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6 祐子の見聞録(6)

雨上がりの湿った熱い外気が、全身を包み込んだ。
服を通して直接肌に、ねばねばとした感触が張り付いてくるようだ。別れ際にピアニストが耳元で囁いた言葉が気に掛かる。祐子には何のことか分からなかった。今夜も歓楽街に人影はまばらだ。
あれこれと考えながら歩く内に、織姫通りに合流する信号が見えてきた。所々に水溜まりの残る歩道を、何も考えないようにして足早に歩く。
信号の二軒手前の四階建てのビルは、Mが勤める夕刊ポスト紙の社屋だった。
祐子の歩調が急に落ちた。
ママの話を聞いて、バイクが置かれた状況を、自分なりに理解したと思い、協力することさえ申し出たにも関わらず、Mのことを考えると、また気持ちが動揺する。
動揺した気持ちにつり込まれ、社屋の横に開いた、夜間受付の小さなドアをくぐってしまった。

小さな窓口から覗く初老の警備員にMの名を告げると、ちょうど残業をしていると言う。「他に誰もいないから、二階の編集局に行ってみれば」と言う好意を、断る理由はなかった。
警備員に会釈をして、暗い階段を上って行く。また妹に見られたのかしらと思うと、わけもなく口元に笑みが戻った。

雑然とした広いフロアに、所狭しと置かれた机の島が浮かぶ編集局の一番奥、通りに面したデスクに火が点っている。カタカタとパソコンのキーボードを叩く音が、静まり返った部屋に響く。恐る恐る近付いて行くが、Mは足音に気付いた風もなく、顔も上げずに指先を動かしている。仕事をしているときのMの集中力に、改めて感心してしまった。
椅子の後ろに立って、「今晩は、M」と呼び掛けるとやっと、パソコンのディスプレーから目を離して祐子の顔を見た。

「何だ、祐子じゃない。また夜遊びなの、いけない子ね」
いつもと違った、疲れた声を出して椅子を回した。
「迷惑だったかしら。ふらっと寄ってみたら、警備のおじさんが上にどうぞって言うから、上がって来ちゃったの」
「迷惑ではないのよ。ちょっとびっくりしただけ。後二行で記事が終わるから、隣の椅子に座って待っていて」
後二行という言葉で椅子に掛けた祐子は、たっぷり三十分は待たされた。原稿を書くときのMは、どうやら時間の感覚がなくなっているらしい。夕刊紙の締め切りは明日なのだから、とりあえず時間に追われることはないのだろうと、祐子は諦めて待った。

「お待たせ、祐子。終わったわ」
晴れやかなMの声がフロアに響き、大きく伸びをした椅子がキシッと鳴った。
「ヨーロッパに行ってたんだって。ひょっとしてベンツかポルシェを土産に持ってきてくれたの」
思わず祐子は声を出して笑ってしまった。
「ごめんなさい、そんなんじゃあないの。お土産も買ってない」
「いいわ。期待はしていなかったから。旅行の前の続きで来たのね」
いつもMの直感は鋭い。嘘はつけないと祐子は思う。
「そう、サロン・ペインからの帰りなの。このところバイクに会えないから、心配で行ってしまった」
「つまらないところに行ったね。下手をすると祐子も巻き込まれてしまうよ。あの人たちは、バイクを利用して勝手に楽しんでいるのだから。どんなことを言われても、本気にしては駄目」
Mの強い口調に、次の言葉が続かなくなってしまう。

「分かった」と念を押すMに促されて、祐子は細い首を左右に振った。金のネックチェーンがデスクスタンドの光に輝いた。
「素敵なネックレスね。向こうで買ってもらったの」
今度は首を縦に振った。
「よく似合うわ。もうすっかり大人の女に見える。身体は十分大人だものね。大人がすることを、してみたい気持ちも分かるわ。例えば性。バイクのことを巡る問題も、あの夜見たとおり、セックスが関係しているわ。この世界には、男と女しかいないのだから、性的な問題が世界の半分を占めることに不思議はないし、私も十分関心があるわ。でもそれは、皆個人的なことなの。今の祐子はまだ、個人的な性関係に入って行く準備ができていないのよ。ただ、身体の準備が終わったってこと。バイクの問題は、個人的であるはずの性を、あの人たちが寄ってたかって友情とか、怪しい治療行為とかの、仕組みの中に取り入れようとしていることよ。きっと多くの役者を募ることになるわ。祐子も誘われるかも知れない。しかし、仕組みの中で経験した性は、個人的な性とは異質のものなの」
「でも、私が体験したとすれば、それは私個人のものよ」
「その性を求める、個人的な用意ができていないと言っているの。遊びやゲームに参加するようにセックスに参加しても、自分を見失うだけで終わるわ。回復するにはとても長い時間が掛かる。いい、祐子。セックスは社会奉仕ではないわ。自分の責任と人格が、自分自身を高めたいがために官能の極みを追うのよ。安っぽい同情や自己満足で済ましてはいけない。焦っては駄目よ。もうすぐ祐子の心の中で、高く高く燃え上がろうとする情熱が、炎になる。待つしかないわ」

祐子の身体が狂おしく震えた。剃り上げた股間に熱いものが込み上げて来る。
「もう待ちきれないほど待ったわ。毎日高ぶりを感じている。何よりもバイクが私を求めている」
「冷静になりなさい祐子。あなたは、あなた自身がくだらないと思いきっている毎日の繰り返しに苛立っているだけよ。バイクもきっと、祐子と同じ。誰だって同じ毎日を耐えていることに気付かないだけなの。そんな日常感覚を解決できるものは、この世に存在しないわ。セックスだろうが死だろうが、決して救ってはくれない。これだけは確信して言える」
「でもまだ、私は確認していない」

張りつめていたMの肩が落ちた。祐子はもう、決めてしまったに違いない。
長い回り道をする苦しさも知らないのにと思うと、切なさで目頭が熱くなる。残酷だった。
「祐子。はっきり言っておくわ。私は自分の目で見てしまった以上、バイクを玩具にしようとするあの人たちを許さない。ただ一点、バイクが初めての経験に、今後の自分の生き方の判断を委ねるかも知れない、という期待だけで私は黙って見ていた。しかし、バイクが易々とあの人たちの言質に丸め込まれ、祐子まで誘い込まれるとしたら、私は決して許さない。なぜなら、判断力がまだ幼すぎる子供が、やくざに騙されるのと同じだからよ。プロにはプロの対応をするわ」

祐子は、Mが敵になるかも知れないと思った。全身が凍り付いたように寒く、奥の歯がガチガチ鳴るのが分かる。巨大なMの姿が、編集局全体にまで膨れ上がり、自分を押しつぶすかも知れなかった。恐怖心が下半身に集まり、僅かの小水が股間を伝った。

「送っていくわ、帰りましょう。明日は気分が変わるかも知れない」
Mがポツンと言ってスタンドの明かりを消した。
常夜灯の中を先に立って歩くMの姿が、ともすれば闇に紛れそうに見えた。祐子には、ヒリヒリとする股間の感触だけが確かなものに感じられた。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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