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7.結婚(4)

暗い気持ちで迎えた連休初日の五月三日の午後、Mに宛てて速達が届いた。茶色の封筒の裏には氏の変わったピアニストの署名があった。Mの心が高ぶる。部屋の中央に座って封を開いた。


前略
M、手紙と新しい戸籍謄本を送ってくれて、ありがとう。
Mと僕の、二人だけの戸籍は新鮮な感動を与えてくれた。気持ちの高ぶりが今も消えない。やっと思いを遂げられたうれしさで全身が震えている。
今すぐにでもMに会いたい。連休中に僕を訪ねるという手紙の言葉に胸がときめく。だが、僕のために、連休中の面会は取りやめて欲しい。
恥ずかしい話だが、喜びのあまり、まだ冷静になれないでいるのだ。
またしても取り乱した姿を見せてしまいそうで怖い。連休明けの最初の日曜日に僕はMを待っている。ゆっくり仕事の疲れを癒して欲しい。
三日前、読書班の囚人が僕の独房にも本を届けてくれた。
荒川洋治詩集「水駅」に僕は感動した。僕がピアノで表現したかった音のすべてが彼の詩の中にあると思った。つい、慣れぬ手つきで、勝手に荒川洋治の詩を借りて、Mのために文字を綴った。ぜひ、読んで欲しい。

「音の駅」

Mはしきりに曲の名を訊いた。柔らかな肌を重ねて私たちは眠る。

音は流れる、静寂を敷き詰めた枯れ野をひとときの風となって。これっきりの耳の数で、風の調べを聞き分けるのはつらい。

ときにピアノの音色を追い、声楽の沈黙を撃つ、流れきたる音の彼方に。だが、調べに拒絶された音のかけらは、静けさの果てで飛び交うこともなく、聾者の耳に囁きかけることもないと。

Mには告げて。過誤の世界を、過ぎ去った夢を。無償の音色に揺れた山地はすでに無く、沈黙の素肌の下にあるのは白々とはぜる炎の音だと。

妄執、この激しい音に惹かれて、道はふたつに別れた。沈黙と喧噪、両極に引き裂かれた地平を吹き抜け、歌い続け、私たちはどこまでも進軍する。懐かしい陰部を求めて、十五年間の官能を貫く。

五月五日、私はこの静寂の地平を旅発つ。その朝も私は、きっと演奏者ではない。肉と肉を繋ぎ合わす魔法も知らず、沈黙したピアノの音色だけを求め続けたという。その音色は、死に絶えた者を悼む挽歌ではなく、生き延びる者がすべてと言って笑い、笑い疲れて眠る、幼子のための子守歌でもない。負け続けた静寂の果てに突き刺す、歓喜のシンフォニーでもなかった。永遠の極みで純質な骨となって鳴り響くという、ただひたすらに寄り添い、慕い合う者への、かなわぬまでの告別であったと。

官能の極みを求める、妻には告げて。



Mはピアニストからの手紙を何回も読み返した。短い手紙だったが難しい内容だった。最後の詩などはまったく理解できない。ただ、連休中は仕事で疲れた身体を休めるようにという優しい配慮だけは痛いほど心に染みた。無理をして電車賃を捻出しなくても済むこともうれしかった。たとえ離れていてもピアニストと気持ちが通いあったと独りで決めて、小さな声で啜り泣いた。
夜遅くなってから、Mは素っ裸のまま井戸端に下りていった。連休中は婆さんたちは風呂をたてない。火照った身体を冷水で拭ってからでないと眠れない気がした。春の夜風を受けて冷水に浸したタオルで裸身を拭った。気持ちがすっきりして爽快になる。人気のない夜とはいっても、人妻が素っ裸で外にいるのは結構スリリングで粋なもんだと勝手に思い、にんまりと笑ってしまった。いつになく浮き立った気分で、濡れ手拭いを肩に掛けて玄関に上がった。大階段に足をかけると凄い勢いで金貸しの先生の部屋のドアが開いた。

「しつこい、二人とも早く帰れ。何回来ようが大屋さんとお菊さんに貸す金はないよ」
先生の怒声が階段の下まで落ちてきた。
「そこを何とか頼みますよ。出世払いと言うじゃないですか」
大屋の縋り付く声が弱々しく響いた。
「だめだ、何と言ってもだめだ。返済できない金を貸す金貸しはいないよ。僕は社会事業をしてるんじゃないんだ。息子の学費や孫の留学に貸した金が返る道理がない。ねえ、大屋さんもお菊さんもよく聞きなさい。話は簡単だよ。金がないなら大学を辞めて働けばいいんだ。高校が気に入らないのなら丁稚奉公でもすればいい。大学も留学も金の余ったお人のいく所だ。分を知らない人に金は貸せない。出世払いとはよく言ってくれたものだ。出世払いは親の信用じゃないよ。子供の信用に貸すんだ。見ず知らずの子供に金は貸せない。さあ、さっさと帰っておくれ」
先生の説教が終わると、大きな音を立ててドアが閉められた。しばらくたたずんでいたらしい大屋さんとお菊さんが悄然として大階段を下りてきた。階段の下で、隅に寄って道を空けたMには気付かない様子だ。無言のまま下を向いて、二人並んで外に出ていく。お陰でMは素っ裸で挨拶を交わさずに済んだ。大屋さんとお菊さんの苦悩はまだまだ続くようだった。
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アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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