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4.面会(4)

待っていた日曜日がやっと来た。交通誘導の仕事もさすがに休みだ。Mはこの四日間を悶々として暮らした。飛んでいってピアニストに会いたい衝動と必死に戦ってきた。たとえ自ら求めたとしても、ピアニストに求められたとしても、閉塞された場で悩むピアニストを煽るような真似だけはしたくなかった。今の暮らしの中で許された道だけが未来を切り開くことに通じると、自分に言い聞かせて過ごした。もう夢は見たくなかった。だが、今日こそピアニストに会おうと思う。せっかくの休日を有効に使うだけの話だった。

Mは封筒の裏書きにある刑務所の住所を何度も読んだ。そこは市から電車を乗り継いで二時間の日本海に面した地方都市だ。給料日を明日に控えた手元には三万円しか残っていない。刑務所までの交通費は往復で約二万円だ。電車賃を節約して、祐子にMG・Fを借りようかと思ったが思いとどまる。一緒に住む婆さんたちの真摯な生き様を踏みにじるような気がしたのだ。身一つでまず足掻いてみない限り他人事になってしまう恐れがあった。
午前六時に富士見荘の大階段を下りた。服は一張羅の煉瓦色のジャッケットに黒のロングスカートを選んだ。日に焼けた黒い顔が少し気になったが、かえって煉瓦色の服がよく似合うと思い直す。唇には真紅のゲランを思い切って引いた。玄関のガラス戸を開けると運悪く井戸端にお菊さんとお梅さんの姿が見えた。老人は日曜日でも朝が早い。大きな声で朝の挨拶をすると、二人そろって挨拶を返した後、訝しそうにMを見つめた。

「早いね。せっかくの日曜日なのに、お出掛けかい」
当然のようにお菊さんが尋ねてきた。
「ええ、日本海まで行って来るわ。お梅さん、朝御飯が食べられなくてごめんなさい」
「なに、気にすることはない。そのぶん食費が助かる」
お梅さんに代わって、お菊さんが婆さんらしい答えを口にした。お梅さんはじっとMを見つめている。刺すような視線が痛い。

「M、男に会いに行くんだろう」
お梅さんが唐突に口を開いた。勘の鋭さにMがたじろぐ。
「そう、でも刑務所にいるのよ。ただの面会」
話を早く切り上げたくて、無愛想に答えた。今度はお菊さんの目が鋭く光る。
「その男は、いつ出て来るんだ」
静かな声で尋ねてきた。立ち話では済まない迫力がある。Mは戸惑う。刑務所の話はやはりまずかったと悔やんだ。
「彼は出て来れない。死刑囚よ」
薄く曇った春の天気がMの一言で凍り付く。だが、お菊さんの迫力は衰えはしない。

「行くのはよせ」
鋭い声で言った。
「いいえ、私は行く。行かなければ生きていく自信が持てない」
冷静な声で答えられたことにMは満足した。お菊さんの硬い表情が潮が引くように解けていく。哀れみのこもった声が小さな口にこぼれた。
「やはりやめておけ。死刑囚には身内しか面会できん。行っても無駄だ」
「でも行くわ。夕方には帰る。夕食はご一緒します」
お菊さんの情けを振り切ってMが答えた。婆さんは二人とも黙ったままだ。Mが頭を下げて歩き出すと、背中に「行っておいで」とそろった声で呼び掛けた。今にも降り出しそうな空が三人の頭上を被っていた。

Mはこの市で初めて電車に乗った。午前六時二十分発の上り普通電車だ。二両編成の電車はゴトン、ゴトンと少しの間を走っては小さな駅に停まる。乗降客のいない駅もあり、乗客も少なかった。交通の要衝の都市に着くまで九つの駅に停まりながら一時間をかけて電車は走る。有識者の言うとおり、確かに市は陸の孤島だった。やっと交通の要地についても、都会から走ってくる特急電車との連絡に三十分間待つ。乗ってしまえば早い。一時間ちょっとで日本海に面した都市に行けるのだ。やっとホームに着いた特急電車も思ったより空いていた。Mは先頭車両の窓際の席に座った。県境の長いトンネルを抜けると車窓を雨が濡らした。高い山脈を隔てて両側の天気がこんなにも違うのだ。多分、人の気持ちも違う。異境の地で確実に訪れる死を待つピアニストの心境を思ってしまう。その死はひょっとすると今日かも知れないし、昨日であったのかも知れないのだ。密室同然に隔離された刑務所で襲う死は、外の人間に知る術がない。死刑廃絶に関心のある一部の新聞が刑の執行を小さく紙面に載せるだけだ。死刑囚の死は法務大臣の気まぐれで決まる。在任中に死刑執行の署名を一度もしない大臣もいるとのことだ。死刑とは、すべてが人の恣意に委ねられた最も不自然な死だった。

終着駅には心なしか日本海の潮の香りが流れているようだった。Mは重い腰を上げて地方鉄道の連絡通路へ向かった。たった一両きりの茶色の電車が古ぼけたコンクリート造りの駅舎の隅でMを待っていた。Mは座席に座らず、ドアの横に立った。たった一駅のために乗る電車だったが、見ず知らずの土地では歩くにしても見当がつかない。刑務所にタクシーで乗り付けるのは何となく気が引けた。一か月前まで刑務所にいたMにとって、今も刑務所は威圧的に映る。一切の自由と人格を奪い去られた屈辱の暮らしが思い出されてしまうのだ。貧相な電車は定刻通りに走り出した。電車は新しい建築物で混雑した市街地の中を走る。都市化の波が日本海沿いの地方都市にも確実に襲い掛かっているのだ。車窓から見える市街はすべてショーウィンドウの眺めだ。だが、少し目を凝らすと、切ないほどの暮らしの匂いが雨にくすんだ街から漂ってくる。富士見荘で嗅ぐのと同じ、お金に追われる切ない匂いだ。
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アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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