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1.葬儀社(3)

「イタイ、クルシイ、ハヤクコロセ、」
静まり返った病室の奥から苦痛に啜り泣く患者の声が聞こえてきた。押し殺した喘ぎ声が、耐え難い痛みをMに伝える。廊下の中程まで進むと、明るく照らしだされた医局の窓が見えた。年配の看護婦が急ぎ足で出て来る。

「遅いじゃない。それに一人なの」
「済みません」
小さな声で言って頭を下げた。看護婦が眉を寄せ、Mをにらんだ。気まずい雰囲気が満ちる前に、若い医師と幼さの残る看護婦が医局から出て来た。
「これが死亡診断書、確実に家族に渡すこと、いいね。葬儀社の人だけだと困るんだが、遺体の引き取り手が医師なので了承します。さあ急ごう」
医師が差し出す封筒をポケットに入れ、Mは黙って三人に従う。病棟の一番奥まったところにある六人部屋の前で一行は止まった。
「満室だから、できるだけ静かに」
声を落としてMに言った医師が両手にゴム手袋をはめる。二人の看護婦が医師に倣って手袋を出した。
「君は手袋を持ってきたかい。H・I・Vの患者だって言ってあったろう」
責めるように医師が言った。
「私は手に傷がないから要りません」
即座にMが答えた。小さくうなずいた医師が先に立って病室に入った。懐中電灯を肩から背負った二人の看護婦が後に続く。Mは廊下で担送車の向きを変え、後ろ向きに曳きながら病室に入っていった。部屋の両側に三つずつベッドが並び、入口から延びた通路はやっと担送車の幅しかない。狭い室内は暗い。白いカーテンで仕切られた五つのベッドで、患者たちが息を殺して長い夜を耐えていた。右側の奥のベッドで懐中電灯の光が揺れている。この病室で一人だけ永い眠りについた光男がMを待っているのだ。

Mは担送車を窓際につけ、載せてきたマットの頭の部分を持った。慣れた手つきで年配の看護婦が足の部分を持つ。ベッドの端に寄せられた光男の床に二人でそっとマットを下ろす。医師が光男の頭を抱え、二人の看護婦が胴を支えた。Mは細い腿を支え、四人で共同してマットの上に遺体を乗せる。軽々とした光男の重さが、まだ温もりの残る肌の感触とともに両手に伝わってきた。遺体を移動させたことで、一応の任務を終えた医師と看護婦が前後して身体を引いた。マットに備え付けた白布で遺体を覆うのはMの仕事だ。目の下に光男が横たわっている。ほっそりとした顔はきれいに整えられ、閉じられた目がMに会うことを拒否している。赤く染めた髪は乱れ、右の耳で金のピアスが光っていた。骨と皮だけになった細い両手が祈りを上げるように胸の上で合わせられ、白い包帯で手首を結わえてあった。今さら何を祈ろうと言うのか。Mの目に涙が浮かび、止めどなく流れ落ちた。涙は白いマスクに次々と吸い取られていく。声も出さずにMは忍び泣いた。

Mの様子を怪しんだ医師が素早く身を乗り出し、ファスナーの付いた白布で遺体を覆う。Mの気持ちなど構わず、光男の顔を白布で包み終わると非情にファスナーを上げた。涙に霞む目で見下ろす光男は、まるで粗大ごみのように白い袋に入れられてしまった。医師が看護婦たちに目配せし、三人でマットの取っ手をつかんだ。目の前で光男の身体が斜めに浮き上がる。慌ててMも足元の取っ手をつかんだ。マットに横たわり白布で覆われた遺体が何回か宙で揺れ、軽々と担送車に収まった。それでいっさいが終わった。Mは黙ったまま担送車を押し、暗い廊下を再びエレベータへ向かう。送ってきた医師と看護婦が遺体に頭を下げた。エレベーターの扉が締まると、明るい方形の箱の中にMと光男だけが残った。Mは光男を覆った白布を開きたくなる衝動を抑え、声を上げて泣きじゃくった。ひたすら力を込めて担送車を押し、元来た道を戻って、駐車場に帰り着いたときは、全身がぼろ布になったように疲れ切ってしまった。このまま逃げ出してしまいたいという思いが何度となく込み上げてきたが、見たばかりの安らかな死に顔がかろうじてMを引き留めた。人気のない病院の地下駐車場の冷気がMと遺体を包み込む。

「怖いよ、寒いよ、M、助けて」
甘ったれた声の記憶がMの耳に甦る。鉱山の町の真っ暗な坑道で十二歳の光男が泣く。そして十八歳の光男が、鋸屋根工場の北向きの光を浴びて啜り泣く。痛々しいくらい貧弱な裸身が救いを求めて震えている。

「ワッー」
駐車する車両も疎らな暗い地下駐車場にMの叫びが響き渡った。もう悲しみの奔流を押し止めることはできなかった。ダークグレーのスーツを脱ぎ、黒のセーターをむしり取った。スカートを脱ぎ、ストッキングを剥ぎ取る。素っ裸の胸で乳房が震え、広げた股間で固く突き立った性器がおののいた。担送車の上のマットに両手を伸ばし、遺体を覆った白布のファスナーを下ろした。今にも目を開きそうな邪気のない死に顔が目を閉じたままMをうかがっている。胸の上で両手を組んだ痩せ細った光男の身体を、そっと素肌で覆った。温かな裸身に触れる、冷えていく肉体の感触が悲しい。Mは光男の体温を甦らそうとするかのように、冷え切った頬に頬を擦り寄せ続けた。突然、白い裸身を懐中電灯の光が照らしだした。

「汚れない仏に何てことをするんだ」
紺色の制服に身を包んだ初老の警備員が、全身を怒りで震わしながら鋭い声で叱責した。端正な顔を苦悩に歪めたMが遺体から身体を離し、豊かな裸身を大きく上に伸ばした。静かな声が冷気を揺るがす。
「かわいそうな弟の弔いを邪魔しないで欲しい」
懐中電灯の光が一瞬揺れてから消え、足音が去っていった。薄暗い駐車場に白々とした裸身だけが立ちつくす。
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アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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