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2.ピアニストと呼ばれた少年(5)

蔵屋敷に引き寄せられたMは、三井先生が指摘した二つの魅力に挟まれ、ぬるい温泉に浸かるようにして、自らの傷を癒したのでしょう。進路の岐路に立っていたピアニストが求愛を拒絶されてしまったことも、タイミングが悪かっただけのような気がしました。
Mはすでに、自らの責任と人格で、大きく広がった世界と対峙していく予兆を感じ取っていたのでしょう。ピアニストの純粋な愛に抱き留められて過ごす喜びを、自ら拒絶したに相違ありません。将来に備える心持ちの差が、経験の質量の差によって決まってしまったのです。ささいな違いかも知れませんが、運命的なものを感じさせます。二人の行く道は、完全に分かれてしまったのです。
僕の目から涙が溢れました。

「あなたが泣かなくていいのよ。久しぶりにピアニストを思い出してうれしかったわ。ずっと便りがないけれど、もう結婚して、子供がいるのでしょうね。近況が知りたいわ。今度は、あなたが話してくれる番よ」
先生が僕の目を睨み付けるようにして催促しました。不覚の涙につけ込まれてしまったようです。
慌てて目を拭って立ち上がりました。
三井先生は、死刑囚として獄中で自殺したピアニストの末路を知らなかったのです。音楽に明け暮れて過ごす充実した日々が、先生を世俗から遠ざけていたのでしょう。七十歳近くなる生涯のすべてを、音楽というひとすじの道に集中して生きた態度がまぶしく見えます。「Mの物語」の世界に比べ、羨ましくもありました。けれど、いまさら先生に、過酷な現実と対面してもらう必要はありません。僕は恐縮した風を装って身を縮めました。

「すみません。貴重なお話に夢中になって、次の約束に遅れてしまいそうです。必ずまたお邪魔しますから、今日は許してください」
緊張した声で詫びを言って、最敬礼しました。ゆっくり顔を上げると、立ち上がった先生が微笑んでいます。年相応の、余裕に溢れた表情が戻っていました。
「気にしなくていいのよ。私は、若い人のお役に立てれば、それで十分。毎日、そうして暮らしているの。私の見たところ、あなたはピアニストより筋がよさそうよ。どう、今からでも遅くないわ。私について、ピアノを弾いてみない」
突然の申し出に、僕は返事に窮してしまい、どぎまぎして玄関に向かいました。背中に先生の笑い声が降ってきます。天才が宿る先生の言葉に間違いはありません。僕がピアノを練習すれば、きっと最高のピアニストになれると確信しました。


マンションから駅に続く道を、霧雨に濡れながら歩きました。ことのほか冷たい雨です。でも、僕の心の底には温かいものが残っています。今回の旅には善意が満ちていたようです。華やいだMの気持ちが伝わってきます。ピアニストたちを置き去りにして去ったMが、少しばかり憎らしく感じられました。

次は、鉱山の町を訪ねます。
僕の祖母が住む町です。けれど、まだ会うつもりはありません。当時の祖母は祖父と離婚して都会にいたのです。そして、僕の父の修太は、少年ピアニストと同じように、祖父と二人でMと一緒に暮らしたのです。
つらい旅になる予感がします。
プロフィール

アカマル

Author:アカマル
http://prima-m.com/
官能のプリマ全10章
上記サイトにて公開中。

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