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2.ワサビ田(10)

「誰のピアノ」
最後の余韻に酔うような声でMが尋ねた。
「大城杏花、若い人よ。市の主催する新人コンサートで天田が聴いて夢中になってしまったの。職権を利用して頼み込み、自慢の機材でデジタル録音したのよ。でも、いつかMに聴かそうと言って、スケルツォを選ぶなんてかわいいでしょう。私も杏花のピアノが好き。音が胸に染み込むものね。Mが気に入ってくれてよかったわ」
チーフの言葉は遠くから聞こえるようだ。Mは万感の思いを込めて目を閉じた。一心にピアニストの顔を思い描く。閉じたまぶたから涙がこぼれた。

「ショパンもお好きなんですね」
低いバリトンが響き渡り、Mはスツールから落ちそうになった。慌てて正面の鏡を見る。紺のブレザーとジーンズの、今朝会ったときと同じ格好をした名淵が笑っている。相変わらず肩からカメラを下げていた。
「また驚かせてしまったようですね。エントランスの電話を使いながら聴いていたんです。失礼だけど泣いていましたね。ひょっとして、ピアニストを思い出してくれたんですか」
名淵の二の矢がMの涙腺を切って落とした。止めどなく頬を涙が伝った。熱い涙だった。
「せっかくだから隣りに座らせてください。チーフ、シェリーを一本開けておいてくれ」
一方的に言った名淵は、Mの横のカウンターにライカM6を置いてから手洗いに向かった。チーフは返事をすることも忘れ、名淵の後ろ姿とMを交互に見つめた。ドアの閉まる音を確認してから、啜り泣くMの肩にチーフが両手を当てた。

「M、さっきの言葉は撤回するわ。いい男は一人だけ残っていたわね。でも、Mが検事さんと知り合いとは思わなかった。職業は怖いけど、いい人よね。この二週間ほど毎晩来てくれるの。とても特捜検事には見えないわ。私も弁護士のお客さんに聞いたときはびっくりしたのよ。どうしてMは知り合ったの」
検事という言葉だけがMの耳に残った。特捜検事が殺人現場を聞きただして写真まで撮っていったのだ。誰かを疑っていることだけは間違いない。思わず鋭い目でチーフを睨んだ。

「ごめんなさい。Mが検事さんと付き合いが深かったことをつい忘れていた。それも、農作業ばかりしているMのせいよ。私に恥をかかせないでよ」
頬を膨らませて言ったチーフは、シェリーを取りにワインクーラーの方に向かった。二度も前科があるMの過去を、今更ながら思い出したような態度だった。Mの背筋に冷たさが走る。そのすべてを名淵が知らないはずがないと思った。素っ裸の姿を権力に観察されたような恥辱が襲い掛かった。確かにMは刑務所にいた三年間、権力に命じられるまま裸身を晒し続けたのだ。忘れていた屈辱が全身を覆い、素肌がかっと熱くなった。カクテルグラスを手に取り、残ったマティニを飲み干す。ジンのきつい香りが口に残った。じっと正面の鏡を見つめると名淵の姿が映り、確かな足取りで近寄ってくる。しなやかな仕草で隣のスツールに座った。

「今日中に再会できるとは思わなかった。でも、予感はしたんです。Mさんはこの店の家主でしたよね」
予想に反し、下世話な話題が名淵の口を突いた。セクシーなバリトンが台無しだ。Mの私生活のすべてを知っているように、投げ出された情報も不快だった。
「何でもご存じのようね。さすがに検事さんだわ。でも、真実ではない。この店の権利は歯科医のもので、生前のピアニストに贈与されなかった。従って私が相続するわけがないのよ。予断に基づいた類推はしないでください」
鏡に映る名淵の顔をにらみ付けるようにしてMが答えた。名淵の口元が引き締まり、沈黙が落ちた。二人の前にチーフがグラスを並べ、黒い瓶からシェリーを注いだ。ブドウの芳醇な香りがMの鼻孔を打つ。荒み掛けた気持ちが和む。どことなく落ち着かず、地に足の着いていない今の自分を、酒に見透かされたような気がした。
「今朝と同様、また怒らせてしまったようですね。まあ、シェリーを飲んでください。それとも、先に手洗いを使いますか」

何気ない顔で言った名淵の言葉で、Mの頬が真っ赤に染まる。剥き出しの尻を洗っていた冷たい流水の感触が甦った。何か言ってやらねばと、どうしようもない焦りが込み上げてくる。
「確かに僕は検事だが、Mさんに隠していたわけじゃない。チーフが先に話したかも知れないが、僕は山地の事件の捜査で二週間前から市に来てるんです。今朝ワサビ田にお邪魔したのも仕事です。でも、ピアニストのことは嘘じゃない。公私を混同させて話した僕が軽率でした。その点は謝ります」
また名淵が嘘を言ったと、全身を包み込むじれったさの中でMは思った。山地の事件の捜査で市に来たなどと、名淵がチーフに漏らすはずがなかった。その一言は作為をもってMに放たれたのだ。今すぐ席を立つべきだと、七年の生活歴を持つ即席農婦が命じる。しかし、もう一人の女が焦燥に駆られながら、次に発せられるバリトンを待っていた。Mはシェリーグラスに手を伸ばし、金色に輝く酒を口に含んだ。スペインのアンダルシア地方で醸造したブドウの酒は太陽と情熱の味がした。
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アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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