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5.婚姻届(6)

Mは織姫通りの商店街で大屋のバイクを降りた。慌ただしく去っていく大屋の後ろ姿を見送ってから、先日買い物をしたトラッドショップに向かった。夕闇が迫り、涼しさが増したにもかかわらず、店内は冷房をいれたままだ。汗まみれになったガードマンの制服の背が寒々とする。Mの格好に眉をしかめていた店員が先日の客だと思い出して近付いて来た。表情に好奇の色が浮かんでいる。
「大変なお仕事ですね」
精一杯の笑顔を浮かべた店員がMにお世辞を使った。金を取ることは本当に大変だとMも同意して、日に焼けた顔に笑みを浮かべた。それほど迷うこともなく前回と同じメーカーのスーツを選んだ。レモンイエローのサマーウールのスーツは日に焼けた顔によく似合うと思った。インナーも欲しかったが、この前のシルクシャツをクリーニングすることにする。仕事を休めなくなったので歯科医を訪ねるのは次の日曜になる。一切を買いそろえる必要はなかった。思い付くまま行動してきたMにとって、規範に縛られた社会人の暮らしは新鮮だった。すぐに行動できなくてもじっくり計画を練ることができた。確実な希望ににじり寄っていく手応えが感じられる。レジで店員がスーツを畳んでいる間に見るともなくガラスのショーケースの中を見ていた。衣料品店には珍しく、かなりの種類の装身具が並べられている。中央に置いてあったペアのデザインリングが目をひいた。シンプルなプラチナの指輪はマリッジリングといっても良いほど落ち着いたデザインだ。
「お出ししましょうか」
視線に気付いた店員が言って、Mがうなずくのも待たずにショーケースを開けた。赤い宝石箱に入ったペアリングを目の前に置く。大きい方の指輪を手にとって迷わず左の薬指に通した。Mにぴったりのサイズの指輪が左手で輝いている。
「それより大きいサイズの物もお取り寄せできますよ」
男物のリングをはめたMに店員が気をきかせて言った。Mはピアニストの指のサイズを知らない。また、知ったからといって刑務所にいるピアニストが指輪をすることを許されはしない。Mの喜びだけのための指輪だった。だが、それでもよいと思う。すべてが思い出だけになったときに、思い出のよすがとなる物が欲しいと思った。リングにぶら下がった小さな値札にはペアで十万円の金額が記してあった。薬指から痛みと共に指輪を引き抜き、赤い箱に戻した。次にピアニストを訪ねるときは必ずこの指輪を持っていこうと決心する。レモンイエローのスーツは六万円の出費だった。


富士見荘に戻ったMは真っ先に風呂に入った。婆さんたちは一番風呂は湯が固いと言って誰もが敬遠するのだ。Mに続いて婆さんたちが順番に入る。寒い季節は全員が一緒に入ることもあるという。燃料費の節約になるのだ。金貸しの先生は滅多に風呂に入らない。婆さんたちは、垢と一緒に寿命まで流されると思っているのだと言って先生を笑う。Mは広い湯舟で手足をいっぱいに伸ばす。湯は熱いほどだが、勝手に水を足すと婆さんたちの叱責を浴びる。この一か月で熱い湯に短時間で入る習慣が身に付いてしまった。湯舟は広いが古い木製だった。ひょっとすると檜かも知れなかったが、黒ずんでしまって材質は分からない。もうとっくに耐用年数は過ぎている。婆さんたちの余命まで持つかどうか分からないくらいだ。富士見荘では何もかも古ぼけていく。頭の先まで湯に沈めてから風呂を上がった。ショートの髪は本当に便利だ。脱衣所に水滴が落ちぬよう、洗い場で丁寧に身体を拭く。婆さんたちの仕付けは本当に厳しい。裸身にバスタオルをまいただけの格好で大階段を上がって部屋に向かった。不思議なことに婆さんたちは、廊下に湯水をこぼさない限りは裸に寛大なのだ。かえって裸を奨励されているような気さえする。不思議な仕付けだった。

部屋の前まで行ってドアを開けると、金貸しの先生の部屋のドアが開く音がした。久しぶりに先生に挨拶をしようと、踊り場を隔てた薄暗い廊下を見つめた。しかし、ドアから出てきたのはガードマンの制服を着た大屋と腰を屈めたお菊さんだった。二人とも一様に青白い顔をして下を向いている。まるで絶望の淵に立たされたような暗い陰鬱な雰囲気だ。挨拶をしようかと思ったが、二人が下を向いているのを幸い、急いで部屋に滑り込んで静かにドアを閉めた。大屋は先生に借金を断られたに違いなかった。素人のMが貸したくなかったほどだ。プロの先生が貸す道理がない。大屋の甘さに腹が立ってくる。だが、お菊さんの目的は分からなかった。素肌にまいたバスタオルを壁に掛けて素っ裸になる。薄暗い部屋の隅に畳んである敷き布団を広げて部屋の中央に敷いた。桜さんが洗ってくれた白いシーツを布団の上に敷いて蛍光灯をつけた。淡い光がシーツに反射して狭い部屋がまぶしいくらい明るくなる。裸のまま布団の上で胡座をかいた。品のよい座り方ではないが、剃り上げた股間が大きく開いて気持ちがよい。誰に見られるわけでもないし、見られて恥ずかしいとも思わなかった。十分に身体を使って労働している裸身は均整がとれて美しかった。枕元に手を伸ばして黒い文箱を手に取る。二つに折った婚姻届の用紙を取り出し、膝の上で大きく広げた。記入できるところはすべて記載例に従って記入してあった。結婚後に二人が住むはずの住所欄に目がいく。別々の住所がよそよそしく並んで書いてあるのが悲しく侘びしい。国勢調査の年だけに記入する職業欄には迷わず医師と警備員と書いた。後はピアニストの署名捺印と、二人の証人の署名捺印がいるだけだった。ただ「結婚後の氏・新しい本籍」欄はわざと空白にしてある。この欄はピアニストが書くべきだと当初から思い定めていた。
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アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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