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4.面会(3)

「大屋さんも月一万円出せば、お梅さんにお弁当を頼んで上げるわ。量は少ないけどおいしいのよ」
いつものようにコンビニエンス・ストアで買ったパンを不味そうに食べている大屋に話し掛けた。
「いいよ。本当は俺、飯は食べたくないんだ。時間に追われているようで食事の時間が好きになれない。好きなだけ絵を描いて、好きなときに少しだけ食べるのが俺の理想だな。一生食べないで済むなら最高だ」
スケッチ帳を大事そうに膝に載せた大屋が、にべもなく答えた。Mは眉をしかめてわずかな量の弁当を食べ、温いウーロン茶に口をつけた。大屋もスケッチ帳を広げたまま、じっと前の風景を見て缶コーヒーを啜っている。Mは壁にもたれてそっと目を閉じた。スケッチ帳に走り出した大屋の鉛筆の音が懐かしく聞こえる。絵を描くための筆記具を最後に持ったのはいつだったろうかと記憶を辿った。小学校のころまで遡らねばならないような気がした。無邪気に絵など描いていたのはそのころまでだったと思う。寂しさが込み上げてきて、急に大屋の絵が見たくなった。目を開き、身体を曲げてスケッチ帳をのぞき込んだ。目の前の風景とまったく違った絵が描かれている。桜の花びらだけが、かろうじて現実を写していた。花びらは画面隅に描かれた小さな子供の上を流れていた。一面の草原を渡る風に、なぜか桜の花が舞っている。広い草原と子供、そして舞う花びらしか描かれていない。だが、大屋はしきりに目の前の風景を見つめて鉛筆を走らせている。

「大屋さんの描く風景は、現実と全然似ていないのね」
絵を見つめて、Mが冷やかすような声で言った。
「俺の目にはね、風景がこう見えるんだよ。桜の花は、ただひたすら草原の風に舞うんだ。この絵が嫌いかい」
「いえ、好きよ。でも、どうしたらそう見えるんだろう」
「Mの思うとおりでいいんだ。所詮アートなんて好きか嫌いかだよ。好きな風景を見ようとすれば嫌いな物は消えてしまうさ」
目を輝かせて大屋が答えた。Mははぐらかされたような気がした。重ねて問い掛けたくなる。
「大屋さんの絵には色がないのね。寂しいわ」
「色は俺の頭の中にあるのさ。描く絵にふさわしい、すてきな色合いがみんな頭の中に塗られている。でも、実際に色を塗ったら、それはもう俺の色ではない。俺は画家になると決心しない限り色は塗らない。せっかくのスケッチを情けない絵にしたくないんだ。だが、俺は画家になれない。だから色は塗らない」
「大屋さんは子供みたいに勝手なことばかり言うわ」
「何かを表現しようとしている者はみんなそうだよ。例えば音楽家。ピアニストだって、頭の中に最高の音色を隠しているはずだ」

唐突にピアニストという言葉が爛漫の桜の下にこぼれ落ちた。途端にMの心臓が凍り付く。遠くのグラウンドから風に乗って聞こえていたマーチがやんだ。やんだ瞬間、音楽が鳴っていたことに気付いた。思わず耳を澄ますと、行き過ぎる車の騒音を縫ってピアノの音色が聞こえてきた。音は少々潰れているがショパンの「別れの曲」だ。春の運動会が昼に食い込んで終わり「別れの曲」が流されたらしかった。全身に衝撃が走り、目の前が真っ白になった。確かにピアニストは音楽家の卵だったのだ。十五年前の春の宵に、演奏家になる道を捨てたピアニストはMに「別れの曲」を弾いてくれた。コンクリートの壁にもたれたMの身体がむせび泣いた。果てしない涙が堰を切ったように両目から溢れ出す。ああ、大屋の言ったことは皆真実なのだと確信した。色を音に置き換えれば、ピアニストが悶えるように悩み、投げ捨てていった道に一切が通じる。その道のしるべに、Mは確かに求められたのだった。完成されることのなかったピアノの音色は今もピアニストの頭の中で鳴っているのだろうか。しかし、もう二度とピアニストはピアノを弾くことはできない。アートは完成されることもなく一切が闇に葬り去られるのだ。ピアニストが聴いていた音のすべてを聴きたいと痛切に願った。未完の音色の悲しさがMを責め苛む。

どれほどの時が流れただろうか。涙も涸れ果て、声にならぬ嗚咽を繰り返すMに大屋が声を掛けた。
「もう仕事に戻る時間だ。横顔をスケッチしたよ」
差し出されたスケッチ帳にはMとまるっきり違う女の横顔が描かれていた。女は泣いておらず、涙の中に沈んだ横顔があった。
「俺はこれほど激しく悲しい泣き顔は見たことがない。Mが泣くのではなく、涙の中にMがいた。お節介のようだが、自分を隠し続けるのは良くないよ。ストレスが溜まってしまう。俺みたいに、頭の中で生きるようになったらおしまいだ」
大屋の言葉が空っぽになった頭に突き刺さった。すぐにでもピアニストに会いたいと思った。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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