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8.試練(1)

五月四日の休日をMは昼近くまで寝て過ごした。この一週間の疲れがピアニストからの手紙で吹き払われて、久しぶりに安らかな気持ちで眠れたのだ。頭は幾分重かったが身体は見違えるように軽い。次の日曜日までには金の工面も何とかなるような気がした。決められたスケジュールどおりに起きて、洗面し、朝食を取った。昨日までの焦燥に駆られた暮らしが嘘のように思えてしまう。連休中は婆さんたちは食事を作らない。年に三回、正月と五月の連休とお盆が婆さんたち休暇だった。もちろん内職も休みだ。金策に駆け回っているお菊さんを除いた三人は、連日市の老人福祉センターに出掛けている。大きな風呂に入り、カラオケを歌い、ダンスをし、それぞれが持ち寄った御馳走を分け合って食べるのだという。何も持っていかなくても、褒めてやりさえすれば食べきれないほど、ご相伴に預かれるのだそうだ。三人の婆さんは温泉旅行のようだと言って喜んでいるが、Mは老人福祉センターに行くわけにはいかない。三日間の食事を自分で賄わねばならなかった。嫌でも出費がかさんだ。

Mは腰高の窓を大きく開き、たまに高架を通り過ぎる電車を見て漠然と時間をつぶした。無為の時間のありがたさが素肌の上をゆっくり流れていく。五百円の予算でコンビニエンス・ストアで買ってきた幕の内弁当とウーロン茶で一日分の食事をとる。婆さんたちの作る質素で量の少ない食事に慣れたため、たとえ一食きりの幕の内弁当でもヴォリュームがあった。ことさらゆっくり食べ、唯一の情報機器の携帯ラジオのスイッチを入れた。Mのような屋外労働者にとって、ラジオは天気予報と時報を聞くための必需品だった。地元のFM局が流すピアノの音色がちっぽけなスピーカーから聞こえてきた。ドビュッシーの流麗な調べが部屋を満たす。ピアニストの才能を惜しんだ歯科医の言葉が耳に甦った。確かに今からでは遅すぎるのだ。何もかもが遅いと思った。Mの涙腺がまた緩み始める。たまらなくショパンが聞きたくなった。ハッとしてラジオを消した。ピアニストの弾くショパンが勝手に耳の底を駆け巡る。悲しいまでに透き通った音色だった。夕日の射し込む部屋で、身体の中で鳴り響くピアノは明確な声をMに伝えた。

静けさの戻った部屋で、Mは文箱を開けてピアニストの手紙を開いた。獄中で綴られた文字を急いで読み返す。だが、ぜひ読んで欲しいという詩は難解だった。何度読み直してもよく分からない。Mは繰り返し、繰り返し詩を読んだ。やがて声に出してつぶやく詩文の向こうから音楽が聞こえてきた。ピアノの音色だった。その清明なピアノの調べは、まがうことなくショパンの「別れの曲」だ。詩文の中の告別の文字だけが大きく目の前に拡がる。手から手紙が落ちた。耳の底で「別れの曲」がむせび泣いている。すっかり日の落ちた暗い部屋で、目に焼き付いた告別の文字と、耳に張り付いたピアノの音色が疾走する。全身が寒い。
開け放した窓から入る冷たい夜風を受けて、Mは敷きっぱなしの布団の上で正座している。不吉な予感が裸身を包み込んでいるが、金縛りにあったように身体が動かない。冷たくなった肌の感触が他人事のように寒さを訴えてくる。不思議だった。よろよろと立ち上がって窓を閉めようとした。目の前の高架を轟音を上げて電車が通り過ぎる。架線がスパークして、白い火花が黒い夜空に飛び散った。瞬く間に光の帯となった電車が目の前を走り抜けた。日本海沿いの刑務所のある駅まで鉄路は続いているのだ。行かなくては、とMはつぶやく。行かなくては、とMが叫ぶ。五月五日と日付の打たれた告別の言葉と「別れの曲」の調べに、Mはピアニストに会って応えなければならない。素肌に鳥肌が立って全神経が緊張した。たとえ不吉な予感が杞憂に過ぎなくても、連休中に行かなくてはならないと決心した。だが、金がなかった。今日までクリアできなかった問題がまた頭をもたげた。大屋もお菊さんも貸した金を返すはずがなかった。

「私も借りればいい」
大きな声で言って壁に掛けた鏡を見た。鏡に映った黒い顔はいつになく生気に溢れている。結果を考える功利を捨て去ったいつものMの顔だ。まなじりを決した目には涙の予兆もなかった。

「ようし」
もう一度大きな声を出してうなずいてから勢いよくドアを開けた。暗い廊下を素っ裸のまま大股で歩く。空き室を過ぎ、大階段の踊り場を過ぎて金貸しの先生のドアの前に立った。夜風に吹かれて冷たく冷え切った肌が、身体の芯から込み上げる熱で燃え上がってくる。もはや世界にはMとピアニストしかいなかった。厚い木のドアに備え付けられたインターホンのボタンを、Mは確かな指先で押した。
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Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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