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2.ワサビ田(1)

浅間山の北面の山陰にある湧水は、真夏でも手が切れるほど冷たい。その湧水からワサビ田に引き込んだ流水の中で、Mはもう一時間ほど作業を続けていた。長靴の厚いゴム底を通して足先に冷たさが染み込む。オフホワイトの長袖の作業服で覆った上半身は汗ばむくらいだが、オレンジ色のズボンを穿いた腰のあたりまで、冷たさが這い上がってくる。冷えを意識した途端に尿意が襲った。眉間を寄せて足元を見る。ワサビの鮮やかな緑の葉陰にのぞく澄明な水脈が、土で汚れた長靴を絶え間なく洗っていた。密生したワサビの枯れかかった葉を取り除く作業は、もう田を一枚残すだけだった。田といっても四畳半ほどの広さしかない。Mは靴下を穿かなかったことを悔やんだが、もう後の祭りだ。視線を巡らせて沢に渡した丸木橋の先の蔵屋敷を見つめた。尿意は我慢できそうにない。戻ってトイレを使ってから作業を続けるしかないと思った。決断した瞬間、カナカナゼミの声に混じってヴァイオリンの調べが聞こえてきた。畦道に置いたラジカセから響く曲は、バッハの無伴奏ソナタだった。Mの好きな曲だ。聞き逃したくはない。たった一枚の田を残して作業を中断するのもしゃくにさわる。反射的に辺りを見回す。背後は山が迫り、右手は沢だ。唯一開けている東側の正面は、三枚のワサビ田が段になって斜面を下っている。三メートルほどの勾配を下った先が農道だ。幅二メートルの未舗装の道が、急カーブを描いて浅間山に続く瘤山の間に消えている。人影はなかった。

Mは山側に向けて数歩を歩き、一段低くなった場所に進んだ。再び農道の方を見下ろしてからハンノキの林と向かい合う。腰に吊った黒いウエストバックを外して肩に掛け、素早く作業ズボンを膝まで降ろす。ショーツは穿いていない。濃い緑に染まる林とワサビ田をバックに、白い尻が剥き出しになった。冷たく湿った風が股間を渡り、漆黒の陰毛が揺れた。とても五十二歳とは思えない、きめ細かい肌だ。量感のある尻を突き出すようにして、ワサビ田にしゃがんだ。股間をワサビの葉がなぶる。尻の割れ目のすぐ下を水の流れる気配がした。妙にくすぐったい気分だ。ヴァイオリン・ソナタ第一番のパルテータを耳にしたとき、Mは放尿した。遠く聞こえるセミの声とヴァイオリンの調べ、水面で揺れるせせらぎと葉陰を渡る風音、交響する音の波を股間で上がる水音がかき乱す。思わずMの頬が赤く染まった。股間が熱くなり、長々と続く放尿に切なさが募った。

「バッハがお好きですか」
突然声が響いた。大きな声だが低い声だ。Mの背筋を衝撃が走り抜ける。視界が真っ白になり、続いて暗転した。言葉の意味を越えて、音質が全身を覆った。交響する音を乱すことなく発せられたソリストの声は、艶やかなバリトンだった。全身がかっと燃え上がり、素肌が赤くなった。まるで条件反射のように剥き出しの股間が戦く。性を意識した瞬間、尿も止まった。慌てて下げた尻を流水が洗っていったが、冷たさも気にならない。耳の底に残ったバリトンを夢中で反芻した。時間が消え失せ、突然二十五年前に逆戻りしたような、懐かしい官能が残った。この同じ山地の築三百年の屋敷で、同じ音質のバリトンを操る男が、二十七歳のMの肉体に残していった官能の炎。その炎がずっとMの生き方を律してきたのだ。だが、男がかき立てた炎はすべて、男の妄想から生まれ育ったに過ぎなかった。現在のMは五十二歳の女だ。もはや過去の妄想に捕らわれることはない。一切をこの目で見据えることができる。Mはしゃがんだままゆっくり向きを変え、なに食わぬ顔で声の主を見下ろす。農道からの視角では、Mの上半身しか見えないはずだった。

「お仕事中に、驚かせてすみません。こんな山の中でバッハが聞こえたので、うれしくなって声を掛けてしまいました」
Mを見上げた男が恐縮した声を出した。Mの表情がよっぽど険しく見えたようだ。良く澄んだ、耳に通る心地よいバリトンだった。首に下げた黒塗りのライカM6がMをぎょっとさせたが、もちろん男は二十五年前のカメラマンではない。ジーンズの上に紺のサマーブレザーを着ている。長身だががっしりした体つきで、端正な顔が幼く見えた。歳は四十代の中頃らしく、当時の築三百年の屋敷の男と大差なかった。だがMは、とうにその年齢を過ぎていた。先ほど感じた官能のときめきが愚かしくなる。つい、返事をしそびれてしまった。

「まだ怒ってるんですか。ごめんなさい。でも、美しい後ろ姿が本当にバッハに似合っていましたよ」
歯の浮くような台詞にMの口元が緩む。裸の尻を洗っていく水が急に冷たく感じられた。どう見ても滑稽な姿だ。
「振り向いたらお婆さんなので、がっかりしたってところかしら。私は怒っていないわ。でも、この道は行き止まりよ。丸木橋の先は私有地だから、Uターンしてお帰りなさい」
「いえ、お婆さんなんてとんでもない。十分お若くて美しいですよ。それに、ちょっと道を尋ねたいんです。お手間は取らせません」
笑顔を見て安心したように、男は世慣れた調子で話を続けた。いささか強引な性格をセクシーなバリトンがよく補っている。そのことを十分に知っているらしい自信が、妙にMの気を引いた。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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