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- 2010/08/09/Mon 15:39
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- 第1章 -M-
祝日の朝、午前九時に目覚めた私は、ベッドの中から会社へ電話を入れた。思っていたように、先に出社して待っていたらしい木村が電話口に出た。
「えっ病気、本当ですか。困ったなあ。俺一人で取材に行くんですか。困ったなあ」
困ったなあ、を連発する木村は、少しも困ってはいない声で「お大事に」と言って電話を切った。
何が本当ですかだ。動物園の猿山の取材なんて、木村が彼女でも連れて出掛けて行けばいいのだ。
すがすがしい朝を汚す木村に、たまらなく腹が立った。
なんと言ったって私は今日、プロのカメラマンのモデルになるんだ。木村ごときに構っている余裕はない。
取材を木村に任せきれて気が楽になり、いくらか誇らしい気分でそわそわと身繕いをしてから、オープンにしたロードスターに乗り込む。真っ青に澄んだ秋空が私の心を弾ませ、アクセルを踏む足に力がこもる。休日で道が空いていたせいか、思いの外早く彼の家に着いた。
今日は、庭の中央に聳える大きな木犀の下に車を止めた。朝の光の中で見る築三百年の屋敷は、さすがにくたびれて見えるが、威風堂々とした威圧感は、当時の分限者の権勢と矜持を十分に忍ばせてくれる。横手に連なる疎林越しに、彼が文化住宅と呼んでいた建物らしいものが見える。その住宅はなんと、コンクリート造りで、ちょっとした集会所ほどの大きさだった。資産家の考えることは庶民にはよく分からないな、と思いながら玄関先に立った。
「こんにちは」と、大きな声を掛けるがなんの反応もない。大きすぎる家も不便なものだと独り言を言って引き戸を開き、土間に入った。屋内はほどよく照明されていて、明るい戸外の光に慣れた私の目にも特に障害はなかった。
彼はソファーに掛けていたが、私の姿を認めるとバネ仕掛けの人形みたいに飛び出して来た。服装は、タンのチノパンツにグリーンのコットンシャツ、ベルトは茶でソックスは白だった。シャツを肘までまくった右手首の、IWCのリストウォッチが眩しい。
今日の私はシンプルに、アイボリーのシルクニットのワンピース姿だったが、昨日のパンツルックよりは、よほどシックに見えることを祈った。
「待っていましたよ、来てくれないかと心配していたんです。さあ、早く上がってください」と急き立てるように促す。
私は昨日と同じソファーに座り、さりげなく辺りを見回した。昨日と比べ特に変わったことはないが、よく晴れた朝なのに、どこからも外の光が入って来ない。恐らく周囲に巡らしてあるクリーム色のカーテンの外は、パネル材のようなもので固めてあるに違いなかった。
「すぐ始めましょうね」
彼はどこか落ち着かない様子でライカM4を取り上げた。今日は、コーヒーは出ないようだ。
ソファーの周りに二基の照明器が用意され、私の正面のほか斜め後方の高いところからも白い光線が浴びせられる。
「レンブラント光線で撮りますからね」
正面のライトの影から、彼の声とライカの静かなシャッター音が聞こえた。私はどんな格好をして、どんな表情をすればいいのか。彼からは、なんの指示もない。シャッターの音を聞きながら少し不安になる。だって今日、私はモデルなんだから。
私の顔に不安そうな影が射したのを見透かしたように、ライトの影から出て来た彼が、前の椅子にどっかりと座った。
彼は喘ぐように肩を上下させ、私を通り越した先を見るような目をしてしばらく、うーうーと声にならないうめき声を上げていた。私は心配になって顔を覗き込んだ。
「お願いだから、脱いでくれないか」
覗き込んだ私の目を、じっと見据えるようにして彼が言った。
「えっ」と言って絶句している私に、真剣な表情で畳み掛ける。
「脱いでください。あなたの美しい身体をレンズの中に入れてしまいたい、お願いです」
多分私は、こうなることを初めから予期していたのかもしれない。
私は、彼が被写体にして来た友人たちのような美しい世界を持っていないのだから、私自身の身体を彼に提供するしかないのかもしれなかった。不思議なことに私は、ほとんど驚かずに彼の言葉を聞き、そして頷いていた。