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- 2011/03/05/Sat 15:00
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- 第4章 -卒業-
ほっとして祐子が立ち上がろうとしたとき、肌寒い夜気を裂いて、けたたましいエンジン音が響いた。すぐ横の車道でタイヤの軋む音が轟く。
「バイク、また女狂いか。捜し回ったんだぞ」
カワサキの400CCに跨ったケースワーカーの天田が、真っ赤なフルフェイスのヘルメットの中で叫んだ。
「後輩、また会ったね」
立ち上がった祐子に天田が声を掛けた。
黙ったまま小さく頭を下げた祐子に、天田がヘルメットを脱ぎながら言葉を続けた。
「後輩とバイクは知り合いだったのか。俺はバイクとは高等部の同級生なんだ。でも、こいつは後輩の先輩じゃあないよ。高等部から命門に来たんだ。昔から美人には手が早いから用心した方がいい」
ほころんでいたバイクの顔が、天田の出現でまた厳しく引き締められた。
「天田。俺に用があるのなら早く済ませてくれ。俺はお前に用などない」
「五年振りに会ったというのに、たいそうなご挨拶だな。この後輩とは、さっき別れてきたばかりなんだ。俺だって美少女と口をきく権利はある。今度はまだ、お前に奪われてしまったわけじゃあないからな」
バイクの顔が真っ赤に染まるのが、夜目にもはっきり分かった。
「わざわざ五年前の恨みを言いに来たのか」
「そういうわけだ。懐かしいだろう。あの時と同じカワサキの400だぜ。バイク好きのお前には堪えられないよな」
誇らしくオートバイを揺すると、大きなタンクの中でガソリンの揺れる音が響いた。微かにオイルの匂いが流れる。
「後輩は、老人ホームの玄関で俺が姉さんに話した、美人の同級生のことを覚えているかい。後輩と瓜二つの、中等部のセーラーがよく似合う可愛い子のことさ。そのアイドルをこいつが殺したんだ」
天田の言葉が終わらないうちに、車椅子の車輪が軋むかん高い音が響き、行き交う車両の列にバイクが車椅子を乗り入れた。無謀に通りを横断しようとする。クラクションの音が交錯し、急ブレーキでタイヤの焼ける匂いが鼻孔を打った。
バイクは上半身を前傾させ、しゃにむに車椅子を進める。
「逃げるのか。誰だって知ってることじゃあないか。まだ話があるんだ」
オートバイから飛び降りた天田が、車道の端まで出て大声を出す。既に通りを渡り切ってしまったバイクは、車椅子の速度も緩めず煉瓦蔵の横の路地へと入って行く。
「逃がしやしないぞ」
バイクの背に叫んだ天田が、車の間を縫って通りを横断する。けたたましいクラクションの音がまた、通りに溢れた。
命門学院の二人の先輩に取り残されてしまった祐子は、マンションのエレベーターホールへと向かった。背中に背負った黒いリュックがやけに重い。
ちょうど待っていたエレベーターに乗り込み六階のボタンを押す。静かに上っていく方形の空間の中で、祐子は慌ただしかった午後を思い返した。
老女の死やMとの会話、オートバイに跨ったケースワーカー。
しかし、最後に聞いた、バイクが殺したという少女のことが一番気に掛かっていた。
エレベーターを降りて、明るい通路を突き当たりの部屋へと向かう。木組みのフローリングの上で、靴音が低く響いた。
リュックを下ろして鍵を出し、錠を外す。ドアはスチール製だが軽々と開く。ドアに連動した玄関灯が広いフロアを照らし出した。目の前の紫檀の衝立の向こうは二十畳のリビング兼用のキッチンになっていた。父の趣味だが、変わったレイアウトには違いない。
部屋の中央に、大きな白の革張りの応接三点セットと姿見があるだけの殺風景なリビングだった。高さ五十センチメートルほどのテーブルは、畳一畳以上の広さがあった。親子三人が座っても、それぞれ好きな作業ができることが父の眼目だった。それが彼の考える家庭の団らんのイメージらしかった。しかし、忙しい父は、ここに越して来てから、まだ一度もそのイメージの実現を見たことはなかった。北側の壁面はすべて、カウンターを持ったキッチンになっている。
織姫通りに面して大きく窓が取ってあり、ブラインドが下ろしてある。室の三方にドアがあった。南向きのドアが夫婦の寝室で、東向きのドアが祐子の私室だった。西向きのドアは洗面所とバスに通じている。
祐子はリビングを素通りして自室に向かった。
明かりをつけずにカーテンを開け、下の通りを見下ろす。歩道に寄せて駐車した天田のオートバイが小さく見えたが、人影は見えない。カーテンを閉めて明かりをつけた。
「疲れた」と独り言をつぶやき、ベッドの端に腰を掛けた。目の前の姿見の中で、大人びた他人の顔がしかめ面をしている。そのまま後ろに倒れ、パッチワークを施した、母の手製のベッドカバーの上に仰向けになった。