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2.ワサビ田(9)

「Mさん、清美さんがサポートしてくれるので僕も心強いですよ。お互いに頑張りましょう」
立ち上がった秋山が陳腐なことを言った。惚れた男の強みだか弱みだか知らないが、大概にしてくれとMは答えたかった。しかし、黙ったまま立ち上がり、二人の教師を玄関まで送った。全身に疲れが込み上げてきた。

進太のいない昼食は歯科医と向かい合って二人で食べた。カップラーメンが味気なく喉につかえる。もう三日間続いているメニューだった。歯科医は別に文句を言わない。進太は夏休み中、チハルの所に入り浸っている。クレー射撃とゲレンデヴァーゲンの運転に夢中なのだ。マニッシュで暴力志向の強いチハルは、ギャングエージの男の子にぴったりなのだろうと思う。猟銃の扱い方や四輪駆動車の運転、ナイフの使い方など、スリリングな遊びを金に飽かせて教えている様を想像すると、嫉妬心がうずく。ごく普通の家庭を演出しようとした七年間を思い浮かべると涙が出そうだ。山地で働く姿を進太に見せようと、ワサビの栽培まで始めたのだ。決して好きで始めたわけではない。

「ずいぶん疲れているように見えるよ。M、今夜は独りで市に出掛けるといい。たまには息抜きも必要だよ。夕飯は私と進太で何とかする。ぜひ行って来なさい」
食べるでもなく、ぼんやりとカップラーメンを見つめていたMに歯科医が声を掛けた。歯科医の観察はいつも鋭い。確かに神経がすり減ってしまったような気がする。ワサビ田の世話も辟易していた。勧められるまま、今夜は市へ出掛けようと思った。とたんにチーフがつくってくれるマティニの味が舌に甦る。カップラーメンは食べ切れそうになかった。


酔いの回り始めた視界で、銀色のシェーカーを振るチーフが揺れている。相変わらず髪をショートにしたスリムな体型に、白いシャツとパンツがよく似合う。
「チーフはいつまでも変わらないわね。スリムでしなやかな身体がまぶしく見える。うらやましいわ」
他に客のいないことを承知で、Mは酔った口調を装ってチーフに甘えた。チーフはカウンターの前のスツールに座ったMにグラスを出し、黙ったままドライ・マティニを注いだ。紺のワンピースで装ったMの目をのぞき込んでから、いたずらっぽく笑う。
「Mらしくないわね。たかが二杯のマティニで酔った振りはやめてよ。私まで悲しくなる。そんなに農作業が嫌なのなら、さっさとやめて市で勤めたらいいわ。みんなが喜ぶ、もちろん進太も歯医者さんもそうよ。ついでに言っておくと、私ももう四十五歳よ。お腹のたるみ具合は誰よりも自分がよく知っているわ。久しぶりにベッドを共にしてくれるなら、恥ずかしいけど見せて上げるわ。どう、素っ裸になって私を抱いてくれる」
チーフの挑発がMの耳に心地よい。だらしなく笑みがこぼれてしまう。

「チーフと寝たら、天田さんに殺されるわ」
「何言ってるのよ。Mとの愛人関係は亭主公認よ。遠慮は要らないわ。二階の会員制ルームも今日は空いている。ベッドメイクをしましょうか」
冗談とは思えない熱い視線でチーフが見つめた。このチーフの情熱がMは好きだ。二十年前と少しも変わらない。エネルギッシュな言動が華やかに店を支えている。市役所勤めの天田の固定給があったから、サロン・ペインを続けて来れたわけではないのだ。Mはチーフを抱き締めたくなったが、かろうじて踏みとどまる。視線を外してマティニを飲んだ。
「おいしいわ。できるなら男がいいわね」
Mのつぶやきを聞いたチーフが大声で笑う。
「今時いい男なんて一人もいないわよ。だからみんな苦労しているの。チハルだって男にしくじってアメリカから逃げ帰ってきたという噂だし、Mの好きな祐子だって、男不信症で悩んでいるんでしょう」
チーフの言葉はいつも笑える。中でも男不信症は傑作だった。あまりに当たり過ぎていて笑うことさえはばかられる。

「じゃあ、私は何の病かしら」
慌てて話題を自分に戻すと、チーフはにべもなく言い切る。
「Mは欲求不満の田舎病よ。まったく、軽四輪のトラックでサロン・ペインに乗り付けるMなんて想像もできなかったわ。悪いことは言わないから、もう一度オープンのスポーツカーにしなさいよ。お金に困っているわけじゃないんだから、分相応の暮らしをしないと進太がぐれてしまうよ」
「ぐれるくらいならいいんだけれど、不良になりきれない優等生はピアニスト一人でたくさんなのよ」
「あれ、今夜はますますMらしくないわね。長い付き合いだけど、Mの愚痴は初めて聞いた」
チーフが茶化すように応じた。本当のことだ。ピアニストの名前まで出すなんて、我ながらあきれ返ってしまう。急に悲しみが込み上げ、目元が潤んだ。

「私はチーフが思っているほど強くないわ。心も身体も鋼鉄でできているわけじゃない」
「そうね、自分に正直なのが何よりMである証拠よ」
チーフがしんみりした声で答えた。Mの悲しみが募る。
「ピアノが聴きたいわね。できればショパン、チーフが弾けるといいのにね」
目の前の大鏡に映った、ピアニスト愛用のピアノを見つめてMがつぶやいた。
「いいわ、聴かせて上げる。とっておきのショパンよ」
鼻を啜り上げながらチーフが言って、オーディオ装置のスイッチを入れた。途端に背後のスピーカーが大きな音で鳴り出す。スケルツォ第二番変ロ短調が耳に飛び込んできた。一瞬凍り付きそうになった気持ちがすぐに和む。粒立ちのよいピアノの音色が優しさを運んできた。荒々しくはないが、決して媚びることのない、あるがままの美しい調べがMの胸を包み込む。今、ピアノに癒されているとMは思った。ピアニスト以外が弾くショパンでこんな思いをしたのは初めてだった。
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アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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