2ntブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2.富士見荘(2)

「二階に八室、三階に十室、合計十八の部屋があるが、現在は二階しか使われていない。三階は婆さんたちの内職の作業所になっているんだ。トイレは二階と三階にもあるが、風呂と台所は一階にある。共同で使うんだ。洗面所は外の広場の水道か井戸を使う。ちょうど江戸時代のような、古き良き日本の習俗が満ちあふれていると思えばいいさ。慣れれば住みやすいと思うよ。セールスマンも来ない。Mのように、当面の煩わしさを避けたいという世捨て人にはぴったりの所だ」
天田が不動産業者も顔負けの歯の浮くような解説をして靴を脱いだ。確かに世捨て人に違いないとMは思い、口元に笑みを浮かべて式台に上がった。案内する天田と並んでどっしりした階段を上る。階段は三人が横に並んで上れるほど広い。一段上る度に分厚い木材から冷え冷えとした冷気が足先に伝わってくる。身体を被う空気も寒い。かつて苦海に身を沈めた無数の女たちの嘆きの声が聞こえてくるような気がした。一切の虚飾を打ち捨てた暗く重々しい雰囲気が身体を締め付けてくる。二階の踊り場まで出ると異様な臭気が鼻を突いた。強い芳香剤とアンモニアの匂いだ。祐子の足が止まる。
「ここのトイレは水洗じゃない。昔ながらの汲み取りだよ。何事につけてもナチュラルなんだ」
気配を察して天田が言い訳した。幅一メートルの中廊下を挟んで踊り場の左右に四つずつ八つのドアが並んでいる。いずれのドアも、直接向き合わないように部屋によって左右に分かれていた。

「Mの部屋は西の端だ。東隣は空き室で、すぐ前はお菊婆さんの部屋だ。お菊さんは富士見荘のボスだから仲良くするといい。三階に上る階段の横がトイレだ。少々匂いが気になるが、いい部屋だよ」
中廊下の突き当たりの角にあるドアを天田が開けた。四畳半の方形の部屋がMの目の前にある。視線を動かさなくても部屋の一切が見て取れる狭さだ。開けたドアの先がすぐ畳になっている。ただ一つある小さな腰高の窓には曇りガラスが入っている。押入はおろか戸棚一つない。刑務所の独房の方が余程機能的に造られていると思った。だが、この部屋はMの自由意志で手に入れるのだ。誰に強制されるわけでもない。殺風景な空間が一時、光り輝いて見えた。
「これがMの部屋ですって。あんまりだわ。せっかく市に帰ってくれたMに、こんな仕打ちはできない。ねえ、M。ドーム館か鋸屋根工場のアトリエで一緒に暮らしましょうよ」
ドアの前で立ちすくんでいる祐子が涙を浮かべながら訴えた。
「いいえ、この部屋は気に入ったわ。なんにもないところが最高。素っ気ない優しさを感じる。小さいけれど、ちゃんと窓もある。何が見えるのかしら」
途方に暮れた顔をしている祐子に言って、Mは腰高窓に近寄っていった。三年間閉じ込められた獄舎には眺めを楽しむための窓などなかった。新鮮な気持ちで曇りガラスの入った窓を開けた。

グォーッ

開ききった窓の中に列車の轟音が飛び込んできた。ちょうど目の高さに当たる鉄道の高架をオレンジ色に塗った電車が走り抜けていく。窓から五メートルと離れていない。木造三階建ての建築が電車の響きに合わせて細かく振動した。
「窓からの眺めは悪い。でも下を見れば緑道が見える。高架に沿って整備した散歩道だよ。もうしばらくすれば春の花がいっぱいに咲く」
天田がMの後ろで苦笑して言った。人気のない物件を何としても強引に押し付けようとする不動産業者にしか見えない。

「いいわ、天田さん。この部屋を借ります。家主さんの所に行きましょう」
天田を振り返ってMが大きな声で答えた。祐子の肩が落ちる。
「家主は大屋さんと言うんだが、昼間は仕事でいないよ。雑貨の卸をやっているんだ。この地区の福祉委員をしていたので面識もある。いつ入居してもいいと言っていたから挨拶は後でいいよ。気の向いたときに行ってくれればいい」
素っ気ない天田の言葉に祐子の顔がまたこわばる。だが、気分を変えるように明るい声を出した。
「M、こんなに殺風景な部屋では落ち着かないわ。寝具や家具を買いに行きましょうよ」
「チーフに頼まれて一応の用意はしてある。寝具といっても、毛布があればいいんだよな。急に布団を買っても眠れないと困る。その気になったら徐々に揃えればいいよ」
祐子の言葉を待っていたように天田が答えた。あっけにとられた祐子が天田の視線の先を追うと、五枚の毛布がドアの真横に重ねられてあった。毛布の上には男物らしいパジャマとタオルも置いてある。どれもがありきたりの安物だった。目にした祐子の顔が蒼白になる。

「天田さん、本当にチーフがこれを用意したの」
「違うよ。当座のものも用意しろって頼まれたから、俺が勝手に買ってきたんだ。なあ、M。これだけあればいいんだよな」
当惑した天田がMにまた助けを求めた。
「何がいいのよ。まだ寒いのに、毛布だけでMを寝かせるつもりなの」
怒りで顔を真っ赤に染めた祐子が天田にくってかかった。
「祐子、天田さんを非難しては失礼だわ。私はこれだけ揃えてもらえば十分。天田さんは福祉のケースワーカーだから刑務所のことにも詳しいのよ。刑務所には布団はないの。どんなに寒くても毛布だけで平気よ」
「せっかく市に帰ってもらったのに、刑務所の記憶を思い出させるようなことはさせられないわ」
祐子が頬を赤くして言い募った。
「私は刑務所の暮らしを忘れたくないの。祐子、これは私が決めたことよ。私は大丈夫。今日は疲れたから、もう一人にして欲しいの」
断固とした声でMが宣言した。祐子が泣きべそをかく。だが、構ってはいられないとMは思う。せっかく自由になれたのだ。考えねばならないことが山ほどあった。
「天田さん。全部チーフに報告するわよ」
捨てぜりふのように言った祐子が明日の再会を約して、渋々帰っていった。Mは二人を見送りもしない。無性に一人になりたかった。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

最新記事
カレンダー
09 | 2011/10 | 11
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
free area
人気ブログランキングへ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR