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2.事業団と医師(5)

エレベーターの扉が閉まると同時に、Mは肩の力を抜いた。思ったより落ちた肩を回して、五階のボタンを押す。
今さら光男にも、ピアニストにも会いたくなかった。一階まで直通で降り、都会まで舞い戻りたかったが、そうもいかない。チハルが約束した代車のMG・Fが来るまでに、まだ一時間以上ある。
瞬く間に高速エレベーターは五階に着いてしまった。

今までいた同じ病院とは思えない喧噪が、Mが降り立った五階のフロアーに満ちている。廊下の脇に雑然と置かれた点滴用スタンドなどの医療器具で、通路は狭まっている。病院案内のプレートを捜して歩くと、後ろから担送車に追い立てられた。仕方なく戻った一般用のエレベーターホールの壁に、やっと小さな案内図を見付けた。フロアーを囲む回廊の、ちょうど現在地と反対に当たるところが麻酔科の医局になっていることが知れた。
Mは重いバックを右肩に掛け直し、両手をコートのポケットに入れて回廊の端へ向かって歩き出した。通路の左右に続く開け放された病室のドア越しに、様々な様態の患者のベッドが見える。まるで病気の博覧会に行ったようで、背筋を冷たい風が掠める。健康なことを誇るより、恥じ入りたくなるような気分にすらなる。限られたスペースの中で、絶対的な病気の量がMを圧倒するのだ。思えばいつも、どこででも、Mは少数者だった。病院に紛れ込んだように、社会にも紛れ込んで暮らしてきたのかも知れないと思ってしまう。

「しかし、私は健康なんだ」
弱気を振り払うように心の中で宣言し、ポケットの中で両手を握りしめると、いくらか元気が出る。真っ直ぐ前を向いて大股で病棟を歩く。医師になったピアニストに会おうと思った。
廊下の突き当たりの壁に掲げられたプレートの指示に従って左に曲がると、また同じような病室が続いている。うんざりして長い道のりを歩ききり、また突き当たった左端の部屋が麻酔科の医局だった。

たいして広くないガラス張りの医局は、廊下から丸見えだった。開け放たれたドアの前に大きなテーブルがあり、その奥に事務机が五つずつ相向かいに並べられている。入口寄りの机に一人、看護婦が下を向いてノートに鉛筆を走らせている。他に誰もいない。
期待していたピアニストも、光男の姿もない。

「ピアニストはいませんか」
無造作に医局に入り、看護婦の横顔をのぞき込んで声を掛けた。
驚いて顔を上げた看護婦の視線が、さっとMの全身に流れた。場違いな黒のコートを着た長い髪の女を認め、看護婦の表情が困惑する。何の目的で医師を訪ねて来た客か、見当もつかない様子だ。しかし、観察結果を生かして詮索しようという関心もないように、事務的な声を出す。

「先生は手術中です」
「ここは外科なの」
「手術に麻酔は欠かせません」
素人の間の抜けた問いに対して、まっとうな答えが返ってきた。
「そう。生身の身体を切り刻むわけにはいかないわね。ところで、一時間ほど前に少年が訪ねて来なかったかしら」
「私は病室を回っていたから知りません」
皮肉な言い回しに動じる風もなく、若い看護婦はMの目を見つめて答えた。役に立てないことに、すまなさを感じているようにも見える。
幼さの残る白衣の看護婦に、チハルの姿をだぶらせてしまったことをMは恥じた。いつものペースにまだ戻れない。苛立ちが募る。

「待たせてもらっていいかしら」
誠意のこもった口調に変えて話し掛けた。
「みんな出払っていますから、テーブルの椅子に掛けてください」
「ありがとう」
Mはやっと正常な感覚が戻って来たと思い、脱いだコートとショルダーバックを大きなテーブルの上に置いた。ついでにグレーのスーツの上着も脱いだ。赤と黒のタッターソールのシャツ一枚になった上半身が、やっと軽々と感じられた。ゆったりとしたシャツの下で、下着を着けない乳房が開放感に揺れる。若い看護婦のまぶしい視線を意識して、首に巻いた赤いスカーフを緩めた。左の手首でティファニーのリストウォッチが光る。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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