2ntブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

3.内職(3)

「もういいぞ、部屋に帰ろう」
お菊さんに促されて仕方なく素っ裸で後に従う。木造三階建ての遊郭の玄関に曳かれていく裸身は、やり手婆さんに連れ戻された逃亡女郎のように見えた。白い尻に浮かんだ平手打ちの痕が痛々しい。

「M、いつまでもぶらぶら遊んでいてはいけない。ちゃんと働いて稼げ。しのぎを削らねば、娑婆では尻の毛まで抜かれてしまうぞ」
先に立って大階段を上るMに、お菊さんがまた説教をした。Mがしおらしくうなずく。Mの態度に満足したお菊さんが尻に手を伸ばして割れ目をまさぐる。
「まあ、尻の毛まで剃り落としていては抜かれる気遣いもないか。潔くていいぞ」
楽しそうな声が吹き抜けの階段に溢れた。
「今日は昼の三時に内職の材料が来る。わしらの働く姿をよく見ろ。皆の衆にも紹介してやる。いいな、忘れるなよ」
二階の踊り場で言って、お菊さんがもう一度尻を軽く叩いた。どことなく懐かしさが漂う甘い痛みが尻に拡がる。憎めない婆さんだとMは思った。


午後になってすぐ、Mは三年と五日振りに商店街に買い物に出掛けた。これまでにサンダル一つ買わなかったことが情けなかったのだ。
春の商店街は明るい。街をいく人たちの顔も皆、一様に晴れやかに見えた。死者と生者のことを思い煩っていたことが無益な時間だったような気がする。真っ先に化粧品屋で大振りの鏡を買った。肌触りの良いタオルと高価な石鹸も買った。次にトラッドショップに行ってしばらく迷い、黒いロングスカートと煉瓦色のシングル・ジャケットを仕入れた。現在の流行が気になったが、あえて店員に尋ねることなく気に入った品だけを選んだ。インナーには白いスタンドカラーのシルクシャツをおごった。体のサイズが変わっていないこともうれしかった。買った品を全部試着室に持ち込み、その場で着てきた紺色のスーツと替えた。どの品もぴったりMに似合った。姿見の中の自分が一段と大きく見えた。少しの直しも要らぬ体型に店員が驚嘆の声を上げる。それもMにはうれしい。調子に乗って靴も欲しくなる。ショーウィンドウに飾ってあったワインレッドのプレーンなスリッポンを求めた。ヒールは三センチメートルしかないが、Mの身長はこれで百七十三センチメートルになる。気分が良かった。ついでにジーンズショップをのぞき、ブラックジーンズと黒のタートルネックのセーターも買った。買い物をする度に気持ちは高揚していったが、終わったときには十五万円がなくなっていた。有り金の半分を使い切ってしまったのだ。

「ようし、稼ぐぞ」
大きな紙袋を三つもぶら下げて、思わず歩道の端で声を出した。途端にお菊さんの顔が脳裏に甦った。恥ずかしさが込み上げてきて頬が赤く染まる。私の暮らしは高々このくらいの物かと思い知ってしまった。水道料金を節約するなど思いも及ばない。収入の当てはないが、無いはずはないと思ってしまう。一人暮らしの若さの驕りだった。もう四十歳を過ぎたなどと威張ることはできない。苦海に身を沈めた多くの女たちの怨嗟の声が聞こえた。

「あの、良かったらお茶でもご一緒できませんか」
横断歩道の赤信号を見つめていたMの耳に豊かなバリトンが響いた。思わず首筋が痒くなって、隣の男を見つめる。ほぼ同じ背丈の男の頬が赤く染まった。グレンチェックのスーツを着た繊細な感じの男だが、年齢は三十歳を出た程度にしか見えない。
「また、暇なときにね」
素直に答えると、また男の頬が赤く染まった。
「僕は銀行員で、怪しい者ではありません。ぜひ付き合ってください。何でもします」
温室育ちの匂いが鼻先を掠める。何よりも声が素晴らしかった。股間が熱くなるのが分かる。
「そう、怪しい者なんて、もうこの市にはいないわ。銀行員が何でもするというのは、十億円ぐらいは融資するってことかしら」
Mの言葉に青年がどぎまぎした。しかし引き下がろうとはしない。信号は赤のままだ。
「いえ、仕事を離れてプライベートな場所でお役に立ちたいんです」
「分かったわ。素っ裸にして、縛り上げてちょうだい」
「えっ」
絶句した青年の顔が戸惑い、信号が青に変わった。Mは足早に横断歩道を歩く。ついてくると思った青年は交差点を渡らず、そのまま歩道に立ちすくんでいる。振り返ったことを悔やむとピアニストの顔が目に浮かんだ。ちょうど青年と同じくらいの歳だが、ピアニストの顔は苦悩で年老いて見える。急に気分が沈み込んで悲しい痛みが全身を捕らえた。履き慣れないスリッポンが歩みを妨げ、尖った陰毛が内股を刺す。Mは激しく首を左右に振ってピアニストの幻影を追い払った。背筋を正し、あごを引いて正面を見据える。商店街の歩道を春の光が照らしている。まぶしい光の中をできるだけ快活に歩こうとした。擦れ違う度に振り向く男の視線だけを感じ続けようと思った。

富士見荘に続く路地に入ると途端に風景が暗く陰鬱になった。正面にそびえる木造三階建ての威容が周囲を圧し、毒気を振りまいているように見える。玄関の重いガラス戸を開けて大階段を上る。春の光を拒絶した暗い吹き抜けに寒い空気がよどんでいる。黒光りする中廊下を渡って自分の部屋のドアを開けた。腰高の小さい窓から入る斜光を浴びた方形の部屋が目に飛び込む。煤ぼけた畳があるだけの何もない部屋だ。心の底まで寒くなっていくような気がする。せっかく取りそろえた衣装も形無しだった。買ってきた鏡を取り出して壁に掛けた。吊った鎖が捻れて鏡面が斜めになる。鏡に映る横を向いた顔の回りを寒々とした部屋が取り巻いている。自分自身の横顔も表情が暗い。突然ドアが開けられ、お菊さんの着膨れた姿が鏡に映った。

「ほう、服を買ったのか。まぶしいくらいあでやかだ。Mによく似合うぞ。テレビの画面から抜け出てきた女優のようだ。きっと皆の衆も喜ぶ」
お菊さんの最大級の賛辞がMを元気づける。確かに私は美しいと、鏡の中の自分に心の中で呼び掛けてから振り返った。
「この服でよそよそしくないかしら」
「なんの、華やかなことはよいことだ。くすんでいるのは年寄りだけでいい。早く行こう」
お菊さんは忙しなく言って背中を見せた。小さな背中にMを早く仲間に見せたいという無邪気な興奮が溢れている。まるで道端で拾った子犬を友達に見せびらかす子供のようだ。Mは思い切り愛嬌を振りまかねばならない心境になる。老人との付き合いも辛い。廊下の端まで行き、三階に続く階段を上る。玄関の大階段と違って三階に上る階段は狭くて急だ。その代わり建物の両端に二つの階段がある。上り切ると、さすがに低過ぎる天井の下に中廊下が延びていた。廊下を挟んで左右に五つずつ十室のドアが向かい合っている。Mたちの住む二階に比べて一目で格が低いことが分かる。東西に小窓があるだけの廊下は暗くて侘びしい。今にも女の啜り泣きが聞こえてきそうだ。思わず全身が緊張し鳥肌が立った。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

最新記事
カレンダー
09 | 2011/10 | 11
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
free area
人気ブログランキングへ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR