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1 命門学院(1)

市は、三方を山が塞いでいた。
開かれた南には関東平野が広がっていたが、その入り口を握するように水瀬川が滔々と流れている。上流にある、かつて鉱山で栄えた町の山脈に源流を発する大河だった。
辛うじて北に延びた谷だけが、水瀬川に注ぎ込む渓流沿いに延々と三十キロメートルほど続き、山脈に突き当たって絶えていた。

一言でいって谷間の街だ。都会までは、鉄道で一時間二十分。自動車で行けば、高速道路を使っても約二時間の距離だった。
決して交通の便の良いところではない。水瀬川を遡航する船便が絶えてからは、他市に秀でた交通網は持たない。その水運が栄えたのも、百年以上も前の話だ。

農地の少ないこの地方は、水運による鉱石の出荷と、この市で製造する絹織物の販売で栄えてきた。
特に、千二百年の伝統を豪語する絹織物は、幕末から明治期にかけて工場制手工業として飛躍的に発展した。
機を織るのは、主に女性だった。その織姫と呼ばれた女工たちを管理するのもまた、女性だった。男たちは、独特の文化と呼ばれるようになる趣味道楽に、湯水のように金を使うばかりだった。

生産実務者としての女性は、多忙を極めることになる。機業の管理運営に関する教育が求められたのも、当然の話だった。幕末期から私塾で学ぶ女性が多く、官制の学校も女学校が一番先に設置された。
女性の献身的な労働と、学識が街の発展を支えて来たといっても過言ではない。この女性教育の一翼を担い、機業家の婦女子に読み書きや算盤を教えた私塾を基盤に、昭和初期に設立されたのが命門学院だった。

現在の命門学院は、幼稚園から大学まで網羅した、地方教育界の雄として名声を誇っていた。女子大学部は水瀬川を越えた広々とした平地に移転して久しかったが、男女共学の高等部まではまだ、この谷間の街の山際に点在していた。特に中等部と高等部は、都会の名門大学に数多くの合格者を出す進学校として名が高かった。建学の精神とは離れ、受験戦争を勝ち抜いていくことを目的にした学校経営だったが、厳選した生徒の質を誇っていた。


鉱山の町の廃校となる分校で小学校を卒業し、中学進学を機に両親と共に市に転入してきた祐子は、命門学院中等部の三年生になっていた。この市での生活も、もう三年目になる。

祐子は、水道山の麓にある中等部の裏門から校外に出た。
真っ直ぐ、山を越えるアスファルト道路を歩いて行く。いつもは正門を利用し、街の北にある自宅のマンションに向かう。裏門から山に続くこの道は、なだらかな山頂にある配水場の横を通り、街の西側へと続いていた。ちょうど、街を半周してから自宅に帰ることになる。長い道のりだった。

どんよりと曇った六月の空から、いましも雨が落ちてくるような気がする。
祐子は、うんざりした顔で立ち止まり、白い長袖のセーラーの胸元を飾る赤いスカーフを、心持ち緩めた。梅雨寒の冷気が豊かな乳房に触れた気がして、細い肩をすくめる。
身長百六十センチメートルの背を少し屈み気味にして、また歩き始めた。
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アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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