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7.鋸屋根工場に語る(4)

「もう大丈夫だ」
よろめく足で車椅子から立ち上がった理事長が、肩を支えようとしたピアニストの手を邪険に払った。
「ピアニスト、薬の加減は慎重にしてくれ。お陰でとんだ失態を演じてしまった。Mにも迷惑を掛けた。済まない」
理事長の声は鋸屋根に反響して大きく聞こえた。
叱責されたピアニストの顔が赤く染まる。始めて見るピアニストの表情に、車椅子を取り囲んでいた全員が身を固くする。一人Mだけが、入り口のドアを背にして口元をほころばせた。理事長の謝意に軽く頭を下げる。

「理事長。今夜は私に時間をくださったはずよ。理事長の発作で中断してしまったけれど、まだその時間が続いていると理解していいのかしら」
落ち着いたMの声が広い空間にこだました。Mの位置からは小さく見える人間たちが、一様に唖然とした顔でMを見返す。
「M、何を言うんだ。理事長の様態を忘れたのか。安静が必要なんだ」
たまりかねたピアニストの声が、苛立ちに震えた。
「そうかしら。ピアニストが薬のさじ加減を間違えただけで、もう理事長は二時間前と変わらないんじゃないの」
ピアニストの冷静な顔が怒りで蒼白になった。均整のとれた身体が白衣の下で小刻みに震える。

「Mさん、やはりお引き取りください。理事長の医療スタッフと言い争いをされては困ります」
Mの前に立ったチハルが、怒りを押し殺して慇懃に言った。
「まあ、待ちなさい。チハルの言葉は秘書としてもっともだが、Mの言うことにも一理ある。まず私に着替えさせてくれ」
決断を後回しにした理事長がキッチンに通じる壁の隣に立った。すっと壁面が開き、クロゼットを巡らした八畳ほどの私室が現れる。素早くチハルが理事長の後に続く。
音もなく壁面が閉じると、三角形の天井を持った広大な空間に四人が取り残された。ピアニストはチハルが運んでおいた医療用のコンテナを開け、機材を出して点検を始めた。修太が側に寄り添って手助けをする。

Mは手近にある布張りの椅子に座り、珍しそうに鋸屋根の天井を見上げた。長さ二十メートル、幅二メートルの長大な天窓の、ライトの反射を免れた部分にぼんやりした星空が見える。ドーム館から見慣れた円形の夜空と異なった、長大なパノラマを見てみたいと思う。しかし、明かりを消せば、きっとまたピアニストが怒り狂うに違いなかった。てきぱきと働くピアニストに目をやったMの口元に、また笑みが浮かぶ。

「M、来てくれてほっとしたわ」
後ろから呼び掛けられて振り返ると、斜め後ろの椅子に座った祐子の頼りない視線と出会った。
「祐子は、テキスタイルデザイナー志望だって理事長が言っていたわ。ここは素敵なアトリエになりそうだ。楽しみだね」
「夢だけよ」
吐き捨てるように言った祐子は、三年前の投げやりな口調に戻っていた。Mの全身の疲労が鉛のように重くなる。
「その夢を祐子は信じているんでしょう」
「信じているわ。信じなければ生きていけない」
即座に返ってきた答えが、Mの疲労感にまた疲労を背負わせる。

「Mは会う度に悲しそうになる」
祐子の嘆きがMの心に沈み込む。
「前はチハルのようにエネルギッシュだったわ。私は悲しい」
チハルに比べられるとは、安く見られたものだとMは思った。しかし、もはや通じ合う言葉が見付からなくなっていた。
この広大な空間ではみんなちっぽけに見える。しかも、ちっぽけなことは、どの空間にあっても事実なのだとMは確信する。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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