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2.ピアニストと呼ばれた少年(2)

市でピアノ教室を主宰していた三井一子さんは都会の出身でした。
牧師のご主人に先立たれてからも、しばらく市に留まっていましたが、十年ほど前に都会に帰りました。現在は都下の専門学校でピアノを教えるかたわら、音楽大学進学を目指す受験生を相手に、自宅のマンションで個人教授をしています。ピアニストを教えていたころ四十歳でしたから、もう七十歳近くなっているはずです。

三井先生は、満面に笑みを浮かべて僕を招き入れてくれました。
通された部屋は十五畳ほどもある広いレッスン室です。フルコンサートのグランド・ピアノが置いてあるため、さしもの広い部屋が手狭に感じられます。先生と僕は、窓際に置かれた白い布張りの椅子に向かい合って座りました。テーブルにおいたハーブティーのカップから、ふくよかな香りが漂ってきます。窓の外は走り梅雨の雨脚で煙っていました。

「遠くからよく来てくださいましたね。市から来た方とお会いするのはしばらくぶりです。本当に懐かしいわ」
歌うような声で先生が言います。少しかん高いけれど、若やいだ声です。とても七十歳になるとは思えません。肌も艶やかで、アイボリーのシルクニットの部屋着がとてもよく似合っています。
「電話でお願いしたとおり、先生の教室の生徒だったころのピアニストのことを知りたいのです。ずいぶん昔の話で申し訳ありませんが、覚えていらっしゃいますか」
僕の依頼を待っていたように、先生が身を乗り出します。
「そう、ピアニストよ。忘れるもんですか。あの子は本当の天才になれた子よ。ピアノを弾く姿を見た人は皆、あの子をピアニストと呼んだわ。アシュケナージはともかく、エッシェンバッハくらいなら、なれたはずよ。ピアノを続けていればね。それは素直で、透明な音が出せたの。お父さんに反対されたそうだけど、お陰で医者になれたのだから、文句は言えないわね」
情熱的に話し始めた先生の言葉は、歯切れ悪く終わってしまいました。期待をかけた弟子の挫折を悔やんだのでしょうか。それとも、不肖の弟子を改めて叱責したのでしょうか。どちらにしろ、若かったころの記憶は、まだ鮮明のようです。
僕は素直に、先生の見解を確かめることにしました。

「先生は今、本当の天才になれた子だとおっしゃいましたが、おもしろい表現ですね。特に意味があるのでしょうか」
言葉尻を捕らえるように問い掛けると、先生の上品な顔に苦笑が浮かびました。膝に置いた両手の長い指先を意味もなく絡ませています。上目遣いに、鋭く僕の目を見ました。
「あなたは礼儀正しいだけでなく、鋭いことも言うのね。小説家志望と言うから、きっと、頭の回転がいいのでしょう。あのころのピアニストとよく似ていますよ。そう、確かに私の言ったことには社交辞令があります。天才に本当も嘘もない。いくら努力しても、なれるものでもないわ。ピアニストには、まだ向上の余地が残されていたと言いたかったのよ。もう、音楽をやめて医者になったのだから、本当のことを言っても怒らないでしょう」
「演奏家には、なれなかったということですか」
「そうでもないわ。上手に弾くだけの演奏者もいますからね。でも、天才とはちょっと違う。天才というのは、生まれつき表現する何物かを持っているということなの。表現の手段がピアノであっても、絵画であっても、文学や建築であってもいいのよ。大切なのは、表現する何物かを持っているという特殊な能力。もちろん能力には大小があるわ。能力がない人もいるのだから、生まれつきの差別があるの。私にも、ほんの少しの能力がある。でも、豊かな能力を持った人を羨んでも仕方ないわ。後は努力でカバーするしかないのよ。人の能力は絶対に平等ではない。私の夫は牧師だったから、だれとでも平等に接したわ。平等という言葉は、そんな風に使うものなの」

興奮気味に、先生は自説を語り始めました。けれど、ピントが少し外れてきてしまいました。このままでは、終日、芸術論が展開されてしまいそうです。話をピアニストに戻さなくてはなりません。
「つまり、ピアニストは上手にピアノが弾けるようになる可能性があったけれど、しょせんそれだけのものだということですか」
「あまりにも身も蓋もない言い方だけれど、結論を言えばそういうことよ。問題は、ピアニストが自らの喜怒哀楽を、ピアノで表現したいと思ったことなの。でも、喜怒哀楽は表現のベースとなる暗黒とは違うのよ。さっきの話に戻るようだけれど、これは大事なことなの。能力といったり、暗黒といったりしているけれど、それは表現の動機のようなもので、能力がある人には分かるの。そして、能力がない人でも、喜怒哀楽で感動することはできる。ピアニストは、生まれつき持っていないものを、喜怒哀楽に置き換えて理解したのね。普通の人の発想でしょう。医者になってくれて、本当によかった。そうそう、確か、ピアニストが最後の発表会で弾いた曲を録音したカセットがあったはずよ。口で説明するより音楽を聴いた方が早いわ」

一人でうなずきながら立ち上がった先生が、壁に造り付けた書棚の奥から黒いカセットテープを取り出してきました。指先で埃を払い、ラベルを読みます。
「これは、午後の部の始めね。ちょうどピアニストのショパンから入っているわ。さあ、聴いてみましょう」
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アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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