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9.事情聴取(2)

「Mさん。一晩中折檻されていたようだね。お疲れの所申し訳ないが、署まで同行してくれないか。仏を拝んだ後で食事ができるようなら、それほど負担ではあるまい。一か月前までは刑務所にいたそうじゃないか」
中年の捜査員が妙に馴れ馴れしい声で言って、Mの前に立った。五人の箸の動きが一斉に止まる。お菊さんの目が鋭く光った。
「刑務所が何だって言うんだ。わしだって明日にでも仏になる歳だ。仏が怖くて歳が取れるか。自分の金で飯を食ってどこが悪い。説明してもらおう」
お菊さんの剣幕に押し返された中年の捜査員に代わり、初老の男が答える。
「何でもないですよ。つまらないことを言って済まなかった。よかったらMさんだけでも署に来てくれるとありがたいんだ。頼みますよ」
打って代わったネコナデ声でMに強要した。
「警察に協力するのは市民の義務ですもの、拒否する理由はないわ。でも着替えるまで待って欲しい」
当然のように答え、Mはバスタオルの下に入れた十万円を押さえて立ち上がった。泣く子と警察を思い通りにする方法はまだ見付かっていなかった。

Mは午後七時になっても警察署にいた。十時間以上も署の四階にある狭い取調室の椅子に座っている。この間、先生の部屋に行ってから制服警官に救出されるまでのことを根ほり葉ほり訊かれた。捜査員はMを容疑者と疑っている素振りも見せていたが、じきに鑑識捜査の結果が複数による犯行を証明したらしかった。この三時間は殺人の状況を見たか、聞いたかの二点に質問が絞られている。しかしMは、苦しい折檻に耐えかねて失神していたと言い張ったままだ。殺人の様子は何も見ず、何も聞かなかったと答え続けている。今は捜査員との根比べになっていた。時間ばかりが過ぎ去っていく。暮れていく五月五日を恨めしく見つめた。警察への協力はこのくらいで十分だと思った。幸い、手元には身体を売って稼いだ十万円がある。明日は会社に無理を言っても仕事を休み、ピアニストに会いに行こうと決心する。

「今日の協力はここまでにさせてください。私はもうくたくたです。帰らしてもらうわ」
大きな声で、はっきりと捜査員に告げた。二人の捜査員が困惑した表情を浮かべて腕の時計を見た。
「まだ署の玄関先に記者たちが陣取っているよ。もっと遅くなってからの方がわずらわされなくていい。家まで送っていきますよ」
初老の捜査員が何気ない声で言ったが、重ねての協力要請はなかった。被害者のMをまるで容疑者のように警察は長時間に渡って拘束したのだ。これ以上の事情聴取は無理と、捜査員が判断したに違いなかった。
「帰ります」
静かな声で言ってMは立ち上がった。つられて捜査員も立ち上がるが、どことなく表情が落ち着かない。

「裏口から出てくれないか」
中年の捜査員が横柄に言った。
「いいえ、私は容疑者ではなく被害者よ。堂々と玄関から帰ります」
胸を張って答えると、慌ただしく初老の捜査員が取調室から走り出ていった。
「課長、すぐ玄関に下りて、被害者の協力に感謝する談話を報道に流してください。被害者を容疑者扱いしたと話される恐れがあります」
隣の部屋から初老の捜査員の大声が響き、エレベーターに急ぐ捜査課長の後ろ姿が見えた。Mは二人の捜査員に挟まれて殊更ゆっくり階段を下りた。警察の玄関から闇の中に歩き出すと、無数の白い閃光が目を打った。カメラマンのストロボが一段落すると記者たちが取り囲む。てんでに勝手な質問を投げ掛けるがMは歩みを止めない。五メートルも歩くと、ついてくる記者も疎らになった。捜査課長の発表が功を奏したらしい。しつこく追ってきた若い記者が横に並んだ。

「Mさん、素っ裸で縛られていたそうですね。どうしてですか」
記者の口元に好色そうな笑みが浮かんでいる。
「縛られるのが好きだからよ」
素っ気なく答えて足を早めた。背後で息を呑む音が聞こえ、記者の足が止まった。M一人が闇の中を歩いていく。
織姫通りまで歩くのに二十分かかった。全身が疲れ切って通りにしゃがみ込んでしまいたくなるが、神経だけは研ぎ澄まされて鋭敏になっている。目に映る通りの裏側まで見通せるような気がした。通りの向かい側に、店のシャッターを下ろそうとしているトラッドショップの店員が見えた。磁場に引き寄せられる鉄片のように、危うい歩調で通りを横切る。行き交う車のクラクションが響き渡った。店の前でブラックジーンズの尻ポケットから十万円を出して半分閉まったシャッターをくぐった。レジの前でレシートの控えに目を通していた店主の前に八万円を差し出す。店主は深々と頭を下げ、ガラスのショーケースから赤い宝石箱を出した。指輪をつまみ、左手の薬指にプラチナのリングをはめた。四月二十八日の結婚の日に感じた高ぶりも誇りも湧いてこない。熱い湯気のような焦りが足元から上がってきただけだった。お包みしましょうと言う店主に首を振って、小さな方の指輪が入った箱を持って外に向かった。店先に立った店員が最敬礼でMを見送っていた。

富士見荘は何事もなかったように、闇の中に木造三階建ての姿を溶け込ませていた。玄関の前までいくと、待ち構えていたようにお菊さんが出てきた。お菊さんはMの尻に手を回して軽く叩いた。Mは黙ったまま、闇の中でも分かるように大きくうなずく。
「M、お疲れであった。恩に着るぞ。先生の遺体は都会に引き取られた。引き取った息子は医大の教授だそうだ」
掠れたお菊さんの声を背中で聞きながら、大階段を上って部屋に帰った。三十ワットの蛍光灯をつけて部屋の中央に布団を広げた。ブラックジーンズと黒いサマーセーターを脱いで、素っ裸になって布団に寝そべる。大きく手足を伸ばすと、やっと疲れ切った身体が落ち着く。だが、神経はとげとげとこすれ、頭が痛む。素肌の上に寒々とした時が積もっていった。冴え渡った耳に、遠くからやってくるエンジン音が聞こえた。玄関のガラス戸が開けられ、中に呼び掛ける男の声が聞こえる。大階段を下り、再び上がってくる足音が富士見荘全体に響き渡った。寝そべった裸身を恐怖が駆け抜ける。反射的に時計を見た。午後十一時を回っていた。お菊さんの呼び声がしてドアがノックされた。

「電報が来たぞ」
掠れ声にMの全身が鳥肌立つ。反射的に飛び起き、すぐドアを開けた。目の前で揺れる白い紙片をつかみ取って震える指先で開いた。


ピアニストキトクスグコラレタシケイムショチョウ


カタカナの字面に張り付いた目から瞳が落ちそうになり、喉から胃が飛び出しそうになった。短い電文だけが方形の部屋を舞う。Mは耳まで裂けよと口を開き、声にならぬ悲鳴で部屋を満たした。お菊さんをはね除け、外へ走り出す。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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