2ntブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

6.それぞれの思い(7)

日が落ちてから蔵屋敷を訪ねるのは久しぶりだった。最近は三人で夕食を食べることもなくなっていた。祐子が運んできた食品を、それぞれが好きな時間に調理して食べる事が多くなっていた。レトルト食品が得意でない歯科医は、もっぱら母屋で食事をした。身体が動けるうちはそれでいいと思う。もちろん三人で囲む食卓の味は忘れられないが、進太が成長してしまった今となっては高望みに過ぎるような気もする。これが時代なのだと思えば諦めもついた。良い悪いはその時の気分が決めることに過ぎない。

蔵屋敷の自動ドアを入ると、二階に続く階段の上でクロマルがうれしそうに吼えた。エプロンを掛けたような白いたてがみを揺すり、しきりに太い尾を振って愛嬌を振りまいている。歯科医にはかわいくてならないが、犬嫌いのMを気遣って、夕刻になると進太がクロマルを二階に上げるのだ。やはり、一度帰ってきた進太は、清美の訪問を嫌って外出したに違いなかった。歯科医は憂鬱な気分でリビングに使っているワンルームに入っていった。部屋の中央にある、三人がそれぞれの作業台として使っていたテーブルの上には何も載っていない。Mの姿も見えなかった。あっけに取られて周りを見回すと、バスルームからシャワーの音が聞こえてきた。歯科医は部屋の隅に置いた安楽椅子に座ってMが風呂から上がるのを待つことにした。布張りの大きな椅子はMと歯科医のお気に入りの椅子だった。だが、歯科医が蔵屋敷にいるときは、さり気なくMが安楽椅子を譲った。老いた身には、些細な気配りさえうれしかった。じっと安楽椅子に身を任せて目を閉じていると、進太が小さかったころの団欒の思い出がまぶたに浮かんできた。他愛のない談笑が、とても貴重なものだったような気がする。

「あら、歯医者さん、蔵屋敷に来るなんて久しぶりね」
声を掛けられて目を開くと、裸身にバスタオルを巻いたMが洗い髪を拭きながら笑っている。一瞬目のやり場に困ったが、かつてのMは身体にバスタオルも巻かなかったと思い直して正面から見た。
「Mに話があってきたんだよ。じつは、ついさっき私はキヨミ先生と話した。外で進太の帰りを待っていたらしいんだが、見ていられなくて帰ってもらった。でも、今夜は帰るが明日の晩も来ると言うんだ。困ったことだ」
「歯医者さんが困ることはないわ。キヨミ先生は進太の担任ではないのよ。小学校の時の先生が教え子が気になって家庭訪問をするのは勝手だけど、それは先生の職務ではない。趣味のようなものよ。趣味で進太の帰りを待つのなら、いつまで待っていても文句は言えない。どちらかというと歯医者さんは、先生にも進太にも余計なことをしたのだと思う」
Mの意見はいつも明快だ。明快すぎてついていけない。人の暮らしはそんなものじゃないと歯科医は思う。

「Mの言うことはもっともだが、先生の訪問を嫌って逃げ出した進太はどうなんだ。私は家族で何とかすべき問題だと思うし、その事をキヨミ先生にも告げた。言いにくいことだが、最近のMは進太を放任しているように見えてならない。だから進太はチハルを慕うんだよ。私には決していいことだとは思えない。やはり、Mが進太を繋ぎ止めてやるべきだと思うよ」
断固として意見してからMの目を見つめた。あれほど自信に溢れていたMが、急に小さくなったように見えた。なんだか泣きそうな顔をしている。言い過ぎたかなと思って目を伏せると、静かな声が部屋に落ちた。

「歯医者さん、悔しいけれど、私はナイフの使い方を知らない。バイクの操縦も、四輪駆動車の運転も知らない。狩猟はおろか、キャンプの仕方すら知らないのよ。でも子供はみんな、それを教わりたいの。私にも覚えがある。自然の中で生きていく知恵や体験に憧れて、ガールスカウトに入ったことがあるの。でも、そこも学校みたいなところだった。一か月で退団したわ。それからの私は、お父さんが子供に教えてくれるようなことから目を背けるようになった。だって、私には父も母もいなかったから。でもね、私に父は要らなかっただなんて、誰にも言わせない。父が欲しかったのよ。今でも欲しがっているような気がする。歯医者さん、あなただって、二十五年前の私には父に見えたのかも知れないのよ。父性を求めだした進太に、私が何ができるというの。少なくともチハルは、私にできない役割を確実に担ってくれているわ。後は進太が、独自に判断力と実行力を磨くしかない。今の私には進太の可能性を信じることしかできないのよ」
最後の言葉が喉につかえていた。慌てて目を上げてMを見た。Mの目から涙が流れ落ちている。声も立てずに手放しで泣いていた。身体に巻いたバスタオルが床に落ち、裸身を細かく震わせて涙を流している。歯科医は黙って安楽椅子から立ち上がり、Mの前まで歩いていった。両手を大きく広げると大柄な裸身が腕の中に倒れ込んできた。冷たく濡れた髪をさすり続けた。気がつくと歯科医の目からも、止めどなく涙が溢れていた。先に逝ってしまった息子のピアニストがたまらなく恨めしかった。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

最新記事
カレンダー
01 | 2012/02 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 - - -
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
free area
人気ブログランキングへ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR