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10 断崖(2)

断崖の突端と思われるところで、しゃがみ込んだまま戻って来ない彼を訝り、車外に出て薄明の空と海に向かって歩いて行った私の眼前で急に彼は、この寒さの中で服を脱ぎだしたのだった。

吹き荒ぶ季節風を真っ向から浴びて、海に向かって素裸で立った彼は、いつのまに用意していたのか、愛用の黒い麻縄を取り出し、自分の裸身を縛り始めた。凄い早さで的確に縄を操り、菱縄縛りに自分を縛り上げた彼は、尻を突き出した格好で屈み込むと、あの黒革の鞭を右手で握り、左手の指で押し広げた肛門に、えいっ、とばかりに鞭の柄を突き刺していた。鋭い痛みが見ている私にまで伝わり、私は自分の肛門をきゅっと引き締めてしまった。

にっこりと妖艶な笑みを浮かべて私を見た彼は「後ろ手に縛ってください」と静かなバリトンで言ったのだ。
言われるままに私は、彼の両腕をきつく背中に回し、高手小手に縛り上げてやった。
後ろ手に緊縛されたまま海を見ていた彼は、首だけを私に振り向け、さも愉快そうな顔で私の目を見つめ、聖書の一節を暗唱するみたいに風に負けぬ豊かなバリトンを響かせた。


「夢のような話をしようか」


朗々とした声が風にかき消される前に、彼は踊るような足取りで断崖から海へ身を躍らしてしまった。

私の視界から彼が消え去り、しばらくの間「ユメノヨウナハナシヲシヨウカ」と、こだまのように後を引く声だけが聴覚の底で響いていたが、それも虚しく、鳴り響く風と海鳴りの音に紛れて行ってしまった。


彼のカシミヤのセーターに吹き込む風は寒く、肌を突き刺す冷気から逃げるように走って車内へと戻った私は、大きく深呼吸した。

ヒーターの暖かさでやっと人心地着いたが、車のトランクには死体が一つある。多分、見つかることのない死体がもう一つ、輝きを失った海にある。そして私は確実に、生き残ったものとして取り残されてしまったのだった。

がらにもなく私は、背筋の中まで凍り付くような孤独を全身に感じ、暖かな車の中で身震いした。透き間風に乗って、するはずもない腐臭までが後ろのトランクの方から漂い出し、私を脅迫する。

きっともう、私は帰らなければいけないのだ。つい二か月前まで、どっぷりと首まで浸かっていた喧噪と懐疑に支配された日常へと、私は召還されるときなのかもしれなかった。
何が「夢のような話をしようか」だ。そんなもの誰が聞きたいものか。夢のような狂おしい体験を、二か月の間味わって来たのはこの私だ。夢のような話ができるのは私しかいないのだ。
彼は、私への当て付けで海に身を投げたのか。それとも何処か、遠い世界と呼んでいた場所へと旅立ちを気取って見せたのか。別に、どうって事はないと私は思ったが、ぽっかりと空いた空間がどうしようもないほどの広さで身体の中に広がって行く。
その空間の中に今、幻のように薄く、車のトランクにいる少女の姿が小さく浮かび上がった。広漠とした空間に浮遊する埃のように、哀れな少女の幻影は、ゆらゆらとあてどなく彷徨っている。

しかし私は、無明の闇にさすらうわけにはいかない。用意されるはずの新しい舞台の上に、私は情熱のプリマとして中央に立たなければならないのだ。それが、この二か月の間、私の官能が彼の官能との間に結んだ黙契のはずだった。

私は「よしっ」と声を掛け、ロードスターのギアをバックに入れた。バックミラーに映る漆黒の海と空とに呪詛の呟きを浴びせながらアクセルを踏み込み、視界の効かぬ細道で強引にスピンターンする。車体の底に打ち当たる小石にも、ふらつくハンドルにも構わず、私は無我夢中でロードスターを操り、凶々しい断崖を後にした。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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