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- 2010/10/18/Mon 15:00
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- 第2章 -ピアノ-
今日のスタジオは暑い。きっとエアコンのスイッチを強にしたまま先生が出掛けてしまったに違いない。
ピアノの発表会を目前に控え、先生は慌ただしい。出張教授の回数が増えている。しかし僕にはおあつらえ向きだった。きっと最後の発表会のプログラムになるに違いない今回のショパンを、こころいくまでフルコンサートのグランドピアノで練習できるからだ。僕の部屋のピアノはヴェーゼンドルファーだが、アップライトではどうしても響きが不満だった。それに、スケルツォの二番は、何よりも音色を重視して弾きたかったのだ。
四月から、したくもない歯医者の勉強をすることになった僕は、ピアノを職業に選ぶことを断念していた。母に無様な裸を見られた僕に、歯大への推薦入学を断れるガッツはなかった。また、今の練習レベルでは、感性だけは誇れても、超絶技巧が求められる音大受験を乗り切ることは出来なかったのだ。
思うように行かないすべてのことを忘れたくて、思い切ってFの音を置こうとしたが、見事に外してしまった。部屋が暑いせいだと思い、立って行ってエアコンのスイッチを切る。
「ヴラヴィッシモ」と言う懐かしいアルトが、背中に聞こえた気がして振り返って見たが虚しく、いつか外した音にまつわる甘い記憶がペニスを勃起させるばかりだった。
今度は丁寧に、音を外さないようにテンポを下げてゆっくりと弾く。
弾いていてもつまらない、貧弱なショパンになってしまった。
「おくびょうなショパンなんて聞きたくない」
背後から本当に声が掛かった。
うれしさを隠し、幻聴ではないかと、何気なさを装うようにルーズに振り返ると、彼女がいた。
Mはこの前と同じように颯爽と立っていたが、魅力的な笑顔は見せていない。いくらか悲しそうな目をして僕の顔を見つめた。
「ピアニストは死んでしまったんだ。つまらないショパンは聞きたくないわね」僕はむかっとして「あなたに聞かせるためのショパンではありません」と強い口調で言った。
大きくうなずいた彼女は、微笑みながら「では、私に聞かせるショパンを弾いてくれる」と言ったのだ。
僕は天にも昇る気持ちで、彼女にまつらう恨み辛みや、淫らな感情までを込めて、もの凄い速度でスケルツォを弾ききってやった。しかし「ヴラヴィッシモ」の声はなく、振り返って見た彼女の顔には、頬に二筋の涙が流れていた。
「そんなに私が嫌い」
Mの言葉に激しく首を振って立ち上がった僕は、彼女に飛びつくやいなや、豊かな胸に顔を埋めて泣いた。