2ntブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

6.義父母(2)

蔵屋敷の中はビニールシートを掛けた粘土や制作途中の塑像、イーゼル、油絵の具、おびただしい数のへらや絵筆が散乱していた。松ヤニの匂いが厳しく鼻を突いた。
「紙漉きはやめたのね。いつから彫刻屋さんになったの」
キャンパスを張った椅子に歯科医と向かい合って座ったMが尋ねた。
「三年前からだよ。紙漉きはとうにやめている。息子が帰ることもないので、またここをアトリエにしたんだ」
歯科医の答えはあっけにとられるほど明るかった。一人息子の不幸を帰ることがないと表現した。Mは次の言葉に迷ってしまった。困惑した様子を見かねた歯科医が笑みを浮かべて口を開く。

「昔話をするのはやけに歳を取ったようで嫌いだが、私も六十五歳になる。なぜMが訪ねてきたのか知らないが、これも巡り合わせだ。十五年前だって、私か息子のどちらかがMを奪う予感があった。私は才能はあったが歯科医で妻がいた。息子はいい奴だが私ほどの才能に恵まれなかった。世界中の美をつかみ取ることができないうちにピアノを捨てた。今でも息子に才能があったらと悔やむことがある。一切の音を、世界を、美のすべてを、そしてMを手中にできたかもしれない」
話し終わった歯科医はMの目を見つめてから遠く視線を巡らせた。真っ白になった頭髪が窓から入るさわやかな春風に揺れた。

「歯医者さんの言うことはよく分からないわ。ピアニストはあなたの跡を継いで歯科医になるために音楽を断念したんでしょう」
「いいや、息子は才能が足りなかったのだ。足りない部分を補う努力もしなかった。うかがい知ることのできぬ表現の闇に足を踏み入れるのが怖かっただけだ。もちろんでき過ぎた息子だったから私の気持ちを勝手に推し量ったのかも知れない。だが、息子は歯科医にならずに医師になった。父として息子の心中の悔しさは痛いほど分かる。性格が優しいまでに弱すぎたのだ。あの弱さでは一人きりで表現の道を押し渡ることはできない。M、ひょっとして息子は、あの時Mに救いを求めなかっただろうか。同行を頼みはしなかったろうか」
失った時を惜しむように紡ぎ出された言葉がMの胸に突き刺さった。身体が小刻みに震え、涙が頬を伝った。唇に触れた涙に後悔の味が混ざる。居たたまれなくなったMが携えてきた思いを言葉にした。

「ピアニストは、またピアノの練習を始めているわ。先日、刑務所に面会に行きました。研ぎ澄まされた音色が今も私の身体の中で鳴り渡っている」
「そうか、息子に会ったのか。だが、独房にピアノのある道理がない。空しく脳裏に組み立てた音を誰が聴くというのだ」
「私が聴くわ。ピアニストは私のためだけにショパンを弾く。私とピアニストは二人で音の世界を共有して、生きられるだけの時間を生きるの」
「またショパンかね。せめてドビュッシーであったら音に生きることも出来たろうに」
歯科医がつぶやくように言ってMの目を見つめた。促すような視線を受け、Mは用意してきた婚姻届をテーブルの上に出した。

「獄中のピアニストにプロポーズされました。結婚を承諾してください」
唐突なMの言葉にも歯科医は驚く様子がない。しばらく黙ったままテーブルの上に広げられた紙片に見入っていたが、静かに椅子から立ち上がった。Mの頭上から低い声が落ちてくる。
「死刑囚の息子と結婚したいのか。考え直した方がいいと言ってもMのことだ。決心を変えることはないのだろう。だが、立派な息子を選んでくれたことには父として感謝するしかない。Mも息子に劣らない立派な女性だ。私が結婚に反対する理由はない。祝福したいとさえ思う。M、至らなかった表現の道に帰るという息子を、時が隔てるまでの間、どうか見捨てずにいてやって欲しい。お願いします」
足元から頭の先まで奔流のように駆け上っていく熱を感じながら、Mは頭上からこぼれる歯科医の声を聴いた。目の前が真っ白になり、黙ったまま何度もうなずく自分だけを意識した。耳の底でピアノの調べが鳴り響いている。ショパンの幻聴だった。耳の底でたゆたう調べを低いエンジン音が踏みにじった。棚からペンと印を取った歯科医が素早く婚姻届の証人欄に署名し、押印した。

「ポルシェのエンジン音だ。妻が帰ってきた。母である彼女は私とは違う見解だろう。会わずに済ませた方がいい。M、裏口から帰りなさい」
早口に言う歯科医の言葉にMは首を横に振った。
「立派な息子さんの母に会わない理由はないわ。ましてや逃げ帰るわけにはいきません」
Mの言葉に歯科医が辛そうにうなずき、ゆっくり椅子に座った。
「私も妻も息子に面会を拒否されている。もう三年間も会っていない。妻の気持ちも分かって欲しい」
歯科医が言い終わらないうちに、蔵屋敷の自動ドアが開く音が聞こえた。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

最新記事
カレンダー
09 | 2011/10 | 11
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
free area
人気ブログランキングへ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR