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1.クレードール(2)

息を切らせた歯科医の目の前に、貧相な祠があった。夏草に覆われた石の祠の前に、小さな河童人形が山になって苔むしている。赤や青、黄で彩色した色は雨露で流れ、赤黒い素焼きの地肌が累々と露出している。歯科医とMと進太の3人で弁当を広げ、酒を飲んではしゃいだ最後の河童祭りから、もう4年が過ぎた。その後も毎年、未練の妄執に駆られるように訪れるのは、歯科医だけだ。若い者たちは、毎日の暮らしの忙しさに流されていった。小さな祝祭が続くはずもない。家族の気持ちも変わっていくのだ。年老いた者だけが、取り残される悲哀を感じる。だが、過ぎ去った思いは戻りはしない。空しく時が流れ去り、人は老いていくだけだった。2年前の70歳の誕生日を契機に、歯科医は一切の診療をやめた。新しい家族が3人そろった食事も、今年からしなくなった。中学校二年生になった進太は、自分の部屋で食事をとる。Mも疲れている。色々なことがあった。歯科医の最後の趣味になるクレードール造りだけが、高度になった技術に裏付けられて、今も続いていた。真っ青な夏空が小高い山の頂に広がり、遠くカナカナゼミの声が聞こえてくる。立ちつくす歯科医の頬を、涼しい風が撫でていった。今年の夏がまさに、去ろうとしているかのようだ。

ズガーン、ズガーン、ズガーン

周囲の山々にこだます鈍い銃声が、祠の後ろで轟いた。かん高いエンジン音が、銃声に被さる。晩夏の山地の静寂を、一瞬に音の暴力が引き裂く。足に絡みつく夏草を分けて、歯科医は祠の裏側に回った。西に開けた視界の先一キロほどの所はもう、峻険な山が迫っている。そのまま見下ろしていくと、小高くなった山懐に日射しを浴びて輝くドーム館が見える。山を背にしたドーム館の長大な駐車場が壊され、今はクレー射撃場に代わっている。弾避けのために山肌が醜く削られ、露出した赤い岩盤が陰惨な印象を伝える。射撃場が完成したのは、つい一か月前だ。昨年の夏の終わりに、アメリカから帰ってきたチハルが造成したものだ。見下ろす歯科医の眉が曇る。また銃声が響いた。猟銃を構えたチハルの姿が眼下に小さく見える。また硝煙が上がり、バイクのエンジン音が轟いた。山裾の道にグリーンのバイクが現れる。凄いスピードでドーム館を目指して上がっていく。ヘルメットも被らずに50ccのモトクロッサーを飛ばすのは、進太に違いなかった。夏休みに入ってから毎日、進太はバイクでチハルの元に通っている。きっと銃を撃たせてもらっているに違いないと、歯科医は思う。いくら交通量の少ない山地だからといって、ナンバーが交付されないモトクロス用のバイクを、免許も持たない進太に買ってやったMの気が知れない。とにかく、チハルが帰ってきてからろくなことがない。あの無惨な殺人事件が起こったのは確か、チハルがドーム館に帰り着いてすぐのことだったと思う。まさか、小学校の六年生が、こんな平和な山地で殺されるなんて、それもMが相続したこの裏山の裾で死体が発見されたのだ。

歯科医は嫌なものでも見たように、目をしょぼつかせてからドーム館に背を向けて祠に戻った。そのまま山頂の南端までいって、開けた谷を見下ろす。市へと下る山根川の対岸に小さな学校が見える。それぞれ一学級ずつしかない、小学校と中学校が合い向かいに同じ敷地に建っていた。校庭と体育館、プールは供用だが、どちらの校舎もまだ新しい鉄筋コンクリート造りの二階建てだ。裏山と向き合っている校舎が中学校だが、今は夏休みで人影もない。だが、休みが終わったからといって、進太が通学するかどうかは不明だった。また嫌なことを思い出してしまったと後悔して、歯科医は東側に回る。東は急斜面になって沢に落ち込んでいる。鋭い角度で見下ろした沢の手前の狭い山裾にワサビ田が見える。ワサビ田の下は農道で、その先は浅間山から続く小高い瘤山が迫っている。わずかに水面を輝かせている五枚のワサビ田は、ほとんどが日の当たらない山陰に位置していた。清流の流れる沢の向かいは歯科医院の敷地だ。蔵屋敷の裏の梅林が見える。だが、蔵屋敷に渡るには不安定な丸太橋を歩くしかない。ワサビ田の隅に人影が見えた。作業服姿の長身が俊敏に動き、長い髪が揺れた。Mがワサビ田の雑草や枯れた葉を取り去っているようだ。熱心に動き回るMを、歯科医は不思議そうに見下ろす。たとえ山地に住んだからと言って、Mが百姓仕事に精を出すとは、今でも信じられない。Mがワサビ田を開いてからもう、五年になるのだ。

小さく首を振りながら歯科医は祠の前に戻った。どれほど長く生きたとて、ろくなことはないと思い、祠の前にしゃがみ込んで紙袋から河童人形を取り出す。窯焼きにまわすのを思いとどまった歩留まりの品だが、その一つ一つが今日は妙に懐かしい。十体を石の上に並び終えてから、クリスタルのデカンターに入れたワインを紙袋から出した。ブルゴーニュの赤を一口含み、不味そうに飲む。真ん中に置いた寝そべったクレードールの顔にも一滴垂らした。笑っていた顔がワインを浴びて泣き出しそうになる。不意に河童の顔がピアニストの泣き顔に変わった。十八歳の時の純真な泣き顔だ。歯科医は激しく頭を左右に振った。また嫌なものを見たと思った。やはり長く生きすぎたのかもしれないと、乾いた悲しさが目の底を掠めた。
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Author:アカマル
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官能のプリマ全10章
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