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2.神ながらの道(1)

水瀬川に架かる大橋のたもとの信号が赤に変わった。Mは寝台車を停止させて左手首のタイメックスを見た。青く光る文字盤で黒い針が午前五時三十分を指している。明るくなるまでにまだ三十分以上あった。思いの外早く市に着いてしまったのだ。寝台車の周りは闇が覆っている。対向車もなく後続車もない。信号の赤い光を浴びてMと光男だけが市街地の手前に取り残されていた。大きいだけが取り柄の古い寝台車はヒーターの効きが悪く、川面を渡る冷気が車体の隙間から忍び寄ってくる。Mは運転席の窓を少し開いた。飛び込んできた一月の風は、さすがに頬を刺すほど寒い。風の中に微かな川の匂いを嗅いだ。大きく窓を開けて川面を見ようとしたが、橋の下は深い闇が覆いつくしていた。川は光男が育った鉱山の町から流れてくる。この川の下流の都会で生まれた光男は航空機事故で両親を亡くし、鉱山の町に住む祖母に引き取られていた。その町でMは小学生の光男たちと会い、一夏を過ごした。鉱山の町を出て八年後に市で再会した光男は、シンナー中毒の高校生だった。そして今、四年の時が流れた。生地の都会は光男にエイズを贈り、死を送り付けた。水瀬川を上っては下った光男の生涯は余りにも短く弱々しかった。冷たい川風に乗って「怖いよ、寒いよ、M、助けて」と、救いを求める光男の甘ったれた声がまた聞こえてきた。悲惨すぎた。

嫌な思い出しかないはずの市で、光男を待つ者はいない。たった一人の肉親である祖母は、寝たきりの痴呆症のまま特別養護老人ホームに収容されている。実際に遺体を引き取るのは医師であるピアニストを代表にした知人たちだった。専務に渡された書類に書かれていた名前が目に浮かぶ。そこには祐子の名があり、修太があり、チハルの名があった。おまけにケースワーカーの天田までが名を連ねている。責任の拡散か葬儀料金の支払いを担保するためか、目的は明らかでない。だが、すべて光男が嫌悪するはずの名前ばかりだった。市を捨てて都会にさまよい出た光男の繊細すぎる神経が、知人たちの勝手な友好を許さないとMは思う。このまま鉱山の町まで行ってしまいたい心境になる。幼い希望が溢れていた土地に、光男を葬ってやりたかった。

青に変わった信号をにらみ、Mは力強くアクセルを踏んだ。巨大な棺車が嫌々をするように車体を震わせながら発進した。遺体の運び先は山地のドーム館だったが、四年前に亡くなったコスモス事業団の理事長が住んだドーム館は今、理事長の個人的な遺産を相続した祐子とチハルが住んでいる。彼女たちが、少なくともチハルが遺体を歓迎するとは思えなかった。代表者のピアニストが自分の蔵屋敷を搬送先に指定しなかったくらいだから、ドーム館に運べという指示は光男の同級生だった祐子の好意としか思えない。だが最年少の祐子の地位が四年前に比べて向上したとは思えなかった。遺体を前にした騒動だけは何としても避けたかった。いくら何でも夜明け前に訪ねることはできない。

Mは山地に向かう織姫通りを選ばず、産業道路を西に向かった。途中で左折し、四年前に光男と再会した中央公園の横をゆっくり走る。ようやく白んできた空が木立に囲まれた公園を非現実的な景観に見せる。まるで市街地に出現した森のようだ。だが、おとぎの国の森は鉱山の町の元山沢を取り囲んでいた森林とは違う。見る間に明るくなっていく空が色とりどりのゴミが散らかる空間を暴露してしまう。やはり山に登ろうとMは思った。せっかくの日の出を、市街地が見渡せる高い場所で光男と一緒に迎えたかった。光男は市の風景など見たくはないと言うだろう。しかし、見つめることが生きていく上で必要だったことを、いまさらながらでも知って欲しかった。Mは市役所の構内で寝台車をUターンさせて水道山に向かった。寝台車は光男の祖母がいる特別養護老人ホームへの分かれ道を直進し、山に分け入る。石畳の急坂を二つ、ギアをローに落として越えると水道記念館前の広場に出た。スパニッシュ・コロニアル様式の明るい瓦屋根が東の空からの光でオレンジ色に染まっている。二階から張り出したベランダでは小鳥が遊んでいた。Mは記念館の前に寝台車を止めてドアを開け、凍り付いた地面を踏み締めた。全身を包み込む寒さの中を、光男の気持ちを抱いて展望台に向かう。

前方の桜の梢越しに市街地が大きく広がっている。市の東に連なる低い山並みの上のうっすらとたなびく雲が、まさに紫から赤に変わろうとしていた。血のような赤が瞬く間に豪奢な黄金色に変わると、市街全体に白い光が満ちた。顔を出した朝日に逆光となった建築物が黒々としたシルエットになる。南方には遠く、水瀬川が輝く帯となって平野へと広がる市街を遮断している。美しい眺めだった。この市に封じ込められた魔力が解き放たれ、いましも昇天していくようなほっとする光景だ。視線を北に巡らせて山地を見ようとしたが、猛々しくそびえ立った山並みが視界を遮っている。山地は市街地から遥かに遠い。見ることのできない山地に思いを馳せた時、後ろから足音が聞こえた。素早く振り返った目に奇妙な人物が映った。黒い柔道着姿の男が寝台車の後部へ近付いて行く。男と言うより老人といった方が当たっていた。癖のある白い髪を振り乱し、顔一面に白く長い髭を蓄えた男は、さり気なく寝台車の後部ドアに手を伸ばした。観音開きの扉には錠を下ろしてあったが、Mは急いで車へ駆け戻った。
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Author:アカマル
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官能のプリマ全10章
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