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1 命門学院(5)

都会での学生生活を四年間送り、就職で市に帰って来たというフレッシュマンに、Mは鉱山の町の第一ヴァイオリンの老女の名を告げた。
「あの身寄りのないお婆さんの知り合いなんですか。あの人は俺が担当しているんです。鉱山の町からの依頼で、このホームへの入所を決めました。初仕事だったんですよ。それが、病状が思わしくないというので、休日に呼び出されました。ご一緒しましょう」
天田は先に立って、勝手知ったホームに二人を案内する。先ほどまでの軽い乗りの青年の姿が消え、堂々とした福祉専門職に見えることが祐子には不思議だった。たとえ駆け出しでも、職が自信と責任感を与えるのだろうかと、まだ経験したこともない職業への憧れと不安が顔を覗かせる。

南に開いた長い廊下を渡り、右に折れて北向きに張り出した棟に向かう。ホームの中は静まり返ったままで、行き交う人もない。いわれもなく不安が高まり、三人の足が早まる。
奥まった室のドアが開け放されているのが見えた。
急ぎ足でドアの前まで行くと、白衣姿の女性が出て来て天田の顔を見つめた。「様態が急変しました。もう危篤状態です」と告げる。
声と同時に三人の顔がこわばった。天田を先頭に静かに室に入る。

大きなベッドが室内の大部分を占めていた。三人で周りからベッドを取り囲み、横たわった小さな老女を見下ろす。室内には他に誰もいない。
老女は寝入ったまま身動きもしない。微かに上下する皺だらけの細い喉が、彼女の命を弱々しく主張していた。
「おばあちゃん」と、天田が呼び掛けても何の反応もない。微かな呼吸だけが不規則に続いている。
枕元に立った祐子が見下ろす老女は、まるで見覚えのない人だった。三年前の夏、元山神社の境内で、白髪を日に煌めかせてヴァイオリンを操っていた同じ老女とはとても思えなかった。
祐子の記憶にない、目を閉じた小さな顔は、今、萎んでしまった風船のようにユーモラスでグロテスクに見えた。微かに聞こえる息の音が不快だった。豊かだったはずの銀色の髪も三年の間に疎らになり、張りを失った頭皮が所々に露出していた。褐色に見えるくすんだ色の皮膚の上に、黒々とした染みが随所に浮かんでいる。

祐子は、老女の醜さがやり切れなかった。人はなぜ、こんな姿になってからも生きるのだろうと思ってしまう。腐ったタマネギの匂いのような、陰惨な臭気さえ漂ってくる。悲惨だった。
目を伏せてしまいたくなったとき、唐突に老女の目が開いた。不規則な息の音が一層高まる。
見開かれた老女の目は、祐子の目を見つめていた。黒く、漆黒の闇となった二つの目が祐子を見つめる。しかし、その目は何も訴えはしなかった。何の感情もなかった。無と化した両眼が、ただひたすらに祐子の視線を吸い込んでいく。

ホームに来るまでの自分の記憶が靄の中に霞んでいる。これまでわだかまっていた一切の思いが掻き消え、遠く遠く、暗黒の彼方へと吸い込まれていく。逆立ちになって闇の中を浮遊しているような、恍惚とした気分が祐子の下半身を満たした。濃密で豪奢な闇に全身が溶け込む。
「もっと、もっと」と、心の深奥でやるせないまでに無と化した闇を求めた。
濡れた股間から冷たい感情が立ち上がり、ゆっくりと身体を這い上がってくる。たまらず身悶えすると、剃り上げて一週間経った陰毛の先が、内股を鋭く突いた。陰毛の刺激で我に返る直前、喜びに震える老女の喘ぎを、祐子は確かに耳の底で聴いたと思った。

老女の不規則な呼吸がひときわ高まり、ヒーと長く尾を引いた。黒々と大きく見開いていた目が、見る見るうちに濁っていく。
あの暗黒の瞳は幻だったのかと、祐子は思った。食卓に上る鰺の干物のように、白茶けた目が眼下にあった。
「看護婦さん」と叫ぶ、天田の大声がすぐ近くで響いた。


「ご臨終です」
駆け付けた医師が老女の瞳孔にミニライトの光を当ててから言い、そっと瞼を下ろした。さっと看護婦が白布を広げ、老女の顔を覆った。
それで終わりだった。
消え入りそうに小さな遺骸に全員で頭を下げ、死との出会いに打ちひしがれて室を後にした。
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アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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