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5.婚姻届(4)

「ただいま」
陽気な声と共に自動ドアが開き、天田が太った身体を現す。まっすぐ進太の所に行って、小さな頭を乱暴になでた。進太がキャッ、キャッと言って喜ぶ。本当の親子のようだ。
「あなたの同級生のピアニストとMが結婚するって言うの。祐子も私も反対していた所よ。あなたも意見してやってよ」
チーフが天田に訴えた。天田の目が鋭く光った。
「死刑囚と結婚するのか。物好きなMらしい思い付きだ。でも、金にはなるぜ。ピアニストの個人資産は一億円くらいあると、俺は踏んでいる。結婚すれば時間の問題で全部Mのものになる。何と言っても効率がいい。戸籍が汚れるくらい何てことないもんな」
「あなた、Mに何を言うの。私が許さないわ」
チーフが顔を真っ赤に染めて睨み付けた。天田の憎まれ口を聞いたMの顔がやっと緩む。勝手な思惑や親切は聞き飽きたと思った。

「天田さん、遺産の話は初耳だけど、ピアニストの同級生として婚姻届の証人になって欲しいの。ぜひお願いします」
頼みを聞いた天田がさもおかしそうに笑った。進太を抱き上げ、高い高いをしてやってから、また笑った。大笑いした後、真顔になってMの目をじっと見つめた。
「本当の話なのか。悪い冗談かと思ったよ。失礼なことを言って済まなかった。Mの物好きには恐れ入るよ。でも、俺の同級生に配偶者は要らない。あいつは天才だ。一人で死んでいくべきなんだ。俺は証人にならない。あいつの親父の歯医者に頼むのが筋ってもんだろう」
確かに天田の言うとおりだとMも思った。これまで気付かなかったことが恥ずかしいくらいだ。手続きは遅れるが、十五年振りで歯科医に会おうと思った。サロン・ペインに来た甲斐はあったのだ。
「天田さんありがとう。明日にでも歯医者さんに会うわ」
礼を言って立ち上がった。もうサロン・ペインに用はなかった。進太を抱いた天田の前まで行って両手を伸ばす。進太が小さな手を伸ばして腕の中に乗り移ってきた。そのまま抱き上げて弾力のある柔らかな頬に頬ずりした。
「M、きれい、おれ、Mがすき」
進太がうれしそうな声で言った。
「まったく、こんな小さな時から隅に置けない。立派なスケベ坊主だ」
天田もうれしそうな声を出して、Mのぎこちない手から進太を抱き取る。
「さようなら」
誰にともなく言って自動ドアに向かった。
「お願いM、結婚は考え直して」
弱々しい声で祐子が背中に呼び掛けた。だが、追ってくる者は誰もいない。Mは背筋を伸ばしてサロン・ペインを後にした。


月曜日の朝は快晴だった。寝付かれぬ長い夜だったがMは定時に起きた。丸一か月続いた朝の日課を慌ただしく順調にこなす。ガードマンの制服に着替えて四人の婆さんたちと朝食を囲んだ。昨日の小旅行であったことを問わず語りに作り話にして婆さんたちに話した。たとえ黙っていても、婆さんたちが旅の成果を聞いてくることは目に見えていたのだ。婆さんたちは目を輝かせて話に聞き入っていた。どうしても愛しい死刑囚に会わせてもらえなかったと知ると、お梅さんと桜さんが目頭に手を当てる始末だった。ただ一人、お菊さんだけが黙ったまま鋭い視線をMに向けていた。嘘のすべてを知っていると言いたげな視線だった。だが、知ったことではない。今日は待ちに待った給料日なのだ。初月給で服を買い、仕事を休んで歯科医に会おうと思った。

「いってきます」
大きな声で婆さんたちに挨拶し、さっそうと仕事に出掛けた。昨日と打って代わった晴天の工事現場で誘導灯を振り続けた。風がなくて照りつける日射しは強い。身体はぐったりするが気分は高揚していた。希望があると人は強いと思う。いつになく疲れ切った様子の大屋の分まで大きな声を出し、休みなく誘導を続けた。だが、休み明けの仕事はつらい。やっと一日の仕事が終わったときは全身に気怠さが残った。でも、今日は給料日だ。気持ちを取り直して大屋のバイクの後ろに跨る。二人で警備会社の事務所に向かった。事務所はバイパス沿いにある四階建てのビルの中だ。構内には三台ほどの警備車両が待機している。提携先のセキュリテー・システムから異常通報がありしだい、直ちに出動できる体制を整えている。それが警備会社の本業なのだ。警察と同じ二十四時間体制だった。Mたちの仕事は事業多角化の一環に過ぎない。なんのノウハウも要らない仕事だった。

「悪いけど俺の分の給料も受け取ってきてくれないか。俺はここで待っているよ」
構内の隅にバイクを止め、先に降り立ったMにはんこを差し出しながら、気弱な声で大屋が言った。
「ここの主任が苦手なんだ。頼むよ。はんこがあれば給料は渡してくれる。うるさいことは言われないよ」
いつも胸を張って芸術の話をするときの面影もない、哀れな中年男の顔が再び哀願した。
「いいわ。大金を持ってすぐ帰ってくるわね」
大屋の手からはんこを受け取り、Mは颯爽と職員通用口に向かった。バイクの後ろに跨り、風を受けて走ってきたのに汗は乾ききっていない。肩に張り付いた制服の袖が不快だった。まだ四月というのに一階の事務所は寒いほど冷房が効いていた。同じ会社の職場とは思えないほど現場とは環境が違う。どの職場でも厳然とした階級があるのだ。その階段を上り詰めていくことに人は汲々としている。しごく当たり前の風景だった。Mは採用の時に会った交通係の主任の席に真っ直ぐ歩いていった。
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Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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