二の腕が覗き、指先でしっかりと支えた豪奢な牡丹に落とした視線はまるで、永遠を見つめているようだった。そのモノクロームの写真は大小五枚で組まれ、会場の一翼を飾っていたのだ。

隣にいる彼の横顔を、覗き込むようにして見上げた。
「気が付きましたか。私の妻なんですよ。可哀想な女です。花を活けているときだけ、情熱を燃やすことができるんです。それ以外の時はじっと、自分自身の世界に閉じこもったままで、私でさえ受け入れてくれません」
私は、何も言うことができなかった。ただ、彼の写真が、先ほど何者かに非難されたように、精神障害者を食い物にしているのではないことだけは、完璧に理解できた。

彼に促されて私は、母屋に足を踏み入れた。入ったところは広い土間で、思ったよりずいぶん明るい。堅く踏みならされた土の感触が靴底を通して感じられた。左手に座敷がある。座敷といっても檜材の寄せ木で組んだフローリングになっている。広さは、小学校の教室ほどもあるのではないかと思われた。この広間はかつて、襖で四つに仕切られていたのかもしれない。中央と土間側に二本、一抱えもありそうな柱が通っている。上を見回しても天井はない。暗がりの中に漆黒の梁が重々しく、複雑に横切っているだけだ。

「さあ、上がってください。今、お茶を持って来ますから」
彼の言葉で我に返り、私は巨大な石の靴脱ぎ台から広間へと上がった。
広間には、ほとんどなにも置いてなかった。ほぼ中央の衝立の影に、灰色をした革張りの応接セットがあるだけだ。勧められるままに私はソファーに腰を下ろした。

お茶を入れに行くと言って奥のドアに消えた彼を幸いに、周囲を好奇の目で見回す。しかしなにもない、カメラマンのスタジオから連想されるような機材もほとんどない。それらしく感じられるものと言ったら僅かに、私の座ったソファーの横に開いたジッツオの三脚、載せられたハッセルブラッドの六・六判カメラ、レンズはツァイス製のプラナー110ミリF2。それから、部屋の隅に大きなアンブレラを付けた照明機器が三基。これだけだった。まあ、照明機材の横に、よく使い込んで傷んだアルミ製の機材入れが三個転がっていたが、なんとも頼りないスタジオに見えた。もちろん、写真の質は機材の量で決まる訳じゃあないと、私は妙に感じ入って一人で納得した。
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Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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