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2.ワサビ田(3)

「やみくもに礼を言われても困ります。家に寄って詳しい事情を聞かせてください」
掠れた声で訴えると、名淵は苦しそうに首を振った。
「今日はやめておきます。しばらくこの市にいますから、きっとまたお会いできますよ」
一方的に応えた名淵は、返事を待たずにワサビ田を下っていった。Mの足は凍り付いたように動かない。じっと後ろ姿を目で追ったが、すぐ瘤山の陰に入ってしまった。大きな驚きと小さな疑問がMに残った。疑問は、なぜ名淵が真っ先に少女の死体について尋ねたかということだった。Mは迂闊にも名淵の身分を聞き忘れたことに思い当たった。身分どころか名も住所も連絡先も聞いていない。年甲斐もなく動転してしまったことが恥ずかしくなる。きっと、警察か報道関係者に違いないと思ったが、名淵の持つ雰囲気は微妙に違っていた。きっとまた会えるという言葉を信じるしかなかった。ぼう然として視線を落とすと、水貯まりの石畳の底で黒い水藻が揺れていた。


Mが水底に沈む少女の死体を発見したのは、午前七時を過ぎたころだった。東の山の稜線から顔を出した朝日が、ちょうど水貯まりの辺りを照らし出していた。終日日陰になる取水口に日が射し込む、一年に数日とない稀有な季節だった。見慣れぬ風景に誘われたように、Mは真っ先に一番上にある田を目指して畦道を上った。もっとも流水を絶やすことができないワサビの栽培では、真っ先に取水口の様子を見るのが日課ではあった。だがその朝、きらきらと美しく朝日を反射する水面がMを誘っていたことも事実だった。

流れにつれて乱反射する光の粒に細めた目に、水底で揺らめく漆黒の水藻が飛び込んできた。目を凝らして水貯まりの底をのぞき込むと、水藻と見間違った長い髪が千々に乱れて光の中で揺らめいている。はっとした瞬間、眠っているような童女の表情が網膜に像を結んだ。まさかと思ってあごを引くと、広々とした視野に少女の全身が映った。水底の少女は全裸だった。成熟する前の青々とした果実を思わせる固く引き締まった裸身が、光の微粒子を散りばめている。まるで異国の辺境に住む少女が祝祭の日に装っているようだ。その豪奢な衣装に見とれるように、Mは言葉を失って立ちすくんだ。驚きが失せると、恐怖もなかった。ただ、ひたすら美しかった。見つめるうちに日が移ろい、輝ける黄金の服を脱がせた。豪奢な気分を悲惨な現実が打ち砕くのに長い時間は要らなかった。青々と透き通って揺れる水面の底に白々とした死体があった。ぎこちなく硬直した裸身が悲しい。裸の胸の上に乗せてある大きな丸石が、まるで墓石であるように陰惨に見えた。Mの目から涙がこぼれた。静寂が極まる。

突然、自転車のブレーキ音がかん高く響き渡り、犬の吠え声が被さる。一気に静けさを破った音の奔流の中に、低い女の声が落ちた。
「Mが殺ったのかい」
ぎょっとして声のした方を見ると、水貯まりの向こうから小柄な女が歩み寄って来た。ハンノキ林の濃緑を背にして、オリーブドラブの戦闘服が似合いすぎるくらいだ。目深に被った黒いキャップの下で白い歯が笑っている。チハルだった。一週間前にアメリカから帰り、ドーム館で暮らし始めたばかりのチハルが、こんな早朝に山中を歩いて現れるとは思わなかった。Mはとっさに答えが出ない。
「陰毛が生え始めたばかりの子供じゃないか。酷いことをする女だ」
再び低い声で言ったチハルが、足元の小石を蹴った。完全防水のジャングルブーツの爪先で蹴られた石が水貯まりに落ちた。幾重にもなって広がる波紋が少女の死体を無慈悲に震わす。
「冗談はよしてよ。私が殺すはずがない」
掠れた声で答えてから、腹の底から怒りが込み上げてきた。非常識な問いに非常識な答えだった。嫌な隣人ができたと思い、暗澹とした気分になる。水貯まりの底に沈む死体さえうっとうしい。何で私のワサビ田にいるのかと叱責したくなった。途端にやましさが込み上げ、頬が赤くなる。怒りの元凶のチハルを真っ直ぐ見据えて大声を出そうとした。途端に犬の吠え声が渦巻き、足元に白と黒の獣が飛び付いてきた。背筋を恐怖が走る。全身に鳥肌が立ち、顔がこわばる。

「ダメッ、クロマル。Mから離れるんだ。ダメッ」
進太の叱声が響くと、尻尾を振ってMにじゃれついていた中型犬が瞬時に飛び退く。クロマルはセッターとシェルテーの雑種の牡で五歳になる。山地に引き取られたばかりで、妙に沈み込んでいた進太が初めてMにねだって飼うことになった犬だった。地元の愛犬家が掛け合わせた子犬は、自慢したとおり性格がよく、巻き毛の長毛も美しい。進太に良くなつき、命令にも従う。最高の主従だと思い、Mも目を細めたくなるくらいだった。しかし、Mの犬嫌いは直らなかった。もう、生まれつき犬が怖いとしか言いようがない。クロマルに近寄られただけで、身体が固くなるのだ。そんなMをクロマルは見逃さない、親愛を込めてMを構うのがクロマルの娯楽になってしまったようだ。Mにだけ吼え掛かる。それも尻尾を振りながらなのだから、傍らで見ている者には滑稽だった。もちろんMはそれどころではない。

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アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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