2ntブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

6 祐子の見聞録(5)

「やあ、今晩は。また会いましたね。十年待たなくて済んでしまった」
背中から声を掛けられ、チーフの横に視線を移すと、鏡の中で笑っているピアニストと天田の姿があった。
「やあ、後輩。中等部の制服姿も素敵だけど、私服だとずいぶん色っぽいね。バイクが悶え苦しむ気持ちがよく分かるよ」
「その、制服姿が素敵なお嬢さんが、バイクのために素っ裸で縛られる決心をしたところよ。天田さん、早くバイクを連れて来て」
チーフが、根に持ったように祐子をいびった。
「チーフは、Mのことで祐子に焼き餅を焼いているだけよ」
ママの声が大きく響いた。両手で磨いていたクリスタルのグラスが、チーフの手から落ち、砕け散る音が後に続いた。
祐子は視線をずらしてチーフを見た。憎しみのこもった視線がじっと、祐子の瞳に注がれている。初めて見たと思う、嫉妬の視線だった。しかし、不思議に恐ろしさは感じなかった。祐子は股間に力を込め、激しい視線をそのまま跳ね返した。力無くチーフの視線が外れる。決して愉快ではなかった。心の隅に、澱のようなわだかまりだけが残った。

「ナースはいないの」
何気ない風にピアニストが聞いた。同様にママが答える。
「今日は休みを取って、鉱山の町に出掛けたの。もう帰った頃だと思うわ。向こうに子供がいるのよ」
「ふーん、ナースも苦労人だね」
「何言ってるのよ。ピアニスト以外はみんな苦労人よ」
一緒になって笑う声を耳に、祐子は鉱山の町が気に掛かった。
「子供の名を知ってますか」
「修太って言っていたわ。あんなに母性的なナースだから、子供を置いてきたことをひどく気に病んでいるのよ。祐子は、その子を知っているの」
祐子は答えなかった。離婚して都会に出たという修太の母が、この街に帰って来ていたのだ。間違いないはずだった。職業も、修太が自慢していたとおり、看護婦で一致していた。
急に喉元が苦しくなる。鉱山の町に一人残った修太はどうしているだろうと思った。
「修太はどうしているだろうね」と、二か月前に水道山でつぶやいたMの声が耳元を掠めた。

やるせないほどの懐かしさが喉元に込み上げて来る。
鏡に映った祐子が大きく首を振った。
バイクのために裸になり、後ろ手に縛られて股間を広げてもいいと、改めて思った。私は、成長したんだ。
ピアニストと天田が、カウンターのスツールに掛けた。
祐子を抜きにして、ひとしきり他愛のない話が続いた。
「せっかく後輩が協力してくれるんじゃあ、今日は無理にでもバイクを連れ出せば良かったな」
ウイスキーのグラスを右手に持って、天田が脈絡もなく言った。話はバイクの話題に戻ってきた。
「ねえ、後輩は知っているだろう。バイクは古い大きな家で、お婆さんと一緒に暮らしているんだ」
「知らなかったわ」
「へー、ほんと。後輩のマンションの直ぐ前、煉瓦蔵の路地を抜けたところだよ。まあ、普通、通ることもない路地だから知らなくても仕方がないか。知らない程度の付き合いだと思えば、俺も安心だしな」
確かに祐子は、バイクの家を知らなかった。いつもバイクは織姫通りに出ていたから、訪ねる必要を感じなかったのだ。

「ママ。そのお婆さんも最近見えないんだよ。ひょっとして病気で、入院でもしたのかな。バイクの世話はみんなお婆さんがしていたのだから、バイクも一緒に病院にいるのかもしれない。ナースみたいな優しい看護婦に、二人とも面倒を見てもらっているのだとしたら辻褄が合う」
「そんな旨いわけにはいかないわよ」
ママが冷たく答えた。
「そうだよな。でも、このところお婆さんの姿は見ないって、近所の人が言うんだ。少し心配だよな。なあ、ピアニスト」
酔いの回ってきた天田が、話を周り中に振る。呼び掛けられたピアニストの顔が曇った。
祐子は鏡の隅に映ったピアニストの、眉間に寄った暗い皺を見逃さなかった。嫌な胸騒ぎがした。

「ピアノを弾いてくるよ」
天田に答えず、誰にともなく言って、ピアニストは立ち上がった。
ピアノの前に座ると、「お婆さんは見えない」と言った天田の声が、耳に甦って来た。
突然襲い掛かったに違いない死の匂いが、ピアニストの鼻先を掠める。
自然に指先が動き、ショパンの「葬送」が殷々と響いた。到底耳に馴染まず、ワンフレーズでやめる。
変わって、明るいタッチで「エリーゼのために」を弾き始める。祐子のための調べだった。
いい潮だと思い、祐子も立ち上がった。
隣に座ったママに丁寧に礼を言って、頭を下げる。
「何だ後輩、もう帰るのか。俺が送っていこう」
天田が立ち上がると、ピアノの音が止んだ。
「よせよ。オートバイに乗せようというんだろう。五年前の悪夢が繰り返されるようだ。たいがいにしてくれ」
「弱虫。オートバイにも乗れないようじゃあバイクが泣くわ」
背中に投げ掛けられるチーフの声を後に、祐子を追ってピアニストが自動ドアの前まで回って来た。
祐子に近寄り、さり気なく耳元に口を寄せる。
「風呂場の横の潜り戸が開いたままなんだ」
はっきりした声で小さく囁き掛けた後、歩みを止めて背を正した。
祐子の前で自動ドアが開く。
「お休みなさい」
三人の声を背に「お休みなさい」と応えたまま、振り返らずに祐子は店の外に出た。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

最新記事
カレンダー
03 | 2011/04 | 05
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
free area
人気ブログランキングへ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR