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2.ワサビ田(2)

「いいわ、山の中で迷ったのなら助けるわよ。でも、私が声を掛けるまで、ちょっとの間後ろを向いていてちょうだい」
返事を聞いた男は、訝しそうに小首を傾けたが、小さくうなずいてから広い背中を見せた。Mは急いでズボンを引き上げながら立ち上がる。緊張してしゃがんでいたため両足が痺れてしまい、ズボンがうまく尻を通らない。濡れた肌が驚くほど手に冷たかった。陰毛を伝った水滴がオレンジ色の生地に醜い染みを付ける。

「いいわよ。どちらに行きたいの」
ワサビ田の中で膝を屈伸させてから男に呼び掛けた。振り返った男がMを見つめて、一瞬口ごもってしまう。見上げる視線が感動で輝いていた。男の反応は、山地に住んでからの七年間で、何度もMが経験してきたものだ。身長百七十センチメートルのMのプロポーションは今も完璧だった。化粧をしない面差しも、自然の中ではことさら美しく引き立って見える。都会から来た男は、決まって同じような反応をするのだ。今朝の男も例外ではない。しかし、その仕草は初々しいくらい無防備だった。Mはたまらなくバリトンが聞きたくなる。
「さあ、何が聞きたいの」
促された男は右手の蔵屋敷に目をやってから、Mに視線を戻した。

「ピアニストの家を訪ねたいんですが、どの辺りでしょうか」
今度はMが目を見張って口ごもった。突然懐かしい名を告げたバリトンが、Mの耳の底で渦巻く。晩夏の光を浴びた風景が揺らめき立つように見えた。自然に視線が蔵屋敷の方を向く。
「やっぱりここなんですね」
念を押す男の声に黙ったままうなずく。
「僕もちょっと上がらせてください」
男の言う意味が分からず黙っているMの返事を待たずに、男は農道からワサビ田によじ上り、沢沿いの畦を足早に上って来た。仕方なくMもワサビ田の流水を長靴でかき分けて近寄っていく。男は一番上のワサビ田の端にたたずみ、取水口の先の水貯まりを見下ろしている。そこは流れてきた湧水を貯める、畳一畳ほどの広さの池になっている。深さは五十センチメートルほどしかないが、青く澄みきった水が底に敷き詰めた灰色の花崗岩の上を静かに流れ、狭まった取水口からワサビ田に流れ落ちている。

「ここで少女が死んでいたんですね。もうじき一年になる」
男の声が水貯まりに落ちた。悲しそうなバリトンだったが清冽な響きがした。Mは反射的に男の横顔を見た。口元を引き締めた厳しい表情をしている。確かに、一年前の夏の終わりに、この水貯まりの底に少女が沈んでいた。流れの下で揺らめいていた小さな死体が目に浮かぶようだ。第一発見者になったMには忘れようもない事実だった。

「あなたは誰なの」
問い返したMの声が微かに震えた。
「僕ですか。僕はピアニストと医大で同級生だった名淵と言います。もっとも、三浪して入った医大も二年で転んで、法科に転学してしまいました。ピアニストとは、たった二年の付き合いでしたが仲は良かったんです。僕を兄のように慕ってくれました」
目を瞬かせて聞き入るMにお構いなく、男は首から下げたライカで水貯まりや周囲の風景を何枚も撮った。挙げ句の果てにMの正面に立ち、じっと目をのぞき込んでから目を伏せた。

「あなたはMさんでしょう。獄中のピアニストから結婚を知らせる葉書をもらいましたよ。想像していたとおりの人で安心しました」
断定する口調で言葉を投げた。男は何度もMを驚かせる。名淵がもらったという葉書はMに届いた遺書と同様、自殺したピアニストの絶筆なのだ。ぜひ、内容が知りたいとMは念じた。
「その葉書には、何と書かれていたんですか」
「最高の人と結婚をした。その名はM。Mをよろしく頼みます」
そらんじたバリトンがMを悲しみの底に叩き伏せた。兄のように慕われたという名淵に出したピアニストの葉書は、余りにも悲惨だ。死を決したピアニストは、あろう事か残されるMを名淵に託したのだ。Mの喉元に嗚咽が込み上げてきた。かろうじて踏み留まり、じっと名淵の目を見つめた。名淵もMの視線を正面から受け止める。
「ピアニストの選んだ女性に間違いはないと思っていました。お会いしてみて僕の心証が証明できた。ピアニストは馬鹿な奴です。でも、結婚してくれて本当にありがとう。僕からもお礼を言います」
一息に言った名淵の目が潤んでいた。ピアニストの目に似て、まっすぐ前だけを見つめているような目だった。

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アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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