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5.婚姻届(5)

「やあ、お疲れさま。暑くて大変だったでしょう。まあ掛けてください」
現場と姓名を申告して二つのはんこを差し出すと、主任に愛想よく椅子を勧められた。Mが座るとにこやかな笑顔を見せて話を続ける。
「Mさんは今日で一か月になるね。本当によくやってくれて会社も喜んでますよ。実は一緒に組んでもらっている大屋さんには困っていたんです。間違いが多くて工事関係者の苦情も多い。今度失敗したらやめてもらうはずだったんだ。それがMさんと組んだら見違えるようになった。人の能力が変わるはずがないから、たとえ新人でもMさんの指導力の成果だよ。いや、立派な仕事ぶりです。いろいろと報告が入ってくるから会社はすべて把握してるんですよ。今月は初月給ですが、皆勤賞の他に特別に報償を含めて三十万円を支給します。今後も、うちで働いてください。お願いしますよ」
椅子に浅く掛けて話を聞いていたMは尻の辺りがこそばゆくなってしまった。居心地の悪さが足元から立ち上がってくる。誰にでもできる仕事を大過無くこなしただけで大仰な褒め言葉だと思った。馬鹿にされたような気がして、意識しなくても憮然とした顔になってしまう。目ざとく表情を読みとった主任がすぐ言葉を続けた。

「勘違いをしてもらっては困る。私は馬鹿にしてるんじゃないよ。Mさんは優れた能力を持っているから馬鹿にされた気がしたんだ。でも、誰もがMさんほどの能力を持っているわけではない。さっき言ってしまったついでに言うが、大勢の中には大屋さんのように仕事のできない人もいる。できる人とできない人の間に大勢の人が散らばっているんだ。人は千差万別だからね。至極当然な話だよ。Mさん、現場の仕事をもう一か月続けたら内勤になってもらいますよ。警備会社はサービス業だ。売り物は人材しかない。優れた人材はいつでも欲しいんです。Mさんには将来、現場に派遣する人材の配置をしてもらいたいと思っている。お願いしますよ」
主任は二回目のお願いをしてから机の横の携帯金庫を開けた。二つの給料袋を取り出してMに手渡す。
「Mさんに話したことは秘密でもなんでもないですよ。大屋さんに話してもらっても一向に構いません」
給料の礼を言うMに、主任が畳み掛けるように言った。残酷な言葉だった。大屋に伝えることなどできるはずがない。しかし、能力を評価されて悪い気がする人間はいない。Mは爽快な気分で主任の席を後にした。廊下を歩きながら手にした二つの給料袋をうれしそうに見る。右手に持った大屋の給料袋の上書きは二十五万円だ。一万円札五枚分だけMの袋が厚い。決して悪い気分ではなかった。お陰でMは明日の休暇を言い出しかねてしまった。暮らしはいつも人に不自由を強いるようだ。暑さの残る構内の隅で、大屋が浮かぬ顔でMを待っていた。疲れ切った顔でバイクの横にしゃがんでいる。主任の言ったできない男のイメージが連想されてしまう。

「お待たせ、大金をせしめてきたわ」
明るい声で言って大屋に給料袋を渡した。大屋は上書きの金額を確かめただけで、封も開けずにポケットにしまう。そのまま立ち上がろうとせず、上目遣いにMの顔を見ている。縋り付くような眼差しが情けなく見えた。給料日の華やぎなど無縁な暗い表情だった。
「話の分かる主任さんだったわ。大屋さんも会った方がよかったのに」
無理に愛想笑いを作って、しょぼくれた大屋の目に呼び掛けた。
「Mはきっと主任に評価されたんだ。あいつは社長の息子だから権限がある。俺なんか先月の給料日に首にされるところだったよ。とても会いたくはないね」
にべもなく答えた後も大屋は立ち上がる気配がない。

「M、十万円貸してくれ」
上目遣いにMの視線を捕らえていた大屋の目が一瞬光り、小さな声で叫ぶように言った。
「なあ、頼むよ。必ず返す。明日までに四十万いるんだ。金融会社に息子の学費を取り上げられてしまったんだ。明日中に大学に半額振り込まないと息子は退学になってしまう。M、頼むよ。助けると思って十万円貸してくれ」
Mの答えも待たずに大屋が言い募った。哀れに萎んでいた身体が急に大きくなったように見えた。借金を申し込んだことで胸のつかえが取れて居直った感じだ。ある種の迫力さえある。金を貸さない奴は人非人だと言い出しかねない風情だった。
「十万円では、とても足りないでしょう」
うんざりした顔でMが答えたが、大屋は少しも動じはしない。
「俺の給料と家賃収入を足せば四十万円になる。頼むよ。息子は後二年で卒業なんだ」
答えた語尾が甘い期待で震えていた。もらったばかりの給料の全額をつぎ込んで、どうして後の一か月を暮らせるのかとMは不思議に思う。だが、誰もがいつも冷静でいるとは限らないのだ。まさに主任の言うとおりだった。Mの心の底で、冷静な声が金を貸してはならないと叫び続けていた。その声は貸した金が戻ってこないからではなく、貸すことが大屋を追い詰めることになると警告していた。自らの暮らしが立たない者が息子の学費を心配するのは筋違いだった。息子が親の暮らしを心配すべきに決まっている。しかし、目の前にしゃがみ込む哀れな中年男をMは軽んじてしまった。お金のことであくせくするのがやり切れなかったのだ。Mは無造作に給料袋の封を切り、十万円を抜き出して大屋に渡した。富士見荘の婆さんたちの叱責する声が耳の底で聞こえたが、首を振って耳を閉ざした。十万円を押し頂く大屋の身体は小さく萎みきってしまっていた。
「ありがとう。M、ありがとう、恩に着るよ」
明るさの戻った顔で大屋は何回も頭を下げ、バイクに跨ってMを待つ。空っぽの明るさだけが、ただの哀れな中年男になった大屋の全身を満たしていた。
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アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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