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- 2010/11/29/Mon 15:00
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- 第2章 -ピアノ-
「最近、蔵屋敷に顔を見せないね」
すっかり春めいてきた日差しを背に、白い歯を見せて笑うMの顔が窓枠の中に浮かんでいた。
窓ガラス越しにまた、伸びやかなアルトが聞こえる。
「歯医者さんがおもしろいものを作ったんだよ。私をずっと手放さないで置いておこうと考えたのよ。余りのひどさに笑いたくなるくらいおぞましい物よ。今夜ぜひ見に来てよ。たまにはいいでしょ。何てったって君の両親のすることなんだから、見る義務があるとおもうわ」
僕は机の前に座ったまま顔を横に向けて、ガラス越しに彼女を見ている。立って行って窓を開けようとはしない。逆光になった顔が、いくらか悲しそうに見えもしたが、関心のない目付きでぼんやりと外の景色に見入った。
あの雪の夜から、もう一か月が経っていた。
あれから彼女は蔵屋敷に住み着き、いつも両親の相手をしていた。両親にとっては、Mとの饗宴の時間を縫って診療や家事をしていたと言った方が、現状に近かったかも知れない。僕も行きがかり上、蔵屋敷に顔を出すべきだったが、あの夜の痛烈な印象を整理しきれないまま、彼女と会うことも少なくなっていた。ときおり診療所の受付のまねごとをしている彼女を見たり、たまに家族で囲む夕食の席で一緒になったりはしたのだが、僕の方から視線を下げてしまうのが常だった。
彼女に聞きたいことは山ほどあった。広告の仕事のことや、住まいのこと、そして両親と過ごす時間の意味についてなど、どうしても聞いておきたいことはあった。しかし、後二か月も経たないうちに、僕は都会の歯科大に行くことになっていたのだ。今さら問いただし、新しい生活を始める前に、どうしても整理しておかねばならない問題とは思えなかった。
ぼんやりと広がった視界の中で、静止したわびしい風景に溶け込んで帰って行く、Mの後ろ姿が揺れた。あれほど凄まじい感動を僕に与えた彼女の背は、少し小さく見えた。あの夜の痛烈な裸身に比べ、紺のシャネルスーツがやけに悲しい。
そのとき、怠けきって思考を停止していた脳の隅で、しばらくぶりにピアノの音が響いた。完璧に弾かれるショパンのスケルツォが僕を笑った。
思わず立っていって、薄く埃の掛かったヴェーゼンドルファーの蓋を開けた。あれほど広いと感じられてきた八十八鍵のキーが、まるで箱庭みたいに小さく見えた。
おずおずと最初のAを置く。澄みきった音色が耳に美しく響き渡り、最初のパッセージをクレッシェンドに攻める。
忘れていた音の洪水が頭を走り、少し遅れて僕のピアノが、裏切りもなくその音を追った。まさにヴラヴィシモ。これがピアノっていうもんだと思い、涙がこぼれ鍵盤が滑った。エンディングで大きく外した音は、初めて会った彼女の前で外したあのFだった。途端に涙が止まらなくなり、メロメロになったスケルツォの音色から、彼女の悩ましい姿態が浮かび上がる。
ああ、そうなんだ。そうだったのだと、言葉にできないまま最後のDesをぞんざいに置いた僕は、ピアノの前で立ち上がった。喉元までこみ上げた発声できない言葉を持て余したまま、高々と勃起したペニスを解放すべく、服を脱いで全裸になった。
「すてきよ」と言う彼女の幻聴に酔いながら僕は、一人で夢見るようにMとのセックスを追った。
今けじめなくてはと思いながら、焦るように虚しい絶頂を極めた後、僕は決心し彼女の招待を受けた。もう後ろ姿も見えぬプリマに向かって、僕は大声で「今夜会おう」と叫んだのだ。