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- 2011/05/15/Sun 15:00
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- 第5章 -野望-
「お陰で、やっとリラックスできたわ」
看護婦に礼を言うと「お疲れさまでした」と呼び掛けられた。しかし、視線はMを通り越している。
反射的に振り返ると、Tシャツの上に白衣を羽織ったピアニストが硬い表情で医局に入って来た。
「やあ、M。久しぶり。ずいぶんくつろいだ様子だね」
「おはよう、ピアニスト。あなたの格好には及ばないけれどね。手術は成功したの」
「朝の緊急手術は難しいんだ。患者は死んだよ」
あっさりしたピアニストの口調に、病院の日常が滲み出ている。Mの住む世界とはまったく別な世界が、病院という建物の中に広がっているのだ。
「そう。ストレスが溜まるわね」
「溢れ出しそうなほどだよ」
Mの付け入る余地を無くすように、ピアニストが即座に答えた。
「でも、どこから見ても、もう立派なお医者に見える。素敵よ」
「ありがとう。帰ってくる早々、光男を保護したんだってね」
ピアニストから本題に入ってきた。時間を無駄にしたくないのだろうとMは思う。
「ええ公園でね。手術の前に光男と会ったの」
「会ったよ」
「それで、光男はどうしたの。もう帰ってしまったの」
「いや、薬を飲んで眠っているよ。そこのカーテンの陰の簡易ベッドだ。きっと夕べは眠っていないな」
テーブルの前で立ち話をしている二人の横に、席を立って医薬品を整えていた看護婦が並んだ。手に様々な薬の入った箱を持っている。
「病室を回ってきます」
声を掛けて出て行く看護婦の背に「ご苦労さん」と呼び掛けてから、ピアニストはテーブルの椅子を引いた。医局には、簡易ベッドで寝入っているという光男の他は、二人だけになった。
「M、椅子に掛けてよ。コーヒーでも入れる」
「いいわ、忙しいんでしょう」
「いつだって忙しい。空いた時間は自分で作るしかないんだ」
素っ気なく言ったピアニストが戸棚の陰に消え、紙コップを両手に持って戻って来る。素早くMが引いた椅子に静かに座った。
「いつでもコーヒーは用意してあるんだ。カップに注ぐだけさ」
差し出された温いコーヒーをMは口に運んだ。消毒薬のにおいが満ちた医局の中に、ほっとする香りが流れる。
「光男はシンナー中毒なんでしょう。どうして麻酔科医のピアニストが診るの」
Mの直截な問いに、よどみなくピアニストが答える。
「しばらくピアノを教えてやったことがあるんだ。光男の家は山地にある。僕の家の近所なんだ。個人的な関係から診ているだけさ。放ってはおけない」
「ふーん。光男の家は山地なのか。でも、個人的な関係といっても、精神科医を紹介することはできるんでしょう」
「光男が嫌がっている」
「それでいいの。ピアニストは医者でしょう」
「心まで癒せる医者はいないさ」
投げやりなピアニストの言葉が、忘れていた疲労を思い出させる。
三年前のピアニストは、心の痛みだけでなく、現実の痛みさえ、性的な癒しと交換できると信じたのだ。そのための仕組みをサロン・ペインの二階につくり、Mと対立したのだった。Mの全身を、また深い疲労感が被う。この街は狂っているとさえ思いたくなる。
「どんな薬を光男に飲ませたの」
「抗不安薬と睡眠剤」
「それでいいの」
「いいと思っている。僕は医者になり立てだけど、医者には二つの型があると思っているんだ。一つはデーターとマニュアルだけを信じ、着実に職務を遂行するタイプ。病院の医者は大部分がこのタイプだと思う。そうでないと医療過誤の心配があるからね。もう一つは、自分の積んできた経験を上手に反映させていくタイプ。当然のことと思うだろうけど、意識して自分の経験に信を置くということなんだ。僕は経験が浅いけど、これまでの生活体験にまで遡って信を置き、医療行為をしようと思っている。この考えは、Mに教えられたことだ」
Mは頬が熱くなるのを感じた。ピアニストはどこかでボタンを掛け違えているのだと思う。Mは自分の体験を信じたことなど無い。あるがままの事実から、進むべき道を選び取ってきただけだった。その根底に自分の責任と人格があったとしても、決して信などという驕りは持たなかったつもりだ。
「ピアニストの驕りよ」
Mは、はっきり言いきった。
「そんなことはないさ。少なくともピアノを弾いているとき以外は、僕は謙虚なものさ」
全身を襲う疲労感で、Mの身体は今にも揺らぎだしそうだ。救いを求めた光男の表情が目の前に浮かび上がってくる。悲しかった。