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3.商談(3)

「極月の課長昇進を祝ってディナーをおごりたいわね。今夜の予定はあるの」
真っ直ぐ前を向いた極月の横顔にMが呼び掛けた。途端に極月の頬が赤く染まる。
「やはり、移籍の件で腹を立てたのね。Mは気短になったわ。歳のせいとは言わないけれど、良くない傾向よ。中小企業の名刺の肩書きなんか、全員が課長か部長だわ。水瀬産業に派遣されて持たされた名刺があれなの。ちょっとMをおどろかせてみたかっただけよ。やきが回ったんじゃないの」
気短なのは極月のほうだとMは思う。有能なビジネスマンとして評価されるようになっても、Mの前では悪振りたいのだ。昇進して移籍することを指摘されて照れているだけだった。即座に筋書きを作ってしまう頭の回転の良さには舌を巻いてしまう。しかし、水瀬産業では派遣社員に名刺を持たせた前例はない。Mはことさら冷たい声で尋ね返した。
「そう、一緒に食事をしたくないのね」
「私はそんなことは言ってないわ。でも、ディナーをおごられるのはいや。Mの部屋で手作りの料理をごちそうになる」
ことさらに首を曲げてMを見た極月の口が、意地悪そうに笑っていた。Mは心底怒りたくなる。
「極月の嫌味は年期ものだわ。私がレトルトパックの料理しかできないことを、とうに知っているでしょうに。当てつけとしか思えない」
「ハハハハ、またすぐ怒る。まだ宵の口にもなってないわ。料理は私が作る。Mは私の料理でもレトルトパックでも、お好きな方を選べばいい。とにかく、レストランでなくMの部屋で食べましょうよ」
極月の笑い声が響き、前の車が発進した。いつもの生意気な物言いに閉口しながらも、アクセルを踏み込むMの気持ちは爽快だった。

最高のローストビーフを作るという極月に付き合い、Mは肉屋とスーパーと酒屋に寄り道した。MG・Fの狭いトランクに、大きな牛肉のブロックと様々な香味野菜の入った袋と、ブルゴーニュのルージュと冷凍のフライドポテトを入れた袋が仲良く並んだ。Mは自分の食生活の貧しさを思い知らされるようで情けなかった。でも、誰が作るにせよ本格的なローストビーフは大歓迎だ。メインデッシュの横に添えるフライドポテトを、できるだけ慎重に揚げようと思った。足取りも軽くアパートの階段を上がり、Mと極月はキッチンのテーブルに向かい合って座った。Mの肩越しに流しを見た極月の眉が上がる。

「いくら忙しくても、食事の後片付けは出掛ける前にしておいたほうがいいわ。帰って来てからしようとしても、うんざりしてしまって、次の料理がしたくなくなるでしょう。この悪循環は、必ず繰り返すわ」
Mは返す言葉もなくうつむいてしまった。すべてもっともな話で、いつも悔恨にとらわれてしまう事実だった。よりによって進太と食べ散らかしたスパゲッティの残骸を極月に発見されるとは思いも寄らなかった。日頃の悪しき習慣を呪うしかない。上目遣いに見た時計は五時十分前を指している。睦月と約束の時刻まで十分しかない。知っていて極月を食事に誘ったことを恥じた。しかし、睦月との過酷な時間に耐えるには、楽しい食事が待っているに越したことはなかった。Mは小さな声で極月に約束を告げた。

「最大限に反省するわ。このとおり顔も上げられない。ついでに、もう一つ謝らなきゃならない。私はこれから睦月と約束があるの。一時間ほどで戻るけど、流しの後片付けも料理の手伝いもできないわ。ローストビーフはどのくらいでできるの。食事だけは、ぜひ一緒にしたい」
Mの言葉で極月の頬がぷっと膨れた。突き出した口から機関銃のように言葉が打ち出される。
「食事を誘ったのはMよ。おしゃべりしながら一緒に料理を作るのも食事のうちでしょう。だから私は手作り料理がいいと言ったのよ。おしゃべりなしで、私が一人で料理をすれば、確かに効率がいいから一時間ほどで出来上がるわ。でも味気ないでしょう。私はコックじゃないわ。何が睦月と約束よ。子供を虐待するのが趣味の女と会う必要がどこにあるの」
下を向いたMの頭上を非難の声が駆け抜けていく。余りにも正当な非難に、Mは顔を上げることができない。すべての感情を声にこめて極月に投げ掛けるしかなかった。

「極月、私も行きたくない。でも、今は進太のために行かなくてはならないの。睦月の虐待を止めに行くのよ。お願い、私のために最高のローストビーフを作って待っていて。あなたと一緒に夕食を食べる楽しみが、きっと嫌な時間を耐えさせてくれる。ねえ、たった一時間よ。六時までには必ず戻る」
言い終わって恐る恐る顔を上げ、極月の顔を見た。目が合うとまた極月が意地悪そうに笑った。並びのよい白い歯が蛍光灯の光を美しく反射した。今日、何回笑われたか数え切れないくらいだった。白い歯が消え、代わりにしっかりした言葉が落ちてきた。

「端的に言うと、睦月には子供を育てる資格がない。ほかにすがるもののない女が一人、子供にすがりついて猫かわいがりしている。もう一人の女は、大きく開けていくかも知れない将来に対する野心を抱え、足手まといになった子供を憎み続けている。つまり睦月の人格は二つに分裂している。病気なのよ。病人に育児は任せられないわ。鉱山の町に住む修太の両親が子供を引き取るべきよ。Mがやりにくければ私が連絡してもいい。Mは決断すべきよ。そのきっかけになるのなら、私は一人で料理を作ってMを待つ。まず、睦月と会わなければならない理由を聞かせて欲しい」
極月の言うことはすべて、真実の一面を言い当てていた。Mは折檻の身代わりになるという一点をのぞいて、今朝からの出来事のすべてを極月に話した。
「いいわ。行ってらっしゃい。帰って来たら、進太のために最上の道を考えましょう。とびっきりのローストビーフを作っておくわ」
極月の了承する言葉を聞いて、Mは椅子から立ち上がった。見上げた時計の針はまさに五時丁度を指していた。間違いなくまた遅刻だった。
「待つ時間は、きっちり一時間よ」
極月の告げる制限時間を背中で聞きながら、Mはドアを開けて外に飛び出して行った。
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アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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