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3.内職(1)

Mが遊郭跡のアパート富士見荘に住み始めてから、もう五日が経った。腰高の小さな窓から入ってくる日射しが四畳半の部屋を明るく照らしだしている。Mは毛布の間で目を覚ました。天田の用意してくれた毛布のうち二枚を重ねて折って敷布にし、二枚を身体に掛ける。もう一枚は枕替わりに使っていた。右手を伸ばして畳に置いた腕時計をとる。ディオールのブラックムーンの黒い文字盤が午前九時を回っていることを教える。時計は祐子が置いていったものだ。貰い物だが、年齢的にMに似合うと言って無理に押し付けていった。相変わらず祐子は嘘がへただと思う。わざわざ買ってきたことぐらい百も承知だった。チーフはゲランのルージュを置いていったが、祐子とは違う。口紅も引かない女は、いくら美しくても許せないと説教をしていく余裕があった。祐子もチーフも五日間の間に入れ替わり、立ち替わりに訪ねてきた。決まって帰り際に出所祝いの話をする。だが、Mは首を縦に振らない。いくら誘われてもドーム館にもサロン・ペインにも行こうとはしなかった。三人で会っても話題は極めて少ない。Mは弥生や修太、光男、他の死者たちの話をしない。ピアニストを初めとした生き残った人たちのことも話題にしない。沈黙の時間ばかりが流れていった。祐子もチーフもMの態度をはかりかねて、おろおろするばかりだ。だが、Mは態度を変えようとはしない。じっと貝のように部屋に逼塞する日々を重ねていった。

「毎日、朝が遅くなる」
声に出してつぶやき、Mは毛布をはねのけて起き上がった。灰色のジャージを着ている。刑務所では裸で眠ることは許されない。服を着て寝る習慣が自分の部屋を持った今も続いていた。立ち上がって壁に掛けたタオルを取る。いくらか伸びた陰毛が内腿を鋭く刺激するが、取り立てて感動はない。陰毛を剃ってはみたが勇気は湧いてこなかった。全身のだるさが喉元まで溢れ、口からこぼれ出るのを待っているだけだ。起き抜けのまま玄関に向かう大階段を降りた。この重々しい階段を上り下りするときだけ富士見荘の前身に思いを馳せる。多くの女たちの血と汗と涙、そしてわずかばかりの官能の匂いを嗅ぐ。かつて、ここでは強いられた性だけが女の裸身を撫で回していたはずだった。残された建物と建物にまつわる性の伝説はすべて抽象に過ぎない。それぞれの女たちの過酷な性だけが遊郭にとっての真実なのだ。現在のMとピアニストと同様、つぐんでしまった口が真っ直ぐ暗い深淵に通じていたはずだった。

重いガラス戸を開いて広場に出ると暖かな日射しが全身を被った。吐く息は白く、厳しく素肌を刺す冷気も漂っていたが、着実に季節は流れている。冬は立ち去るのだ。Mは広場の隅で水道の前に屈み込んだ。洗面器を忘れたことを一瞬悔やむ。しかし、コンクリートの流しの隅に伏せてあるプラスチックの洗面器を拝借することにする。午前九時を過ぎて起き出してくる者は、富士見荘ではMの他にいるはずがなかった。水道の蛇口を捻って洗面器に水を満たす。しばらく水を出しっぱなしにしておくと、手に突き刺さる冷たさが消えて懐かしい温かみが水中に広がる。待っていたように両手で水を掬った。数回顔を洗った後、首筋や耳の裏まで丁寧に洗う。ショートの髪は本当に便利だと思う。刑務所の暮らしは合理的なのだ。顔一面に滴る水滴を首に掛けたタオルで拭き取っていると、背後から冷たい声を浴びせられた。

「あんたは刑務所帰りだったのかい」
突然の言葉に肩が緊張する。低く掠れた女の声だった。
「その洗面器は、わしのもんだ」
畳み掛けてきた声を聞いて、Mはしゃがんだまま振り返った。背後から朝日を浴びた黒い影がすぐ後ろにいた。声の感じから富士見荘に来た日に天田に話し掛けてきた菊という老婆だと知れた。だが、天田と話す時とは違い、腹に染み通る威厳のある声音だった。
「そのサンダルも、わしの物だ。ぬしはまだ刑務所ボケしているのか、刑務所のしつけが甘くなったのか、どっちなのか答えておくれ」
老婆が追い打ちを掛けた。完璧にMの負けだ。返す言葉がなかった。靴を履くのが面倒で一番古ぼけたサンダルを突っ掛けてきたのだが、他人の物には違いない。刑務所でなくても、どこの世界でも盗みに違いなかった。Mはその場でサンダルを脱いで地面の上に正座した。洗面器とサンダルを膝の前に置いて深々と頭を下げる。
「確かお菊さんでしたね。私はM。おっしゃるとおり五日前に刑務所を出所してきました。日用品を買いそろえることを怠り、お菊さんの洗面器とサンダルを無断でお借りしてしまいました。二度としません。許してください」
真剣な声で訴えた。老婆だろうが生活保護を受けていようが、見くびるわけにはいかなかった。無意識に盗みを働いたのはMなのだ。許しを乞うしかないと思った。

「ハッハハハハ」
神妙に土下座した頭上にお菊さんの笑い声が降ってきた。
「許すも許さぬもない。足りない物があれば融通し合うのが当たり前だ。だが、ぬしの答え振りを見て安心したよ。今でも刑務所のしつけは厳しいらしい。わしも刑務所では辛い思いをした。そのサンダルはぬしにやる。わしはやっと新しいのを買ってきたんだ」
邪気のない声に顔を上げると、お菊さんが手に持った白いレジ袋を子供のように振り回している。袋を透かして赤いサンダルが揺れていた。
「ありがとうございます。でも、サンダルはお返しします。早速私も買ってこようと思います」
ほっとした声で答えて洗面器とサンダルを差し出した。
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Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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